教皇ベネディクト十六世の166回目の一般謁見演説 キリスト教一致祈祷週間

1月21日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の166回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、1月18日(日)から25日(日)まで行われている「キリスト教一致祈祷週間」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 「キリスト教一致祈祷週間」が今週の日曜日から始まり、次の日曜日の聖パウロの回心の祝日に終わります。「キリスト教一致祈祷週間」は貴重な霊的行事です。この行事はますますキリスト者の間に広まっています。それはイエスがご受難の前に二階の広間で御父にささげた祈りに沿ったものであり、いわばその祈りへのこたえです。「すべての人を一つにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17・21)。主はこの祭司としての祈りの中で4回、弟子たちを「一つにしてください」と願っています。この一致は、御父と御子の一致の姿に従ったものです。この一致は、御子が御父にご自分をささげた模範に基づくことによって、すなわち、自分から出て、キリストと一致することによって初めて成長できます。さらにイエスはこの祈りの中で、2回、この一致の目的も述べます。すなわち、世が信じるようになるためです。それゆえ、完全な一致は、世における教会生活と宣教と結びついています。教会は一致を生きなければなりません。この一致は、教会がキリストと一致し、この世を超越することによって初めてもたらされます。この世から超越することは、キリストが真理であることのしるしだからです。わたしたちの責務はこれです。一致のたまものを世において目に見えるものとすること。そして、そのことを通じて、わたしたちの信仰を信頼できるものとすることです。そのため、すべてのキリスト教共同体が、この偉大な目的に達するためにできる限りのことをしなければならないという切迫した必要を自覚することが重要です。しかし、一致は何よりもまず主の与える「たまもの」であると知りながらも、同時に、倦(う)むことなく、信頼をこめて祈り求めることが必要です。自分から出て、キリストに向かうこと――このようなキリストとの関係のうちに、初めてわたしたちは真の意味で互いに一致することができます。これこそが、この「一致祈祷週間」が示す、すべての教会・教会共同体のキリスト信者への招きです。親愛なる兄弟姉妹の皆様。速やかに、寛大な心をもって、この招きにこたえようではありませんか。
 今年の「キリスト教一致祈祷週間」は、預言者エゼキエルの書からとったことばをわたしたちの黙想と祈りのために示します。「それらはあなたの手の中で一つとなる」(エゼキエル37・17)。このテーマは韓国のエキュメニカルなグループによって選ばれ、その後、一致祈祷週間国際準備チームが世界中で使用するために検討しました。一致祈祷週間国際準備グループは、教皇庁キリスト教一致推進評議会と、ジュネーブの世界教会協議会の代表によって構成されています。この準備の過程そのものが、真のエキュメニズムの実り豊かで刺激的な活動です。
 そこからテーマがとられた預言者エゼキエルの書の箇所の中で、主は預言者に二本の木をとるように命じます。一本はユダとその部族の象徴であり、もう一本はヨセフとヨセフと結ばれたイスラエルの全家の象徴です。主は預言者に、二本の木を「近づけて」、一本の木とするように命じます。それが、預言者の手の中で「一つ」となるためです。この一致のたとえの意味は明らかです。説明を求める「民の子ら」に対して、エゼキエルは天からの照らしを受けていいます。主ご自身が二本の木をとってまとめます。それは、互いに分かれた二つの王国とその部族が「わたしの手の中で一つとなる」ためです。二本の木をつないだ預言者の手は、神ご自身の手とみなされます。神はその民を、ついには全人類を集めて一つにするからです。この預言者のことばをキリスト者にも当てはめることができます。このことばは勧めます。キリストのすべての弟子の一致が実現するように、祈り、できる限りのことをしなさい。わたしたちの手が、一致をもたらす神の手の道具となるように働きなさい。この勧めは、特に最後の晩餐の後のイエスのことばの中で、感動的で悲痛なものとなります。主は願います。自分の民全体が――そして主はこの民のうちに未来の教会、すなわち未来の世代の教会を見ておられます――忍耐と堅忍をもって、完全な一致という目標を目指して歩むようにと。この努力は、主の命令を謙遜に聞き、従順に従うことを意味します。主がこの努力を祝福し、実り豊かなものとしてくださるからです。預言者エゼキエルはわたしたちに約束します。主ご自身が、すなわち、わたしたちの唯一の主であり、唯一の神であるかたが、その「手の中で」わたしたちを一つに集めてくださいます。
 聖書の箇所の第二の部分で、諸部族がただ一つの王国へと一致することの意味と条件が深く考察されます。イスラエルの人々は、異邦人の中に散らばることによって、間違った礼拝を知り、生活に関する誤った考えを抱き、神の掟と異なる習慣を取り入れました。今や主は宣言します。彼らは二度と異邦の民の偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない(エゼキエル37・23参照)。主はあらためていいます。彼らを罪から解放し、その心を清めなければならない。主はいわれます。「わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める」。こうして「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(同)。このような内的な刷新によって、「彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う」。そして預言者のことばは決定的かつ完全な救いの約束で結ばれます。「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。・・・・わたしは彼らの真ん中にわたしの聖所を置く」(エゼキエル37・26)。
 エゼキエルの幻は特にエキュメニズム運動全体に多くのことを語ってくれます。なぜなら、この幻は、神の民に属するすべての人のうちで真の内的刷新が必要不可欠であることを明らかにするからです。この内的刷新を可能にしてくれるのは神だけです。わたしたちもこのような刷新に対して心を開かなければなりません。なぜなら、世の諸国民の間に散らばるわたしたちも、神のことばからほど遠い習慣を身につけているからです。第二バチカン公会議の『エキュメニズムに関する教令』はいいます。「教会の刷新はすべて、本質的には教会の召命に対する忠実さの増大にあるのであるから、これこそ疑いもなく一致への運動が起こった理由である」(『エキュメニズムに関する教令』6)。すなわち、神の召命にますます忠実に従わなければなりません。『エキュメニズムに関する教令』は心の回心の内的な側面をも強調します。教令は続けて述べます。「真の意味のエキュメニズムは内的な回心なしにはありえない。事実、新しい心、自己放棄、豊かな惜しみなき愛から一致への望みが生まれ、熟してくるのである」(『エキュメニズムに関する教令』7)。こうして「キリスト教一致祈祷週間」はわたしたち皆にとって、真の意味で回心し、神のことばに聞き従い、信仰を深めるための促しとなります。
 「一致祈祷週間」は、主がどれほど分かれたキリスト者と教会・教会共同体をすでに互いに「一つに」してくださったかを、主に感謝するためのよい機会でもあります。このような一致の精神に促されて、カトリック教会は昨年、堅固な確信と深い希望をもって、東方と西方のすべての教会・教会共同体と兄弟として尊敬し合う関係を維持し続けました。状況は場合によっては積極的であり、場合によってはより困難です。しかし、さまざまな状況の中で、カトリック教会は、完全な一致の回復に向けて力を尽くして取り組むよう努めました。教会間の関係と神学対話の継続は、わたしたちを励ます霊的な歩み寄りのしるしとなりました。わたし自身も、ここバチカンにおいて、また、使徒的訪問の中で、さまざまな地域から来たキリスト者とお会いでき、うれしく思います。わたしは深い喜びをもって、3回、バルトロマイ一世世界総主教をお迎えしました。そして、特別な出来事として、バルトロマイ一世が兄弟としての教会への温かい心と、将来への信頼をこめた確信をもって、先のシノドス総会の中で行った講話を聞きました。アルメニア使徒教会の二人の公主教、エチミアジンのカレキン二世とアンテリアスのアラム一世をお迎えできたことをうれしく思います。最後に、わたしはモスクワの総主教座とともに、キリストの愛する兄弟アレクシー二世のご逝去を悲しみました。わたしは、尊敬すべき偉大な東方教会の新しい総主教の選出を準備しているこのわたしたちの兄弟と、祈りにおいて一致し続けています。同じように、わたしは西方のさまざまなキリスト教共同体の代表者のかたがたともお会いすることができました。わたしたちはこれらのキリスト教共同体とともに、キリスト者が現代、世界において一致して行わなければならない重要なあかしに関する対話を続けています。世界はますます分裂し、文化的、社会的、経済的、倫理的な性格をもった多くの問題に直面しているからです。今述べたことを初めとして、多くの会見、対話、友愛に基づく行動を主が実現させてくださったことを、主に喜びをもってともに感謝したいと思います。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。「キリスト教一致祈祷週間」が与えてくれる機会を用いて、主に願おうではありませんか。わたしたちがエキュメニズムの取り組みと対話を継続し、できることならば深めることができますように。聖パウロの生誕二千年を記念するパウロ年との関連で、使徒パウロが教会一致に関して書き残したことに触れないわけにはいきません。毎水曜日、わたしはパウロの手紙と貴重な教えについて考察しています。ここでわたしは、パウロがエフェソの共同体にあてて書いたことをもう一度簡単に取り上げます。「からだは一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェソ4・4-5)。聖パウロの望みを自分たちのものとしようではありませんか。聖パウロは唯一の主と、主の神秘的なからだである教会の一致のために全生涯をささげました。そして、殉教によって、キリストへの愛と忠実の最高のあかしを示したのです。
 聖パウロの模範に従い、その取り次ぎにより頼みながら、さまざまな霊的・司牧的行事と共同の祈祷集会によって、すべての共同体が一致のための取り組みを深めることができますように。こうした行事や集会は、この「一致祈祷週間」においてますます数多く、熱心に開催されるようになっています。そして、ある意味で完全な一致の日を前もって味わわせてくれます。祈ろうではありませんか。教会・教会共同体の間で、真理に基づく対話を継続することができますように。真理に基づく対話は、分裂を克服するために不可欠だからです。また、愛に基づく対話を継続できますように。愛に基づく対話は、神学対話の条件であり、共同のあかしのためにともに生きることを助けてくれるからです。わたしたちは、完全な一致の日が早く訪れることを心から望みます。そのとき、わたしたちの唯一の主のすべての弟子はついにともに感謝の祭儀(ユーカリスト)を祝います。感謝の祭儀(ユーカリスト)は、世のいのちと救いのための神のいけにえです。マリアの母としての執り成しを祈り求めようではありませんか。マリアの助けによって、すべてのキリスト者が神のことばにいっそう注意深く耳を傾け、一致のために深く祈る態度を培うことができますように。

PAGE TOP