教皇ベネディクト十六世の169回目の一般謁見演説 聖ヨアンネス・クリマクス

2月11日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の169回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する新しい連続講話を開始し、その第1回として、聖ヨアンネス・クリマクスについて解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  使徒パウロについての20回の講話を行った後、今日からわたしは中世の東方・西方教会の偉大な著作家の紹介を再び始めたいと思います。今日ご紹介するのは、クリマクスと呼ばれるヨアンネス(Ioannes Klimax; Ioannes tes Klimakos 579以前-649年頃)です。「クリマクス」はギリシア語の「クリマコス」をラテン語化したものです。「クリマコス」は「梯子(クリマクス)の」の意味です。「クリマクス」は彼の主著の標題です。この著作の中でヨアンネスは、神へと至る人間の生の梯子について述べています。ヨアンネスは575年頃生まれました。ですから、クリマクスが生涯を送った時代は、東ローマ帝国の首府ビュザンティオンが歴史上最大の危機に見舞われたときでした。突然、帝国の地理的状況が変わり、蛮族の侵入の激流が帝国の構造全体を崩壊させました。残ったのは教会の構造だけでした。教会の構造は、この困難な時代の中で、とくに修道院のつながりを通じて、宣教活動と人道的活動と社会・文化活動を継続しました。修道院の中で活躍したのは、まさにヨアンネス・クリマクスのような優れた修道者たちでした。
  シナイ山はモーセがそこで神と出会い、エリヤが神の声を聞いたところです。このシナイ山でヨアンネスは生き、その霊的体験を語りました。ヨアンネスについての情報は、ライトゥの修道士ダニエルが書いた短い『伝記』(PG 88, 596-608)によって伝えられています。シナイ山の修道士ヨアンネスは16歳のとき、「長老」マルテュリオスの弟子となりました。「長老」とは「豊かな知恵をもつ」という意味です。20歳頃、ヨアンネスはシナイ山のふもとのトーラの洞窟で隠修者として生きることを決めました。トーラは現在の聖カタリナ修道院から8キロのところです。しかし、独住は、ヨアンネスが、霊的指導を受けたいと望む人々と会い、アレクサンドレイアに近いいくつかの修道院を訪問することを妨げませんでした。実際、ヨアンネスの隠修者としての退避は、世や人間の現実から逃避することとはほど遠いものでした。それは彼を他の人や(『伝記』5)神への(『伝記』7)燃えるような愛へと導きました。ヨアンネスは40年間、神への愛と人々への愛のうちに隠修生活を過ごし、その間、涙を流し、祈り、悪霊と戦いました。その後、彼はシナイ山の大修道院の修道院長となり、修道院での共住生活に戻りました。けれども、死の数年前、ヨアンネスは隠修生活が懐かしくなり、同じ修道院の修道士の兄弟に共同体の指導をゆだねました。ヨアンネスは650年以降に亡くなりました。ヨアンネスはシナイ山とタボル山という二つの山の間で生涯を送りました。彼は、モーセがシナイ山の上で見、使徒たちがタボル山の上で見た光を輝かせたということができます。
  ヨアンネスは、すでに述べたように、その著作『梯子(クリマクス)』によって有名になりました。『梯子(クリマクス)』は西方では『楽園の梯子』(Scala paradisi: PG 88, 632-1164)と呼ばれます。シナイ山の近くのライトゥ修道院の修道院長の懇請によって書かれた『梯子』は、霊的生活に関する完全な論考です。この著作の中でヨアンネスは、世を捨てることから愛の完成に至るまでの修道士の歩みを述べます。この著作によれば、この歩みは30の段階をたどります。おのおのの段階は次の段階と結ばれています。この歩みは3つの連続する時期にまとめることができます。第一の時期は、福音の幼子の状態に戻るために、世を捨てることを表します。それゆえ、本質的なのは、放棄することではなく、イエスが招いたことと結ばれることです。すなわち、霊的な意味でのまことの幼子の状態に戻り、幼子のようになることです。ヨアンネスは解説していいます。「優れた基礎は3つの基盤と3つの柱から作られる。無垢と断食と貞潔である。キリストとの関係で乳飲み子である者は皆(一コリント3・1参照)、肉体的な意味での乳飲み子の模範に倣って、これらのことがらから始めなければならない」(1, 20: 636)。親しい人や場所から進んで離れることによって、霊魂は神との深い交わりに入ることができるようになります。このような自己放棄は従順へと導きます。従順は、はずかしめを通して謙遜へと至る道です。兄弟からはずかしめられることにはこと欠かないからです。ヨアンネスは解説します。「自分の意志を極みまで放棄し、自分の人格を、主と結ばれた師にゆだねる人は幸いである。その人は十字架につけられたかたの右の座に着くであろう」(4, 37: 704)。
  歩みの第二の時期は、情念との霊的な戦いです。梯子の各段階は主要な情念と結ばれています。そこでは、情念が定義され、分析されるとともに、治療の指示と、対応する美徳の提示が行われます。これらの段階全体が、わたしたちがもっているもっとも重要な霊的戦略であることはいうまでもありません。しかし、情念との戦いは、否定的な作業にとどまらず、聖霊の「火」のたとえによって、積極的な観点から考察されます。「この辛く困難な戦いを立派に成し遂げる者は皆(一テモテ6・12参照)・・・・非物質的な火が自分のうちに住むことを本当の意味で望むなら、自らを火の中に投げこむようになる」(1, 18: 636)。聖霊の火は、愛と真理の火です。聖霊の力だけが勝利を約束できます。しかし、ヨアンネス・クリマクスによれば、情念はそれ自体として悪いものではないことを自覚することが大事です。情念が悪いものとなるのは、人間の自由が行う、その悪い使い方のせいです。情念を清めるなら、それは修徳と恵みによって一致した力をもって神に向かう道を人間に開きます。「造り主から秩序と原理を与えられるなら・・・・美徳は限りないものとなる」(26/2, 37: 1068)。
  歩みの最後の時期は、キリスト教的完徳です。この完徳は『梯子』の最後の7段階で行われます。これは霊的生活の最高の段階です。この段階を経験できるのは、静寂と内的平和に達した、「ヘシュカスト」すなわち独住生活者です。しかし、多くの熱心な共住生活者もこの段階に近づくことができます。ヨアンネスは、砂漠の師父に従い、最初の3つの段階、すなわち、単純さ、謙遜、識別の中で、最後のもの、すなわち識別力がもっとも重要だと考えます。あらゆる行いを識別しなければなりません。実際、すべてのことは深い動機に基づいているため、これらの動機をふるいにかけなければならないからです。ここで人は人格の中心に入ります。そして、隠修者、キリスト者のうちに霊的感覚と、神のたまものである「心の感覚」をあらためて呼び覚まします。「われわれは、万事の導きであり規則である神に従って、自分の良心を調べなければならない」(26/1, 5: 1013)。こうして人は霊魂の静寂(ヘーシュキア)に達します。この静寂によって霊魂は深い神の神秘を目にすることができるようになります。
  静寂と内的平和の状態は、ヘシュカストを祈りのために整えます。ヨアンネスは祈りを「身体的な祈り」と「心の祈り」の二つに分けます。「身体的な祈り」は身体の姿勢の助けを必要とする人の祈りです。手を伸ばす、うめき声を上げる、胸をたたくなどです(15, 26: 900)。「心の祈り」は自発的な祈りです。なぜならそれは、霊的感覚の覚醒から生まれるからです。霊的感覚は、神から与えられるたまものです。この神にわたしたちは身体的な祈りをささげるのです。ヨアンネスにおいて、「心の祈り」は「イエスの祈り(イエスー・エウケー)」と呼ばれます。この祈りは、イエスのみ名を呼び求めること、それも呼吸と同じように呼び求め続けることです。「イエスを思い出すことをあなたの呼吸と一つにしなさい。そうすればヘーシュキア」すなわち内的な平和「の益がわかるであろう」(27/2, 26: 1112〔手塚奈々子訳、『中世思想原典集成3 後期ギリシア教父・ビザンティン思想』平凡社、1994年、515頁〕)。ついに祈りはきわめて単純なものとなり、ただ「イエス」ということばだけが自分の呼吸と一つになります。
  「聖霊による覚めた酔い」に満たされた、梯子の最後の段階(第30段)は、「美徳の三位一体」、すなわち、信仰と希望と、何よりも愛を扱います。ヨアンネスは愛に関して「エロース(人間的な愛)」についても語ります。「エロース」は霊魂と神の婚姻による一致を表すからです。ヨアンネスは愛の熱意、光、神による清めを表すために再び「火」というたとえを用います。人間の愛の力は神へとあらためて方向づけられます。よいオリーブの枝が野生のオリーブの木に接ぎ木されるのと同じようにです(ローマ11・24参照)(15, 66/893)。ヨアンネスは確信していました。この「エロース」の深い体験は、情念に対する激しい戦いよりも霊魂を進歩させることができると。なぜなら、「エロース」の力のほうが大きいからです。それゆえ、わたしたちの歩みの中では、積極的なもののほうが優先されます。しかし、愛は希望との関係においても考察されます。「愛の力は希望である。希望によってわたしたちは愛の報酬を待ち望む。・・・・希望は・・・・愛の扉・・・・である。・・・・希望が欠如すれば愛も消失する。辛労は希望につなぎとめられ、労苦は希望によりすがる。あわれみは希望を取り囲む」(30, 16: 1157〔前掲手塚奈々子訳、536頁。ただし一部文字遣いを改めた〕)。『梯子』の終わりの部分は著作の要約を含みます。そこで著者は神の口を用いて語ります。「この階段が、もろもろの徳の霊的な構成をあなたに教えてくれるように。その頂上にわたしはしっかりと立っている。わたしの偉大な弟子(聖パウロ)がいったように。『今やかの三つ、信仰、希望、愛が残っている。すべてのなかでもっとも偉大なのは愛である』(一コリント13・13)」(30, 18: 1160〔前掲手塚奈々子訳、537頁。ただし一部文字遣いを改めた〕)。
  ここで最後の問いが生じます。1400年前に生きた隠修修道士が書いたこの『梯子』は、現代のわたしたちにも何かを語りかけることができるでしょうか。大昔の時代にシナイ山でいつも暮らしていた人の実存の歩みが、わたしたちにとっても何らかの現代的な意味をもちうるでしょうか。初めは、こたえは「否」であるように思われます。ヨアンネス・クリマクスはわたしたちからとてもかけ離れた人だからです。けれども、少し近づいて見るなら、次のことが分かります。すなわち、修道生活は、洗礼を受けた者、すなわちキリスト者の生活の偉大な象徴にすぎないということです。修道生活は、いわば、わたしたちが毎日小文字で書いていることを大文字で示します。修道生活は、洗礼を受けて、キリストの死と復活にあずかった者の生とはいかなるものであるかを示す、預言的な象徴です。わたしにとってとくに重要なのはこれです。すなわち、梯子の頂点の、最後の段階は、同時に、信仰と希望と愛という、基本的で、第一の、もっとも単純な美徳だということです。これらの徳は、道徳的な英雄だけが近づけるものではなく、神がすべての洗礼を受けた者に与えるたまものです。これらの徳によってわたしたちの人生も成長します。始まりは終わりでもあります。出発点は到達点でもあります。歩みの全体は、信仰と希望と愛がいっそう徹底的に実現されることを目指します。梯子の全体はこれらの徳のうちにあります。基本となるのは信仰です。信仰の徳は、わたしが自分の傲慢、自分の思いを捨て、自分を他の人にゆだねず自分だけで判断しようとするうぬぼれを捨てることを意味するからです。このような謙遜と、霊的な幼子の状態へと向かう道が必要です。傲慢な態度をやめることも必要です。傲慢な態度はこういわせるからです。「21世紀の現代に生きるわたしのほうが、大昔の人が知ることができたよりもよくものごとを知っている」。その反対に、聖書だけに身をゆだねること、主のことばだけに身をゆだねること、謙遜に、信仰の開く世界に近づくことが必要です。それは、そこから、広大な世界に、神の世界に入れるようになるためです。このようにしてわたしたちの霊魂は成長します。神に対する心の感覚が成長します。ヨアンネス・クリマクスは適切にもいいます。希望だけが、わたしたちに愛を生きることを可能にします。わたしたちは希望によって日々のことがらを超越することができます。わたしたちは地上の日々の中で成功することを望むのではなく、最終的に神ご自身が現れることを待ち望んでいます。このようなしかたで自分の心を広げ、自分を超越することによって、初めてわたしたちは人生を偉大なものとすることができます。日々の労苦と失望を耐え忍ぶことができます。報いを期待せずに、他の人にいつくしみを示せるようになります。神はわたしたちが目指す偉大な希望です。この神がおられるからこそ、わたしは人生を少しずつ進み、そこから、愛を学ぶことができます。祈りの神秘、すなわち、個人的に神を知ることの神秘は、愛のうちに隠されています。単純な祈りだけが、神である師の心に触れることを目指します。こうしてその人の心は開かれ、神である師からそのいつくしみと愛を学びます。ですから、この信仰と希望と愛の「梯子」を用いようではありませんか。そうすれば、まことのいのちに至ることができるでしょう。

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