教皇ベネディクト十六世の170回目の一般謁見演説 聖ベーダ・ウェネラビリス

2月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の170回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第2回として、「聖ベーダ・ウェネラビリス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日取り上げるのはベーダ(Beda Venerabilis 673/674-735年)という名の聖人です。ベーダはイギリス東北部、正確にいえばノーサンブリアで672/673年に生まれました。自ら語るとおり、ベーダの両親は、7歳のときに彼を近くのベネディクト修道院に預けて教育を受けさせました。ベーダはいいます。「わたしはそのときから生涯の全期間を同じ修道院の庵で過ごし、聖書の研究に没頭した。修道院規律の遵守や教会での毎日の歌の勤行の間にあって、常に学ぶこと、教えること、書くことに喜びをもった」(『イギリス教会史』:Historia ecclesiastica gentis Anglorum V, 24〔長友栄三郎訳、創文社、1965年、455-456頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。実際、ベーダは初期中世の知識人の中でもっとも傑出した人物となりました。なぜなら、ベーダは多くの貴重な写本を用いることができたからです。ベーダの修道院長は、ヨーロッパ大陸とローマをしばしば訪ねることによって、これらの写本をベーダのもとにもたらすことができたのでした。ベーダはその教えと著作の名声によって当時の主要な人物と深い親交をもつことができました。これらの人物はベーダが著作を続けるよう励ましました。それは、彼らがそこから多くの益を得られたからです。ベーダは病気になっても著述をやめず、内的な喜びを保ち続け、この喜びを祈りと歌によって表しました。ベーダはそのもっとも重要な著作である『イギリス教会史』を次の祈願をもって結びます。「恵み深きイエスよ、わたしはあなたにお祈りします。あなたの智のことばを甘く飲み込むようにと恵み深く与えてくださった者に、その者がいつかあらゆる智の泉であるあなたのもとに行き、常にあなたの面前に現れるように、ご慈愛を与えてくださいますことを」(前掲長友栄三郎訳、459頁。ただし文字遣いを一部改めた)。ベーダの死は735年5月26日に訪れました。それは主の昇天の祭日でした。
  ベーダの神学的考察の絶えざる源泉となったのは聖書です。聖書のテキストの批判的研究を注意深く行いながら(ベーダが研究したウルガタのアミアティヌス写本[Codex Amiatinus]が伝存しています)、ベーダは聖書の注解を行いました。その際ベーダはキリストを鍵として用いながら聖書を読みました。すなわち彼は二つのことがらを再び結びつけました。すなわち、まず彼は、テキストがまさしく何をいおうとしているかに耳を傾けました。彼は本当に耳を傾け、テキストそのものを理解することを望みました。他方でベーダは、唯一の神のことばである聖書を理解するための鍵となるのはキリストであることを確信していました。人はキリストとともに、キリストの光のもとで、「一つの」聖書である旧約と新約を理解できるからです。旧約と新約の出来事はともに歩みます。それらはキリストへと向かう歩みです。たとえそれがさまざまに異なるしるしと文書によって書かれているとしてもです(ベーダはそれを「諸秘義の調和(concordia sacramentorum)」と呼びました)。たとえば、モーセが荒れ野に建てた契約の幕屋と、エルサレムの第一神殿と第二神殿は、教会の原型です。教会は、キリストと使徒の上に生きた石によって築かれ、聖霊の愛によって固められた新しい神殿だからです。また、古代のエルサレム神殿の建設には、異邦人も貢献しました。すなわち、貴重な材料と、異邦人の棟梁の経験を積んだ技術が用いられました。それと同じように、教会の建設にも、ユダヤ人やギリシア人やラテン人といった古代人出身の使徒や教師だけでなく、新しい諸民族出身の使徒と教師が貢献します。ベーダはこれらの新しい諸民族の中にアイルランド・ケルト人とアングロサクソン人を挙げられることに喜びを覚えます。聖ベーダは教会の普遍性が成長するのを見いだします。教会は特定の文化に限定されません。むしろ教会は、キリストに心を開き、キリストのうちに到達点を見いだす、世界のあらゆる文化によって構成されるのです。
  ベーダが好んだもう一つのテーマは教会史です。使徒言行録に述べられた時代に興味をもったベーダは、その後の教父と公会議の歴史をたどりました。ベーダは聖霊のわざが歴史において継続すると信じたからです。『大年代記』(Chronica Maiora)の中で、ベーダは「主の受肉以来の(ab incarnatione Domini)」世界暦の基礎となるべき年代記を考察します。それまで年代はローマ建国から数えられていました。真の基準となるべき歴史の中心はキリストの降誕であると考えたベーダは、このように主の受肉から始めて歴史を数える暦を残しました。ベーダは最初の6つの公会議とその発展を記録しました。その際彼は、キリストとマリアと救いに関する教えを忠実に示し、単性説、単意説、聖画像破壊論者、新ペラギウス主義の異端を批判しました。最後にベーダは、文献学的厳密さと優れた文学性をもって、すでに言及した『イギリス教会史』を著しました。この著作のゆえにベーダは「イギリス歴史学の父」とみなされます。ベーダが明らかにしようとした教会の特徴は次のものです。(a)教会は「普遍的」です。「普遍的」であるとは、伝統に忠実であると同時に、歴史の発展に開かれていることです。また、多様性、すなわち異なる歴史と文化のうちに一致を探求することです。これは教皇大グレゴリオ(Gregorius Magnus 540頃-604年、教皇在位590-没年)が、イングランドの使徒、カンタベリーの聖アウグスチヌス(Augustinus episcopus Cantuariensis 605年頃没)に与えた指示に従ったものです。(b)教会は「使徒的またローマ的」です。このことに関して、ベーダは、アイルランド・ケルト教会とピクト教会がすべて、復活祭をローマの教会暦に従って一致して祝うよう説得することが何よりも重要だと考えました。復活祭と典礼暦全体の正確な日付を決めるためにベーダが科学的に計算を行った『暦について』(De temporibus)は、全カトリック教会の基準となりました。
  ベーダは典礼神学の優れた教師でもありました。主日と祭日の『福音書説教集』(Homiliae evangelii)の中で、ベーダは真の秘義教話を展開します。その際彼は、信仰の神秘を喜びをもって祝い、生活の中でそれを一貫したしかたで実行するよう信者を教育しました。信者はまた、キリストの再臨の際にこの神秘が完全に現されるのを期待します。そのときわたしたちのからだは栄光を受け、天上の永遠の神の典礼で奉納行列をささげることができます。(エルサレムの)チリロ(Kyrillos 315頃-386/387年)、アンブロジオ(Ambrosius Mediolanensis 339頃-397年)、アウグスチヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)のカテケージスの「現実主義」に従って、ベーダはこう教えます。キリスト教入信の秘跡によって、すべての信者は「キリスト者になるだけでなく、キリストになります」。実際、信者の魂は、マリアに倣って、神のことばを受け入れ、愛をもって守るたびごとに、あらためてキリストを宿し、生みます。そして、新たに洗礼を受けた者の一団が復活祭で秘跡を受けるたびごとに、教会は「自らを生みます」。あるいは、もっと大胆な表現を用いるなら、教会は「神の母」となり、聖霊の働きによって、御子を生み出すわざにあずかります。
  聖書と典礼と歴史を組み合わせた、このような神学的考察を行うことによって、ベーダはさまざまな「生活の身分」の人に時代に即したメッセージを与えます。(a)学者(doctores ac doctrices)に対して、ベーダは二つの根本的な務めを思い起こさせます。一つは、神のことばの神秘を究め、この神秘を信者に魅力的なしかたで示すことです。もう一つは、複雑な異端を避け、「単純なカトリック信仰」を守りながら、教義の真理を教えることです。小さな者、身分の卑しい者に注意を向けなければなりません。神はこのような人々に神の国の神秘を示すことを望まれたからです。(b)司牧者に対するメッセージはこれです。司牧者は宣教を第一の務めとしなければなりません。宣教は、ただことばや聖人伝を語るだけでなく、イコンや行列や巡礼を重視することによって行うべきです。ベーダは司牧者に、ベーダ自身が行ったのと同じように、俗語を用いることを勧めます。ベーダはノーサンブリア語で「主の祈り」や「信条」の解説を行い、生涯の最後の日までヨハネによる福音書の俗語による注解を書き続けました。(c)奉献生活者は、聖務日課に献身し、兄弟の交わりを喜びをもって生き、修徳と観想を通じて霊的生活において進歩します。この人々に対して、ベーダは使徒職を大事にすることを勧めます。だれも福音を自分だけのものとすることはできません。むしろ福音は他の人のためにも与えられたと考えなければなりません。使徒職には、司教と協力して、できて間もないキリスト教共同体のためのさまざまな司牧活動を行うことや、「神の愛のための巡礼者(peregrini pro amore Dei)」として国外で異教徒への福音宣教に進んで従事することがあります。
  このような観点に立ちながら、ベーダは『雅歌注解』(In Cantica Canticorum allegorica expositio)の中で、シナゴーグと教会を、神のことばを広めるための協力者として示します。花婿であるキリストは望みます。「福音宣教の労苦によって黒くなった」――これは明らかに雅歌のことばを踏まえたものです。雅歌の中で花嫁はいいます。「わたしは黒いけれども愛らしい(Nigra sum sed formosa)」(雅歌1・5)――熱心な教会が、他の畑またはぶどう畑を開拓し、新しい人々の間に「仮の小屋ではなく、堅固な住まい」を建てるのを目指しなさい。つまり、福音を社会構造と文化制度の中に根づかせなさい。このような観点から聖なる博士ベーダは信者に勧告します。熱心に宗教を学びなさい。そのために、「使徒たちに食べる暇も与えなかった、飽くことを知らない福音書の群衆」のようになりなさい。ベーダは信者に絶えず祈る方法を教えます。「典礼の中で祝ったことを生活の中で再現しなさい」。そして、あらゆる行いを、キリストとの一致のうちに、霊的ないけにえとしてささげなさい。ベーダは親たちに説きます。自分たちの小さな家庭の領域の中でも、子どもをキリスト者として教育することによって、「牧者や指導者の司祭職」を実践することができます。ベーダはいいます。わたしは(男も女も、結婚した人も独身の人も含めて)多くの信者が「適切な形で行うなら、毎日聖体拝領することを可能とするような、非の打ちどころのない行いができる」(『エグベルト宛書簡』:Epistula ad Ecgberctum, ed. Plummer, p. 419)ことを知っています。
  ベーダはすでに生前からその聖性と知恵で有名でした。この評判によって、適切にもベーダは「尊者(venerabilis)」という称号を与えられました。この称号は教皇セルジオ一世(Sergius I 在位687-701年)が701年にベーダの修道院長に書いた手紙の中で用いたものです。この手紙の中でセルジオ一世は、ベーダを一時的にローマに赴かせて、普遍教会にかかわる問題について意見を述べさせるよう頼みました。ベーダの著作は、死後、イギリス国内とヨーロッパ大陸に大きく広まりました。ドイツの偉大な宣教者である司教聖ボニファティウス(Bonifatius 672/675-754年)は、ヨーク大司教とウェアマスの修道院長に、ベーダの著作の一部の写本を作り、送ってほしいと何度も頼みました。それは、ボニファティウスとその同僚が、ベーダの著作の発する霊的な光を味わうことができるためです。1世紀後、ザンクト・ガレンの修道士ノートケル・バルブルス(Notker Balbulus 840頃-912年)は、ベーダの特別な影響を意識しつつ、ベーダを新しい太陽にたとえました。神はこの新しい太陽を東方にではなく西方に昇らせて、世を照らしました。これは単なる修辞的な誇張ではありません。ベーダがその著作によってキリスト教的ヨーロッパの形成に実際に貢献したことは事実です。このヨーロッパにおいて、さまざまな人と文化が融合し、キリスト教信仰から霊感を受けた、統一的な姿をとったのです。祈りたいと思います。現代においても、ヨーロッパ大陸全体の統一を維持するために、ベーダのような優れた人物が与えられますように。祈りたいと思います。わたしたち皆が自分の共通の起源を再発見し、深い意味で人間的で、真の意味でキリスト教的な一つのヨーロッパを築くことができますように。

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