教皇ベネディクト十六世の171回目の一般謁見演説 聖ボニファティウス

3月11日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の171回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の […]

3月11日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の171回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第3回として、「聖ボニファティウス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見の終わりに、教皇は、最近、北アイルランドで起きたテロ事件について、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「二人の若いイギリス兵士と一人の警察官が北アイルランドで殺害された知らせに接し、深い悲しみを覚えています。わたしは、犠牲者のご家族と怪我をしたかたに霊的に寄り添うことを約束するとともに、このようなテロ行為を強く非難します。テロ行為は人命を粗末に扱うばかりか、北アイルランドで進行している政治過程を深刻な形で危険にさらし、この過程からこの地域と全世界に生まれた大きな希望を破壊しかねません。わたしは主に祈ります。どうかだれも再び暴力への恐るべき誘惑に屈することがありませんように。そして、すべての人が忍耐強い対話を通じて、平和で公正で和解した社会を築き続けるためにいっそう努めることができますように」。
北アイルランドでは3月7日(土)にアントリム州の英軍基地でイギリス兵士2人が射殺され、9日(月)夜にはベルファスト近郊のクレイガバンで警察官1名が射殺されました。いずれも「アイルランド共和軍(IRA)」分派の「継続派IRA」が犯行声明を出しています。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日は8世紀の偉大な宣教者である聖ボニファティウス(Bonifatius 672/675-754年)を考察したいと思います。歴史上、「ドイツ人の使徒」として知られる聖ボニファティウスは、わたしの故郷も含めて、中央ヨーロッパにキリスト教を広めました。伝記作者たちの努力のおかげで、ボニファティウスの生涯については多くのことが知られています。ボニファティウスは675年頃ウェセックスのアングロサクソン人の家庭に生まれ、洗礼を受けてウィンフレド(Winfred)と名づけられました。修道生活の理念に心を引かれて、年若いうちに修道院に入りました。優れた知的能力を備えていたボニファティウスは、学者としての落ち着いた知的な仕事に進むと思われていました。ボニファティウスはラテン語文法教師となり、いくつかの論考を書き、ラテン語によるさまざまな詩も作りました。30歳頃司祭に叙階されると、ヨーロッパ大陸の異教徒の間で使徒職を果たす召命を感じました。生まれ故郷のグレート・ブリテン島は、わずか100年前に(カンタベリーの)聖アウグスティヌス(Augustinus episcopus Cantuariensis 605年頃没)に率いられたベネディクト修道士によって福音宣教を受けたばかりでした。グレート・ブリテン島は、堅固な信仰と燃えるような愛に基づいて、福音を告げ知らせるために中央ヨーロッパに宣教者を派遣していました。716年、ウィンフレドは数人の同士とともにフリースラント(現在のオランダ)に赴きましたが、現地の指導者の反対に遭い、福音宣教の計画は失敗しました。故郷に戻った彼は志を失うことなく、2年後、ローマに行って教皇グレゴリウス二世(Gregorius II 在位715-731年)と話し、指示を与えられました。伝記作者の記述によれば、教皇は「ほほえみを浮かべた顔と、心からの優しさをたたえたまなざしをもって」彼を受け入れ、数日後には彼と「重要な議論」を行いました(ウィリバルド『聖ボニファティウス伝』:Vita S. Bonifatii, ed. Levison, pp. 13-14)。そしてついに教皇は、彼にボニファティウスという新しい名を与えて、ゲルマン人の間で福音を宣教する使命を正式な書簡をもってゆだねたのです。
  教皇の支援によって慰めと支えを受けたボニファティウスは、ゲルマン人の住む地域に福音を告げる仕事に努めました。そして、異教の礼拝と戦い、人間的・キリスト教的道徳の基盤を強化しました。ある手紙の中で、彼は深い使命感をもってこう述べます。「わたしたちは主の日に毅然として戦います。苦難と悲しみの日が来たからです。・・・・わたしたちはものいわぬ犬でも、何もいわない傍観者でも、狼を前にして逃げ出す傭兵でもありません。むしろわたしたちは、キリストの群れを熱心に見張る牧者なのです。わたしたちは、身分の高い人にも民衆にも、金持ちにも貧しい人にも、神のみ旨を告げます。・・・・折がよくても悪くてもそうするのです」(『書簡集』:Epistolae 3, 352; 354, MGH)。ボニファティウスは、その疲れを知らない活動と、組織づくりの能力と、堅忍不抜でありながら、優しくだれからも愛される性格によって、大きな成果を上げました。そこで教皇は「彼に司教職を与えることを宣言した。それは、彼がよりはっきりとした決意をもって、誤った人々を矯正し、真理の道へと連れ戻せるようにし、自分が使徒座の大きな権威に支えられていることを感じることができるようにするためである。そして、彼が司教に叙階されれば、宣教の職務を担うすべての人からいっそう受け入れられることになるからである」(オトロ『聖ボニファティウス伝』:Vita S. Bonifatii, ed. Levison, lib. I, p. 127)。
  教皇自らが、彼を「地域司教」、すなわちドイツ全土の司教に叙階しました。その後、ボニファティウスは、自分にゆだねられたドイツ地域の使徒職を再開するとともに、活動をガリアの教会にも拡大しました。彼は深い賢慮をもって教会の規律を回復し、さまざまな教会会議を開催して教会法の権威を保証し、必要とされるローマ教皇との一致を強めました。最後の点は彼がとくに留意したことでした。教皇グレゴリウス二世の後継者たちもボニファティウスを高く評価しました。グレゴリウス三世(Gregorius III 在位731-741年)はボニファティウスを全ゲルマン人の大司教に任命して、パリウム(大司教の肩衣)を送り、地域の教会位階を組織する権能を与えました(『書簡28』:S. Bonifatii Epistolae, ed. Tangl, Berolini 1916参照)。教皇ザカリアス(Zacharias 在位741-752年)はボニファティウスの職務を確認し、その活動を称賛しました(『書簡集』:Epistolae 51, 57, 58, 60, 68, 77, 80, 86, 87, 89, op. cit.参照)。教皇ステファヌス二世(Stephanus II 在位752-757年)も、教皇に選出されるとすぐに、ボニファティウスから子としての忠誠を表す手紙を受け取りました(『書簡集』:Epistolae 108, op. cit.参照)。
  偉大な司教ボニファティウスは、こうした福音宣教と、教区設立と教会会議開催による教会の組織化の活動のほかに、さまざまな男子・女子修道院の設立も援助しました。それは、これらの修道院がこの地域の信仰と人間的・キリスト教的文化を照らし出す光となるためでした。ボニファティウスは故郷のベネディクト修道院から男子・女子修道者を呼び寄せました。彼らはボニファティウスにとって、福音を宣教し、人文的学問と技術を人々の間に広める活動の有効かつ貴重な助け手となりました。実際、ボニファティウスの考えでは、福音のための活動は真の意味での人間文化のための活動とならなければなりませんでした。中でも743年頃創立されたフルダ修道院は 霊性と修道院文化の輝きを放つ中心となりました。そこでは修道士たちが、祈りと労働と償いを通して聖性に達しようと努め、聖書と世俗的学問の学習による養成を受け、宣教者となって福音を告げ知らせる準備をしました。それゆえ、ボニファティウスとその男子・女子修道者のおかげで――女性も福音宣教活動の中でたいへん重要な役割を果たしたのです――、人間的文化も栄えました。人間的文化は信仰と切り離されることなしに、そのすばらしさを示すからです。ボニファティウス自身も優れた知的著作を残しました。まず書簡集です。司牧的書簡と公務上の書簡と私的書簡を含む書簡集は、社会の出来事とともに、何よりもボニファティウスの豊かな人間的性格と深い信仰を示しています。ボニファティウスは『文法学』(Ars grammatica)という論考も著しました。この論考の中で彼はラテン語の語形変化、動詞、構文を説明します。けれども、ボニファティウスにとって文法学は、信仰と文化を広めるための手段の一つともなりました。ボニファティウスはまた、『韻律論』(Ars metrica)、すなわち詩作法の入門書や、さまざまな詩、そして15の説教から成る『説教集』(Sermones)も書いています。
  すでに高齢に達しても――彼は80歳になろうとしていました――ボニファティウスは新たな福音宣教事業を準備していました。彼は50名の修道士とともに、かつて活動を始めた地であるフリースラントに戻りました。あたかも死が近づいていることを予告するかのように、彼は自分の生涯の旅に触れながら、弟子でマインツ司教のルルス(Lullus 710頃-786年)にこう書き送っています。「わたしはこの旅の目的地に達したいと望んでいます。わたしは出発への望みを決して断念することができません。わたしの終わりの日は近づいています。わたしの死の時が間近に迫っています。死すべきからだを捨てて、わたしは永遠の報いに向かいます。しかし、愛する子よ。絶えず民を誤りの森から招き寄せ、すでに始めたフルダ聖堂の建設を完成させ、長い人生のために年老いたわたしのからだをそこに安置してほしい」(ウィリバルド『聖ボニファティウス伝』:Vita S. Bonifatii, ed. cit., p. 46)。754年6月5日、ドックム(現在のオランダ北部)でミサをささげ始めたとき、ボニファティウスは異教徒の一団に襲われました。ボニファティウスは落ち着いた表情で進み出て、「弟子たちに戦うことを禁じて、こういった。『子らよ、戦うのをやめなさい。争いを置きなさい。聖書のあかしは、悪に悪を返さず、善をもって悪に報いなさいとさとしています。今はこれまで待ち望んできた日です。今、わたしたちの終わりの時が来ました。主において勇気を出しなさい』」(同:ibid., pp. 49-50)。これが、襲撃者の手で打たれる前にボニファティウスが述べた最後のことばでした。殉教した司教ボニファティウスの亡骸はフルダ修道院に運ばれ、丁重に葬られました。すでに伝記作者の一人がボニファティウスについてこう評価しています。「聖なる司教ボニファティウスはドイツに住むすべての人の父と呼ばれうる。彼はその聖なる説教のことばによってこの人々を初めてキリストへと導き、彼らを模範によって強め、ついに彼らのためにいのちをささげたからである。これ以上に大きな愛を与えることはできない」(オトロ『聖ボニファティウス伝』:Vita S. Bonifatii, ed. cit., lib. I, p. 158)。
  それから何世紀を経た現代のわたしたちは、この偉大な宣教者また殉教者の教えと驚異的な活動からどのようなメッセージを得ることができるでしょうか。ボニファティウスに近づけば明らかになる、第一の点は、「神のことばが何よりも中心となること」です。ボニファティウスは神のことばを教会の信仰の中で生き、解釈しました。ボニファティウスは神のことばを生き、宣べ伝え、殉教によって自らのいのちを犠牲としてまであかししました。神のことばに心をかきたてられたボニファティウスは、自分の身を危険にさらしてでもそれを他の人にもたらすのが緊急に必要な義務だと感じました。ボニファティウスの信仰は神のことばによって支えられました。この信仰を広めることを、彼はこういって司教叙階のときに正式に約束しました。「わたしは聖なるカトリック信仰をひたすら完全に告白します。そして、神の助けによってこの信仰の一致にとどまることを望みます。キリスト者の救いのすべてがこの信仰のうちにあることは疑うべくもないことだからです」(『書簡12』:S. Bonifatii Epistolae, ed. cit., p. 29)。ボニファティウスの生涯から浮かび上がる第二に明らかなことは、これもたいへん重要なことですが、「使徒座との忠実な一致」です。これがボニファティウスの宣教活動の不動の中心でした。ボニファティウスは常にこの一致を自らの宣教の規則として守り、それをいわば自分の遺言として残しました。教皇ザカリアスにあてた一通の手紙の中で、彼はいいます。「わたしはカトリック信仰とローマ教会との一致にとどまろうと望む人々、また、この宣教において神がわたしに聴衆また弟子として与えてくださった人々を、絶えず使徒座への従順へと招き、それに従わせました」(『書簡50』:ibid., p. 81)。この努力が生み出したのは、ペトロの後継者を囲む固い団結精神でした。ボニファティウスはこの団結精神を宣教地の教会に伝え、イングランド、ドイツ、フランスをローマと結びつけました。こうして彼はヨーロッパのキリスト教的な基盤を植えつけるために明らかな貢献を行いました。この基盤が、続く諸世紀において豊かな実りを生み出したのでした。わたしたちの関心を引きつけるボニファティウスの第三の性格はこれです。ボニファティウスは「ローマのキリスト教文化とゲルマン文化の出会い」を促進しました。実際、彼は、文化を人間化し、福音化することが、司教としての宣教の不可欠な部分であることを知っていました。ボニファティウスは古代のキリスト教的価値観の遺産を伝えながら、ゲルマン人のうちにより人間らしい新しい生活様式を移植しました。そのおかげで、人格の不可侵の権利がいっそう尊重されるようになりました。聖ベネディクトゥス(Benedictus de Nursia 480頃-547/560年頃)のまことの子であったボニファティウスは、祈りと労働(手作業と知的労働)、ペンと鋤(すき)を一つにまとめるすべを知っていたのです。
  ボニファティウスの勇気あるあかしは、わたしたち皆を招きます。自分の生活の中で神のことばを本質的な基準として受け入れなさい。教会を心から愛しなさい。自分も教会の未来に責任をもっていることを自覚しなさい。ペトロの後継者を囲む一致を追求しなさいと。同時にボニファティウスは次のことを思い起こさせてくれます。すなわち、キリスト教は、文化の普及を進めながら、人間の発展を推進するということです。ですから、わたしたちはこの優れた遺産を受けとめ、その実を将来の世代に役立つように実らせなければなりません。
  わたしはボニファティウスの福音に対する燃えるような熱意に常に心を打たれます。40歳のとき、ボニファティウスはすばらしい実り豊かな修道生活、すなわち、修道士・教師としての生活を離れました。それは、素朴な人々、蛮族といわれる人々に福音を告げ知らせるためでした。80歳のとき、再び彼は殉教することが予想される地域に赴きました。ボニファティウスのこの燃えるような信仰、この福音への熱意を、わたしたちのしばしば生ぬるく形式主義的な信仰と比べるなら、自分の信仰を刷新しなければならないこと、そして、どうすればそれができるかがわかります。それは、現代に福音の尊い真珠をたまものとして与えるためです。

略号
MGH Monumenta Germaniae Historica

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