教皇ベネディクト十六世の173回目の一般謁見演説 聖なる過越の三日間の意味

4月8日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の173回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「聖なる過越の三日間の意味」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


謁見の終わりに、イタリア語で行ったあいさつの中で、教皇は、イタリア中部地震の被災者のために次のように述べました。
「イタリア語を話す巡礼者の皆様を心から歓迎申し上げます。まずわたしは、この数日間の大地震により大きな被害に遭われた、ラクイラと他の地域の愛する共同体にあらためて霊的に寄り添います。この地震により、多くの犠牲者と、多数の負傷者、甚大な物質的損害が出たからです。行政当局、治安部隊、ボランティア、その他の支援者が熱心にこのわたしたちの兄弟を救助しておられることは、このような苦難をともに克服するための連帯の重要性を示します。被災者のかたがたに対し、教皇であるわたしは皆様と悲しみと心配を共有していると、あらためて申し上げたいと思います。親愛なる被災者の皆様。わたしはできるだけ早く皆様を訪問しに行きたいと願っています。どうかこのことを心にとめてください。教皇は皆様のために祈っています。そして、主が亡くなったかたをあわれみ、家族とご遺族をマリアが母として慰め、キリスト者としての希望が支えてくれることを祈り求めています」。
4月6日(月)午前3時30分(日本時間同日午前10時30分)にイタリア中部アブルッツォ州で発生したマグニチュード6.3の地震では、多数の人が倒壊した建物の生き埋めになりました。ベルルスコーニ首相は8日午後、地震による死者が260人に達したことを発表しています。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  キリスト信者にとって一年でもっとも重要な週である聖週間は、あがないの中心的な出来事に身を浸し、過越の神秘をあらためて体験する機会を与えてくれます。過越の神秘は、偉大な信仰の神秘です。明日の晩の「主の晩餐」のミサから始まる荘厳な典礼は、聖なる過越の三日間に、主の受難と死と復活をいっそう深く黙想することを可能にしてくれます。聖なる過越の三日間は、典礼年全体の中心だからです。どうか神の恵みがわたしたちの心を開いて、キリストの奉献がわたしたちに与えてくださった、はかりしれない救いのたまものを悟ることができますように。この大きなたまものは、フィリピの信徒への手紙に収められた有名な賛歌(フィリピ2・6-11参照)の中ですばらしい形で語られています。わたしたちはこの賛歌を四旬節の間、何度も黙想しました。使徒パウロは、本質的なしかたで、また生き生きと、救いの歴史の神秘全体を振り返ります。まずパウロは、神ではないのに神のようになろうとした、アダムの傲慢を示します。それからパウロは、わたしたち皆が多少とも自分のものであると感じている、この人祖の傲慢を、神の子のへりくだりと対比します。神の子は人となり、罪を除いて人間のあらゆる弱さを身に負うことをためらいませんでした。そして、死の淵にまで赴きました。この受難と死の最終的な淵への降下の後、神の子は高く挙げられます。高く挙げられるとは、まことの栄光、すなわち、最後まで貫かれた愛の栄光を与えられることです。パウロがいうとおり、だからこそ、ふさわしくも、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスのみ名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公にのべる」(フィリピ2・10-11)のです。聖パウロがこのことばでいおうとしているのは、イザヤの預言です。「わたしは主、ほかにはいない。わたしの前に、すべての膝はかがみ、すべての舌は誓いを立てる」(イザヤ45・23参照)。パウロはいいます。このことはイエス・キリストにも当てはまります。イエス・キリストは、そのへりくだりと、まことの愛の偉大さによって、世界の主であり、このかたの前に本当にすべての膝がかがむのです。
  これはなんとすばらしく、また驚くべき神秘でしょうか。わたしたちはこの神秘を決して考察し尽くすことができません。イエスは、神でありながら、ご自分の神としての特権を自分だけのものにしようとはしませんでした。イエスはご自分が神であること、すなわちご自分の栄光ある身分と力を、勝利の道具や、わたしたちとは違うことのしるしとして用いようとはしませんでした。反対に、イエスは「自分を無にして」、人間の惨めさと無力なあり方をとりました。このことに関して、パウロはイエスの「ケノーシス(無化)」すなわち降下を表すために、きわめて意味深いギリシア語の動詞(ケノオー)を用いました。神の身分(モルフェー)はキリストにおいて人間の姿のうちに隠れています。人間の姿とは、苦しみと貧しさと人間的な限界と死によって特徴づけられる、わたしたちのあり方です。イエスはわたしたちの本性を真実かつ徹底的に共有しました。罪を除いてすべてを共有しました。このことによって、イエスは、わたしたちの有限性のしるしである、あの死という境界にまで導かれました。しかし、これらのことは皆、不可解な構造ないし盲目の運命がもたらしたものではありませんでした。むしろそれは、イエスが父の救いの計画に進んで従うために、自由に決断したことでした。さらにパウロはいいます。イエスが向かっていった死は、十字架の死でした。それは、人が想像できる中でもっとも屈辱的でみじめな死でした。全宇宙の主であるかたが、わたしたちへの愛のために、これらすべてのことをなさったのです。イエスは愛のために「自分を無にする」ことを望み、ご自分をわたしたちの兄弟にしてくださいました。イエスは愛のために、わたしたちのあり方を、すなわち、すべての人のあり方を共有してくださいました。このことについて、東方教会の伝統の偉大な証人であるキュロスのテオドレトス(Theodoretos 393頃-466年頃)はこう述べます。「このかたは神であり、本性から神であり、神と等しいかたでありながら、自らのいさおし以上の栄誉を与えられた人がするように、このことを大したことだとは考えなかった。むしろ、自分のいさおしを隠し、深くへりくだることを選び、人間の姿をとったのである」(『フィリピ書注解』:Interpretatio in epistulam sancti Pauli ad Philippenses 2, 6-7)。
  すでに申し上げたとおり、聖なる過越の三日間は「聖木曜日」の晩の意味深い典礼から始まりますが、その前奏となるのが荘厳な「聖香油のミサ」です。司教はこの「聖香油のミサ」を自分の司祭団とともに祝います。そして、このミサの中で、司祭叙階の日に行った約束を更新します。これは大きな意味のある行為です。それは、司祭が、自分を奉仕者に選んでくださったキリストへの忠実を強めるためのよい機会となるからです。さらに、この司祭の集会は特別な意味をもちます。それは「司祭年」のいわば準備となるからです。わたしはこの「司祭年」を「アルスの教区司祭」ヨハネ・マリア・ビアンネ(Jean-Baptiste-Marie Vianney 1786-1859年)」の没後150周年を記念して宣言しました。「司祭年」は6月19日から始まります。さらに「聖香油のミサ」の中では、かならず、病者の油、洗礼志願者のための油、そして聖香油が祝福されます。この典礼は、キリストの祭司職と教会共同体の完全性を象徴的な意味で表します。キリストの祭司職と教会共同体は、感謝のいけにえをささげるために集まり、聖霊のたまものによる一致によって生かされたキリスト信者の民を力づけなければなりません。
  「主の晩餐」と呼ばれる晩のミサの中で、教会は、聖体の制定と、役務としての祭司職と、イエスが弟子たちに与えた新しい愛のおきてを記念します。聖パウロは、主の受難の前夜、二階の広間で行われたことに関するもっとも古い証言を伝えます。聖パウロは50年代の初めに、主ご自身の周りにいた人々から受けたテキストに基づいていいます。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしのからだである。わたしの記念としてこのように行いなさい』といわれました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』といわれました」(一コリント11・23-25)。これは、キリストの明確な望みを示した、神秘に満ちたことばです。パンとぶどう酒の形のもとに、キリストは、ご自分のからだをささげ、ご自分の血を流すことによって、ご自身を現存させます。これは人種や文化の違いを問わず、すべての人に与えられた、新しい決定的な契約のいけにえです。そしてイエスは、ご自分の愛の最高のあかしとして教会にゆだねたこの秘跡の典礼によって、弟子たちと、その後の時代に弟子たちに続いて奉仕職を果たす人々を、奉仕者として立てました。それゆえ聖木曜日は、聖体という最高のたまものを与えてくださったことを、あらためて神に感謝するようにわたしたちを招きます。わたしたちはこのたまものを敬虔な心で受け入れ、深い信仰をもって礼拝しなければなりません。だから教会は、ミサを祝った後、至聖なる聖体の前で目を覚ましているように勧めるのです。それは、イエスが捕らえられて、死刑を言い渡される前に、ゲツセマネでひとりで祈りながら過ごされた悲しい時を思い起こすためです。
  こうしてわたしたちは、主の受難と十字架の日である「聖金曜日」に至ります。毎年わたしたちは、十字架の木に釘づけにされたイエスの前に沈黙のうちに身を置きながら、前夜の最後の晩餐の中で主がいわれたことばがどれほど愛に満ちたものだったかを悟ります。「これは、多くの人のために流されるわたしの契約の血である」(マルコ14・24参照)。イエスは人類の罪のゆるしのために、ご自分のいのちをいけにえとしてささげることを望まれました。聖体の神秘と同じように、イエスの十字架上の受難と死の神秘は、理性でははかりしることができません。わたしたちは、人間的には不条理と思われることを目の当たりにします。すなわち、神は、人間のあらゆる欠乏を含めて、人間となられただけではありません。人類のあらゆる悲惨を身に負いながら、人間を救うために苦しまれただけではありません。そればかりか、神は人間のために死なれたのです。
  キリストの死は、あらゆる時代の人類を苦しめる、多くの苦難と悪を思い起こさせます。すなわち、自分の死のもたらす重圧。今日も大地を血で染める憎しみと暴力です。主の受難は、人々の苦しみの中で継続します。ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal 1623-1662年)が適切にもいうとおりです。「イエスは世の終わりまで苦悶されるであろう。そのあいだ、われわれは眠ってはならない」(『パンセ』:Pensées, 553〔前田陽一・由木康訳、中央公論社、1966年、277頁〕)。「聖金曜日」は悲しみに満ちた日です。そうであれば、それゆえにこそ、「聖金曜日」は同時に、何よりも、わたしたちの信仰を再び呼び覚まし、わたしたちの希望と勇気を強めるためによい日だといえます。こうしてわたしたちは皆、へりくだり、神に信頼して自分をゆだね、神の支えと勝利を確信しつつ、自分の十字架を担うよう励まされます。「聖金曜日」の典礼は歌います。「わたしたちの唯一の希望である十字架よ」(O Crux, ave, spes unica!)。
  この希望は、「聖土曜日」の偉大な沈黙によって深められます。わたしたちはイエスの復活を待ち望むからです。この日、教会には何の飾りもなく、特別な典礼も行われません。教会はマリアと同じように、またマリアとともに、目覚めて祈ります。マリアと同じ悲しみを分かち、神への信頼を抱きながら。適切にも、この日は終日、黙想と精神の集中に適した祈りの雰囲気のうちに過ごすことが勧められます。信者には、真の意味で新たにされて「復活祭」に参加できるように、ゆるしの秘跡にあずかることが奨励されます。
  「聖土曜日」の精神の集中と沈黙によって、わたしたちは夜の荘厳な「復活徹夜祭」へと導かれます。「すべての徹夜祭の母」であるこの「復活徹夜祭」に、全教会・共同体でキリストの復活を喜ぶ歌が湧き起こります。光が闇に打ち勝ち、いのちが死に打ち勝ったことがあらためて告げ知らされます。教会は主との出会いを喜びます。こうしてわたしたちは「復活祭」の雰囲気へと入ります。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。「聖なる過越の三日間」を熱心に過ごすよう心がけようではありませんか。それは、キリストの神秘にますます深くあずかるためです。このわたしたちの道を、聖なるおとめがともに歩んでくださいます。聖なるおとめは、カルワリオ(されこうべ)に至るまで、沈黙のうちに御子イエスに従い、大きな苦悩のうちに御子のいけにえにあずかり、そこから、あがないの神秘に協力し、すべての信じる者の母となったからです(ヨハネ19・25-27参照)。聖なるおとめとともに二階の広間に入り、十字架のもとにとどまり、精神的な意味でキリストの亡骸のそばで夜を明かそうではありませんか。 復活の輝く夜明けを希望をもって待ち望みながら。このような思いをもって、今からわたしは皆様と、皆様のご家族、小教区、共同体の皆様に、心からごあいさつ申し上げます。どうか喜ばしく聖なる復活祭を迎えられますように。 

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