教皇ベネディクト十六世、復活祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2009.4.12)

4月12日(日)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は、復活祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ(ウルビ・エト・オルビ)」と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されていま […]

4月12日(日)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は、復活祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ(ウルビ・エト・オルビ)」と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されています。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
メッセージの発表の後、63か国語による祝福が述べられました。教皇は51番目に日本語で次のように述べました。「ご復活祭おめでとうございます」。最後の祝福は、ラテン語で行われました。「主の復活はわたしたちの希望(Resurrectio Domini, spes nostra)」。アウグスチヌスの『説教261』からとられたこのことばは、復活祭メッセージ冒頭でも引用されています。最後に全世界の人々への祝福が行われました。
この日、教皇は、午前10時15分からサンピエトロ広場で復活の主日のミサをささげました。


 

  親愛なるローマと全世界の兄弟姉妹の皆様。

 聖アウグスチヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)のことばをもって、皆様に心から復活祭のお祝いを申し上げます。「主の復活はわたしたちの希望(Resurrectio Domini, spes nostra)」(『説教261』:Sermo 261, 1)。このことばで偉大な司教は信者に説明しました。イエスが復活したのは、死に定められたわたしたちが、死によっていのちが完全に終わると考えて、絶望しないためです。キリストは、わたしたちに希望を与えるために復活しました(同:ibid. 参照)。
  実際、人生をもっとも悩ます問いの一つはこれです。死後はどうなるのでしょうか。今日の祭日は、わたしたちがこの謎にこたえることを可能にします。最後に勝利を収めるのは死ではありません。いのちであるかたが最後に勝利を得るからです。わたしたちのこの確信は、単なる人間の考えに基づくものではありません。むしろそれは歴史的な信仰の事実に基づきます。十字架にかけられて葬られたイエス・キリストは、栄光のからだをもって復活しました。イエスは復活しました。だからわたしたちも、イエスを信じることによって、永遠のいのちを得ることができます。このことが、福音のメッセージの中心で告げ知らされます。聖パウロが力強く述べるとおりです。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。パウロは続けていいます。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中でもっとも惨めな者です」(一コリント15・14、19)。復活の朝から、新たな希望の春が世を覆います。その日からわたしたちの復活が始まりました。なぜなら、復活祭はただ歴史のある瞬間を示すだけではないからです。むしろそれは、新しいあり方の開始を告げます。イエスが復活したのは、イエスの思い出が弟子たちの心にいつまでも残るためではありません。むしろ、イエスの復活によって、イエスご自身がわたしたちの中に生き、わたしたちが永遠のいのちの喜びを今から味わえるようになるためです。
  それゆえ、復活は理論ではなく、歴史的事実です。この事実は、人間であるイエス・キリストの「過越」、すなわち「移行」によって示されました。この「過越」は、地上と天上の間に「新しい道」を開いてくれたからです(ヘブライ10・20参照)。復活は神話でも夢でもありません。幻でもユートピアでもありません。復活はおとぎ話ではなく、繰り返すことのできない一回限りの出来事です。マリアから生まれたナザレのイエス――聖金曜日の夕べに十字架につけられて葬られたこのかたが、勝利のうちに墓を後にされたのです。実際、安息日の後の週の初めの日の朝、ペトロとヨハネは墓が空であるのを見いだしました。マグダラのマリアと他の婦人たちは復活したイエスに出会いました。エマオの二人の弟子も、パンが裂かれたときにイエスだとわかりました。復活したイエスは、夕方、二階の広間で使徒たちに現れました。その後、ガリラヤで他の多くの弟子たちに現れました。
  主の復活の知らせは、わたしたちが住む世の闇に覆われた部分を照らします。わたしは特に唯物論と虚無主義のことを考えています。この世界観は、科学的に証明できることがらを超えることができず、失意のうちに虚無感を抱きます。彼らは虚無こそが人生が最終的に行き着くところだと考えるからです。たしかに、キリストが復活しなければ、「虚無」が勝利を収めたことでしょう。キリストとその復活を取り去るなら、人は救われず、あらゆる希望は幻想であり続けます。しかし、まさに今日、主の復活の知らせが力強く湧き起こります。この知らせこそが、懐疑論者が繰り返し述べた問いにこたえます。この問いはコヘレトの言葉にも記されています。「見よ、これこそ新しい、といってみても、それもまた、永遠の昔からあった」(コヘレト1・10)。わたしたちはこたえます。いいえ、復活の朝、すべてが新たにされます。「死といのちとの戦いで死を身に受けたいのちの主は、今や生きて治められる(Mors et vita / duello conflixere mirando: dux vitae mortuus / regnat vivus)」(復活の続唱)。これこそが新しいことです。この新しいことが、それを受け入れた人の生涯を造り変えます。聖人たちに見られるとおりです。それが、たとえば聖パウロに起こったことでした。
  パウロ年との関連で、わたしたちは何度もこの偉大な使徒の経験を考察しました。キリスト教徒を容赦なく迫害していたタルソスのサウロは、ダマスコに向かう道で、復活したキリストと出会い、このかたに「捉えられ」ました。その後のことはわたしたちが知っているとおりです。後にコリントのキリスト者にあててパウロが書いたことが、パウロのうちに起こりました。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(二コリント5・17)。この偉大な福音宣教者に目を向けようではありませんか。彼は使徒職への臆することのない熱意をもって、当時の世界の多くの民に福音を伝えました。パウロの教えと模範が、主イエスを求めるようわたしたちを促してくれますように。イエスに信頼するようわたしたちを励ましてくれますように。復活から流れ出る光と希望が、人類に害毒を流そうとするあの虚無感にすでに打ち勝ったからです。今や詩編のことばが本当に実現しました。「闇もあなたに比べれば闇とはいえない。夜も昼もともに光を放つ」(詩編139・12)。すべてのものを覆うのは虚無ではなく、愛をもってわたしたちとともにいてくださる神です。わたしたちは死の支配から解放されました。霊の息吹に導かれて、いのちのみことばが「陰府」に達したからです(詩編139・8)。
  死はもはや人間の上にも世界の上にも力をもちません。しかし、このことが真実だとしても、かつて死が支配したことの多くの、それもあまりにも多くのしるしが依然として残っています。キリストは過越によって悪を根こそぎにしました。しかし、そうだとしても、キリストはあらゆる時代と場所の人々の助けを今も必要としています。それは、キリストの武具によってキリストの勝利を告げるためです。キリストの武具とは、正義、真理、あわれみ、ゆるし、愛の武具です。これこそが、わたしが最近行ったカメルーンとアンゴラへの使徒的訪問の中で、アフリカ大陸全体に伝えようとしたメッセージです。アフリカ大陸の人々は大きな熱意をもってわたしを歓迎し、わたしに耳を傾けてくださいました。実際、アフリカは悲惨で間断のない――そして、しばしば人々に忘れられた――紛争によって、はかりしれないほど苦しんできました。紛争はアフリカ諸国を引き裂き、血で染めました。また、飢餓と貧困と病気の犠牲となる人々がますます増えています。わたしは同じメッセージを聖地でも強く繰り返すつもりです。数週間後に、聖地を訪れることができることをうれしく思います。困難であっても不可欠な和解こそが、未来の共通の治安と平和的共存のための条件です。このような和解は、イスラエル・パレスチナ間の紛争の解決のために新たに忍耐強く真剣な努力を行うことによって初めて実現できます。さらにわたしは、聖地から、隣接する国々、中東、そして全世界に目を向けます。世界的な食糧不足、財政の混乱、昔からある貧困と新たな貧困、懸念される気候変動。多くの人にもっと安定した生活を求めて故国を離れることを強いる暴力と窮乏。ますます脅威を与えているテロ。不確実な未来に対する恐れの増大。こうした時代にあって、希望を取り戻せる展望を再び見いだすことが緊急に必要とされています。キリストの復活から始まる、この平和のための戦いから、だれも退くことがありませんように。すでに述べたとおり、キリストは、正義、真理、あわれみ、ゆるし、愛というキリストの武具によってキリストの勝利を告げるために、人々に助けを求めているからです。
  「主の復活はわたしたちの希望(Resurrectio Domini, spes nostra)」。教会はこのことを今日、喜びをもって宣言します。教会は希望を告げ知らせます。イエス・キリストを死者の中から復活させることによって、神はこの希望を堅固で何ものも打ち勝つことのできないものとしてくださったからです。教会は希望を伝えます。教会はこの希望を胸に抱きながら、すべてのところで、特にキリスト信者が、信仰と、正義と平和のための努力のゆえに迫害されているところで、この希望をすべての人と分かち合うことを望むからです。教会は希望を祈り求めます。希望は、たとえ犠牲を払っても、それどころか、犠牲を払わなければならないときにこそ、善を行う勇気を掻きたてるからです。今日、教会は歌います。「今日こそ神が造られた日」。そして、人々を喜びへと招きます。今日、教会は祈ります。希望の星であるマリアに祈り求めます。どうか人類を、安全な救いの港であるキリストのみ心へと導いてください。キリストは、過越のいけにえ、「世をあがなった」小羊、「罪深いわたしたちを父と和解させてくださった」罪のないかたです。勝利を収める王、十字架につけられて復活したこのかたに、喜びのうちに「アレルヤ」といおうではありませんか。

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