教皇ベネディクト十六世の174回目の一般謁見演説 キリストの復活の意味

4月15日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の174回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「キリストの復活の意味」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 
 今日の恒例の水曜一般謁見は霊的な喜びで満たされています。この霊的な喜びをいかなる苦しみも悲しみも打ち消すことはできません。なぜなら、この喜びは、キリストがその死と復活によって決定的なしかたで悪と死に打ち勝ったという確信から生まれるものだからです。「キリストは復活された。アレルヤ」。復活祭の中で教会はこう歌います。この復活祭の歓呼、すなわち、復活祭の特徴をなす思いは、この一週間、すなわち「復活の八日間」の間だけ続くのではありません。それは聖霊降臨までの50日間にわたって続くのです。実際、わたしたちはこういうことができます。復活の神秘はわたしたちの人生全体を包みます。
 この典礼の季節の間、復活祭の意味と重要性を深く考察するために、多くの聖書の箇所と黙想の刺激が与えられます。聖なる過越の三日間に、イエスとともにカルワリオ(されこうべ)まで悲しい受難を思い起こしながら行った「十字架の道行(via crucis)」は、荘厳な復活徹夜祭に、慰めをもたらす「光の道行(via lucis)」となります。 復活の観点から見ると、受難の道全体は、光と霊的生まれ変わりの道、内的平和と堅固な希望の道です。聖金曜日の喪失の悲しみの後、聖土曜日の期待に満ちた沈黙と、「安息日の後の週の初めの日」の朝が続きます。そして、いのちが死に打ち勝ったという力強い知らせが響き渡ります。「死を身に受けたいのちの主は、今や生きて治められる(Dux vitae mortuus/regnat vivus)」(復活の続唱)。復活の驚くべき新しさはきわめて重要です。だから教会は復活を告げ知らせ続けずにはいられません。特に毎日曜日にそれを思い起こし続けずにはいられません。実際、すべての「主日」は、神の民が毎週行う復活祭です。わたしたちの東方教会の兄弟は、わたしたちの毎日の生活に与えられたこの救いの神秘を明らかにするかのように、主日をロシア語で「復活の日(voskrescénje)」と呼びます。
 それゆえ、わたしたちの信仰とキリスト教のあかしにとって、ナザレのイエスの復活を、多くの信頼できる証人によってあかしされた現実の歴史的出来事として告げ知らせることは根本的な意味をもちます。わたしたちはこのことを強く主張します。なぜなら、現代においても、復活の歴史性を否定しようとする人が少なくないからです。彼らは福音の記事を神話や使徒たちの「幻」におとしめ、古くすり切れた理論を新しい学問的理論として示します。イエスにとって復活が単に以前の生活に戻ることでなかったことは、いうまでもありません。実際、もしそうだったとすれば、復活は過去のことがらになってしまいます。2000年前、ある人が復活して、たとえばラザロと同じように、以前の生活に戻ったというふうにです。復活は別の次元のことがらです。復活は、深い意味での新しいいのちの次元への移行です。この新しいいのちの次元は、わたしたちにもかかわります。それは人類という家族と歴史と宇宙全体を巻き込みます。復活という出来事は、新しいいのちの次元をもたらし、わたしたちの現世を永遠のいのちへと開きました。ですからそれは、それを目にした証人の人生を変えました。福音の記事や他の新約聖書の文書が示すとおりです。すべての時代の人々が信仰によってこの知らせを受け入れ、しばしば血の代償を払ってでもそれをあかししました。なぜなら、人々はまさにこのようなあかしによって自分が新しいいのちの次元に入ることを知ったからです。今年も復活祭に、地上の至るところで、このよい知らせが、いつもと変わることなく、あらためて響き渡りました。イエスは十字架上で死んで、復活し、栄光のうちに生きておられます。なぜなら、イエスは死の力に打ち勝って、人間を、神とともに、神のうちに生きる新たな交わりへと導いてくださったからです。これが復活祭の勝利であり、わたしたちの救いです。だからわたしたちは聖アウグスチヌス(354-430年)とともに歌うことができます。「キリストの復活はわたしたちの希望です」。なぜなら、わたしたちは新しい未来に導き入れられたからです。
 まことに、イエスの復活はわたしたちの堅固な希望の基盤です。そしてそれは、苦しみと死という人間の謎を含めて、わたしたちの地上の旅路全体を照らします。十字架につけられて復活したキリストへの信仰は、福音のメッセージ全体の中心です。わたしたちの「信条」の中核です。わたしたちはこの根本的な「信条」を、コリントの信徒への手紙一(一コリント15・3-8)に含まれた、パウロの有名な記事の権威あることばのうちに見いだします。この記事の中で、使徒パウロは、逆説的にも、イエスの復活を告げ知らせながら、死者の復活――それはわたしたちの希望です――を否定する、コリントの共同体のある人々にこたえるために、彼――パウロ――が主の死と復活に関して最初の使徒の共同体から受けたことを忠実に伝えます。
 パウロは、いわば決定的な断言から始めます。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんなことばでわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」(一コリント15・1-2)。パウロはすぐに続けていいます。わたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。それから、今日の集いの初めに朗読された箇所が続きます。聖パウロはまずイエスの死を示し、その後、きわめて単純なことばで、「キリストが死んだ」という知らせに二つのことを付け加えます。第一に付け加えられるのは、「わたしたちの罪のために」です。第二に付け加えられるのは、「聖書に書いてあるとおり」(15・3)です。この「聖書に書いてあるとおり」という表現は、主の死という出来事を、旧約における神と神の民の契約の歴史と関連づけます。こうしてパウロは、神の子の死が救いの歴史の構造の一部をなすものであることを理解させてくれます。また、この歴史の理由とまことの意味が神の子の死から与えられることを悟らせてくれます。このときまでキリストの死はいわば謎であり続け、それが何をもたらすかも定かではありませんでした。聖書のことばは過越の神秘によって実現しました。つまり、「聖書に書いてあるとおり」実現したこの死は、それ自体で「ロゴス」すなわち理由をもたらす出来事なのです。キリストの死は、神のことばが徹底的な形で人間の「肉」となり、「歴史」となったことをあかしします。このことがどのように、またなぜ行われたかは、聖パウロが付け加えたもう一つのことばからわかります。キリストは「わたしたちの罪のために」死んだのです。このことばによってパウロのテキストは「主のしもべの歌」第4歌(イザヤ53・12参照)に述べられたイザヤの預言をあらためて取り上げていると思われます。「主のしもべの歌」はいいます。主のしもべは「自らをなげうち、死んで」、「多くの人の過ちを担」いました。そして、彼が行った「背いた者」のための執り成しは、人間と人間の間に、また人間と神の間に和解のたまものをもたらすことができました。それゆえ、キリストの死は、死を終わらせる死です。十字架の道は復活へと導きます。
 続く節の中で、使徒パウロはさらに主の復活について考察します。パウロはいいます。キリストは「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」。再び「聖書に書いてあるとおり」といわれます。多くの釈義学者は、この「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」という表現は、詩編16のことばをはっきりと指すものだと考えます。この詩編の中で詩編作者は叫びます。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたのいつくしみに生きる者に墓穴を見させない」(詩編16・10)。これは、初期キリスト教徒が、イエスのメシアとしての性格を証明するためにしばしば引用した旧約のテキストの一つです。ユダヤ教の解釈では、死の腐敗は三日後から始まります。ですから、聖書のことばはイエスのうちに実現しました。イエスは三日目に、すなわち腐敗が始まる前に復活したからです。聖パウロは使徒の教えを忠実に伝えながら、死に対するキリストの勝利が、神のことばの創造的な力によって行われたことを強調します。この神の力が希望と喜びをもたらします。これこそが、わたしたちを決定的な形で自由にする、復活祭の啓示です。復活祭に、神はご自身と、三位一体の愛の力を示されます。この愛が、悪と死の破壊的な力を滅ぼしました。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。復活した主の光で照らしていただこうではありませんか。信仰をもって主を受け入れ、寛大な心で主の福音に従おうではありませんか。主の復活の証人となる恵みを与えられた人々が行ったように。また、数年後、ダマスコへの道で、神である師と特別な形で出会った聖パウロが行ったように。わたしたちは、すべての人の人生を造り変えるこの真理の知らせを、自分だけのためにとっておくことができません。へりくだりと信頼をもって祈ろうではありませんか。「死者の中から復活して、わたしたちの復活を先取られたイエスよ、わたしたちはあなたを信じます」。アトス山のシルワノス(1866-1938年)が繰り返して唱えた叫びで終えたいと思います。「わが魂よ、喜べ。復活はとこしえに続く。復活されたキリストはわたしたちの復活だからだ」。おとめマリアの助けによって、この復活の喜びの雰囲気を、わたしたちのうちに、またわたしたちの周りの人々のうちに深めることができますように。こうして、人生のいかなる状況の中でも、神の愛をあかしすることができますように。あらためて皆様に申し上げます。復活祭おめでとうございます。

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