教皇ベネディクト十六世の聖香油のミサ説教

4月9日(木)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は聖香油のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。
なお、教皇は、ミサの終わりに、次のように述べて、このミサの中で聖別した聖香油を、地震のために聖香油のミサをささげることができないラクイラ教区のジュゼッペ・モリナーリ大司教に贈ることを発表しました。
「地震による大きな被害のために教区司祭を集めて聖香油のミサをささげることができない、わたしたちの愛する兄弟であるジュゼッペ・モリナーリ大司教に、深い交わりと霊的な連帯のしるしとして、この聖香油を届けたいと思います。この聖香油が、復興と再建の道をともに歩み、怪我をした人々をいやし、希望を支えることができますように」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 受難の前夜、二階の広間で、主は自分の周りに集まった弟子たちのために祈りました。同時に主は、これから先のすべての時代の弟子の共同体にも目を向けました。すなわち、「彼らのことばによってわたしを信じる人々」(ヨハネ17・20)です。このすべての時代の弟子のための祈りの中で、主はわたしたちにも目をとめ、わたしたちのために祈ります。十二人と、ここに集まったわたしたちのために主が願うことに耳を傾けたいと思います。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたのみことばは真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハネ17・17以下)。主はわたしたちが聖なる者となること、真理によって聖なる者となることを願います。それから主は、ご自分の使命を果たし続けるために、わたしたちを遣わします。しかし、この祈りの中で一つのことばがわたしたちの注意を引きます。このことばは、わたしたちにとって理解しづらいものに思われます。イエスはいわれます。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます」。これは何を意味するのでしょうか。イエスは御自ら「神の聖者」ではないでしょうか。カファルナウムでの決定的なときにペトロが告白したとおりです(ヨハネ6・69参照)。どのようにして今、イエスはご自身をささげることが、すなわち聖なる者とすることができるのでしょうか。
 このことを理解するために、わたしたちはまず、聖書が「聖なる」、「ささげる/聖なる者とする」ということばで何をいおうとしているかを明らかにしなければなりません。「聖なる」ということばは、何よりもまず、神ご自身の本性を、すなわち、神のみに属する、まったく独自の神的なあり方を示します。神のみが、ことばの本来の意味で、真実、真正に聖なるかたです。他の聖性は皆、神に由来し、神のあり方にあずかります。神はもっとも純粋な光であり、真理であり、何の汚れもない善です。それゆえ、何かあるいはだれかをささげるとは、何かまたはだれかを神の所有物として与えることを意味します。すなわち、それをわたしたちの領域から取り去って、神の場に移すことを意味します。こうしてそれは、わたしたちの世界に属するのではなく、完全に神のものとなります。ですから、ささげるとは、世から取り去って、生ける神にゆだねることです。何かまたはだれかは、わたしたちにも、それ自体にも属するものでなくなり、神のうちに浸されます。このように、何かを奪って、神にゆだねることを、わたしたちはいけにえとも呼びます。いけにえは、もはやわたしの所有物ではなく、神の所有物となります。旧約の中で、だれかを神にゆだねること、すなわち、だれかを「聖なる者とする」ことは、祭司の任職と同じでした。それは祭司とはいかなる者であるかをも定義しました。「聖なる者とする」とは、所有権の移行です。すなわち、世から取り去って、神に与えることです。こうして、「聖なる者とする/ささげる」という過程は二つの方向性をもつことが明らかになります。一つは、この世の生活の状況から離れること、もう一つは、神のために「別にする」ということです。しかし、まさにそれゆえに、それは隔離とは違います。むしろ、神にゆだねるとは、他の人々の代表となることを意味します。祭司はこの世のつながりから解放されて、神に与えられます。だからこそ、祭司は神から出発して、他の人々のため、すべての人のために役立つ者となるのです。イエスが「わたしは自分自身をささげます」というとき、彼はご自分を、祭司またいけにえとするのです。ですから、ブルトマン(Rudolf Bultmann 1884-1976年)が、「わたしは自分自身をささげます」ということばを「わたしは自分自身を犠牲にします」と訳したのは適切です。今や、イエスが「彼らのために、わたしは自分自身をささげます」といわれたとき、何が行われたかわかるのではないでしょうか。これは祭司としてのわざにほかなりません。このわざによって、イエスは――神の子と一体としての、人間イエスは――わたしたちのためにご自身を父にゆだねます。このことは、イエスが祭司であると同時にいけにえでもあることを表します。「わたしをささげます――わたしを犠牲にします」。わたしたちは、イエス・キリストの心の内側をかいま見させる、このはかりしれないことばを、常にあらためて考察しなければなりません。このことばには、わたしたちのあがないの神秘全体が含まれています。このことばは、教会の祭司職の起源も含みます。
 今やわたしたちは、主が弟子のため、わたしたちのために父にささげた祈りの意味を徹底的に理解できます。「真理によって、彼らを聖なる者としてください」。これは、使徒たちをイエス・キリストの祭司職に接ぎ木すること、すなわち、すべての時代の信者の共同体のために、イエス・キリストの新しい祭司職を制定することにほかなりません。「真理によって、彼らを聖なる者としてください」。これは使徒たちのための真の意味での聖別の祈りです。主は、神ご自身が彼らをご自分へと、すなわち、ご自分の聖性へと引き寄せてくださるように願います。主は、神が彼らを取り去って、ご自分のものとしてくださるように願います。それは、彼らが神から出発して、世のために役務としての祭司職を果たせるためです。このイエスの祈りは、二回、わずかに違う形で現れます。いずれの場合にも、注意深く耳を傾けなければなりません。それは、そこで行われた最高のことがらを、たとえぼんやりとした形であれ、悟り始めるためです。「真理によって、彼らを聖なる者としてください」。イエスは続けていいます。「あなたのみことばは真理です」。それゆえ、弟子は、神のことばに浸されることを通じて、神のうちへと引き寄せられます。神のことばは、いわば彼らを清める浴槽です。神のあり方へと彼らを造り変える、創造的な力です。ところで、わたしたちの生活はどうでしょうか。わたしたちは真の意味で神のことばによって満たされているでしょうか。神のことばは本当に、パンやこの世のもの以上に、わたしたちの生きる糧となっているでしょうか。わたしたちは本当に神のことばを知っているでしょうか。神のことばを愛しているでしょうか。神のことばが実際にわたしたちの生活に刻印を押し、わたしたちの思いを形づくるほどに、神のことばに深く心を向けているでしょうか。あるいはむしろ、わたしたちの思いは絶えず人のことばと行動に従っているのでしょうか。しばしば支配的な見解を自らを計る基準としているのではないでしょうか。結局のところ、多くの現代人に人気のある軽薄な傾向にとどまってはいないでしょうか。わたしたちは自分の心を本当に神のことばによって清めてもらっているでしょうか。フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844-1900年)は、へりくだりと従順を、奴隷の徳であり、人間を抑圧するものだとして嘲笑しました。ニーチェはこの二つを、人間の傲慢と絶対的な自由に置き換えました。たしかに、物笑いとしての、間違った謙遜や、間違った恭順は存在します。わたしたちはこうしたものを真似ようとは思いません。けれども、破壊をもたらす傲慢や、思い上がりも存在します。これらのものはあらゆる共同体を崩壊させ、暴力を招きます。わたしたちは、わたしたちの存在の真理にふさわしい正しいへりくだりと、真理と神のみ旨に従う従順とを、キリストから学ぶことができるでしょうか。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたのみことばは真理です」。わたしたちを祭司とするこのことばは、わたしたちの生活を照らします。そして、あらためて、神のことばによって示された真理の弟子となるよう、わたしたちを招きます。
 これらのことばの解釈をもう一歩進めることができるのでないかと思います。キリストはご自身についてこういわれたのではなかったでしょうか。「わたしは真理である」(ヨハネ14・6参照)。キリストご自身が、他のすべてのことばが指し示す、生きた神のことばではないでしょうか。それゆえ、「真理によって、彼らを聖なる者としてください」ということばがもっとも深い意味でいおうとしているのはこれです。彼らをわたし、すなわちキリストと一つにしてください。彼らをわたしと結びつけてください。彼らをわたしに引き寄せてください。実際、つまるところ、新しい契約の祭司は、イエス・キリストご自身「ただ一人」しかおられません。したがって、弟子の祭司職は、イエスの祭司職にあずかることでしかありません。それゆえ、わたしたちが司祭であるとは、新たな形でキリストと一致する以外のことではありません。この一致は、本質的な意味で、秘跡によって永続的なしかたでわたしたちに与えられます。しかし、わたしたちの生活が秘跡の真理に導き入れられて深まることがないならば、わたしたちに押されたこの新しい証印は裁きともなりえます。このことについて、今日わたしたちが更新する約束は、わたしたちの意志が次のように方向づけられなければならないと述べます。「あなたがたは自分を放棄して、主イエスに固く結ばれ、強められます(Domino Iesu arctius coniungi et conformari, vobismetipsis abrenuntiantes)」。キリストに結ばれるためには、自己放棄が必要です。自分の道、自分の意志を押し通そうとしてはなりません。何者かになろうと望んではなりません。むしろ、キリストがどこでどのようにわたしたちを用いようとしたとしても、キリストに自分をゆだねなければなりません。そのために聖パウロはいったのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きているのです」(ガラテヤ2・20参照)。司祭叙階のとき、わたしたちは「はい、行います」ということばで、このようにして、自律すること、すなわち「自己実現すること」を根本的に放棄します。しかしわたしたちは、この大きな「はい、行います」を、日々の小さな「はい、行います」によって、すなわち小さな自己放棄によって、実行していかなければなりません。この小さな一歩ずつの「はい、行います」が、全体で大きな「はい、行います」となります。しかし、このことを悲しむことも自分をあわれむこともなく果たしていくには、キリストが本当に自分の生活の中心とならなければなりません。キリストと本当に親しくならなければなりません。実際、そうすればわたしたちは、初めは苦痛に感じることもある自己放棄のただ中で、キリストの友であることの喜びをますます味わうようになります。そして、キリストがわたしたちに与え続けてくださる、愛のしるしを経験するようになります。この愛のしるしには、小さなものもあれば、場合によって大きなものもあります。「自分を失う者は、それを見いだす」。わたしたちは、主のためにあえて自分を失うなら、このことばが真実であることを知ります。
 真理であるキリストに浸されること――祈りはこの歩みの一部です。わたしたちは祈ることによってキリストの友となり、キリストを知るようになるからです。キリストのあり方、考え方、行い方を知るようになるからです。祈りはキリストと個人的な交わりをもちながら歩むことです。わたしたちは、自分の日々の生活、成功と失敗、労苦と喜びをキリストに示します。祈りはただ、自分自身をキリストに示すことです。けれども、それが自分を見つめることにならないために、教会とともに祈るのを学ぶことが大切です。感謝の祭儀をささげることは、祈りにほかなりません。自分の思いと存在をもって、教会が示すことばを唱えるなら、正しく感謝の祭儀をささげることになります。教会が示すことばのうちには、あらゆる時代の祈りが含まれているからです。これらの祈りは、主に向かうわたしたちとともに歩んでくれます。司祭であるわたしたちは、感謝の祭儀の中で、自分の祈りによって、現代の信者に祈りの道を示します。わたしたちが心から祈りのことばと結ばれ、祈りのことばによって導かれ、造り変えられるなら、そのとき信者も祈りのことばに近づくことができるようになります。そのときすべての人が本当の意味でキリストと「一つのからだ、一つの心」となるのです。
 真理に浸されること、そこから、神の聖性に浸されること――わたしたちにとって、それは、真理がわたしたちに行う要求を引き受けることでもあります。すなわちそれは、大きなものであれ、小さなものであれ、さまざまな形で世に存在する偽りに反対することです。それは真理を求める努力を引き受けることです。真理の深い喜びはわたしたちのうちにあるからです。真理によって聖なる者とされることについて語る際に、このことも忘れてはなりません。すなわち、イエス・キリストのうちに真理と愛は一つです。キリストに浸されるとは、キリストのいつくしみに、すなわち、キリストのまことの愛に浸されることです。まことの愛はたやすいものではありません。まことの愛は高い代償を求めることもあります。まことの愛は悪を拒みます。人間にまことの善をもたらすためです。キリストと一つになるなら、この世の苦しむ人、貧しい人、小さな人のうちにこそキリストを認めることができるようになります。こうしてわたしたちは仕える者となります。仕える者はキリストの兄弟姉妹を見分けます。そして、キリストの兄弟姉妹のうちにキリストご自身と出会います。
 「真理によって、彼らを聖なる者としてください」。これがイエスのことばの前半です。しかし、続いてイエスはいわれます。「わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によって――すなわち、本当の意味で――ささげられた者となるためです」(ヨハネ17・19)。この後半部はそれ自体として特別な意味をもっていると思います。世界の諸宗教の中にはさまざまな「聖化」のための、すなわち、人間を聖なる者とするための儀式があります。しかし、こうした儀式は皆、形式的な儀式にとどまります。キリストは弟子に本当の意味で聖なる者となることを求めます。それは弟子の人生と、そればかりか弟子自身を造り変えます。それは単なる形式的な儀礼にとどまらず、彼らが本当の意味で聖なる神のものとなることです。こういうこともできます。キリストはわたしたちのために願います。どうか秘跡があなたがたの存在の奥底に触れますように。しかしキリストはこのことも祈ります。どうかこの変容があなたがたの日々の生活の中で実現しますように。どうかあなたがたが日々の生活の中で、すなわち日々の具体的な生活の中で、本当に神の光で満たされますように。
 58年前の司祭叙階の前の晩、わたしは聖書を開きました。それは、叙階の日のために、そして、司祭として歩むこれからのために、主のことばをもう一度与えてもらうためでした。わたしの目はこの箇所にとまりました。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたのみことばは真理です」。そのときわたしは悟りました。主はわたしのことを語っておられる。主はわたしに語りかけておられる。まさにこれと同じことが、明日、わたしに行われるのだと。つまるところ、わたしたちは儀式によって聖なる者とされるのではありません。たとえ儀式が必要だとしてもです。主がわたしたちを浸してくださる浴槽は、人となられた真理である、主ご自身です。司祭叙階とは、キリストに浸されること、真理に浸されることです。わたしは新たな形で主に属する者となり、そこから、他の人々に属する者となります。「み国が来る」ためです。親愛なる友人の皆様。今、叙階の約束を更新するにあたり、主に祈りたいと思います。どうかわたしたちを真理の人、愛の人、神の人にしてください。主に祈ろうではありませんか。わたしたちをますますあなたのもとに引き寄せてください。わたしたちが真の意味で新しい契約の祭司となることができますように。アーメン。

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