教皇ベネディクト十六世の175回目の一般謁見演説 アンブロシウス・アウトペルトゥス

4月22日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の175回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第4回として、「アンブロシウス・アウトペルトゥス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 
 教会は人間の中に生きています。教会を知り、教会の神秘を理解したければ、教会のメッセージと神秘を生きた人、今も生きている人を考察しなければなりません。そのためにわたしは水曜日の連続講話の中で、長期間にわたって、その人から教会とは何かを学べる人々についてお話ししています。わたしたちは使徒と教父から始めて、カール大帝(Karl I, der Große; Charlemagne 742/747-814年、フランク王在位768-没年、西ローマ皇帝在位800-没年)の時代である8世紀にゆっくりと到達しました。今日わたしは、あまり知られていない著作家であるアンブロシウス・アウトペルトゥス(Ambrosius Autpertus 784年没)についてお話ししたいと思います。実際、アンブロシウス・アウトペルトゥスの著作の大部分は、ミラノの聖アンブロシウス(Ambrosius Mediolanensis 339頃-397年)から聖イルデフォンスス(Ildefonsus episcopus Toletanus 607頃-667年)に至るまでの他の有名な人の著作とされました。モンテカッシーノ修道院の修道士が約1世紀後に生きた同名の修道院長が書いたと考えた著作についてはいうまでもありません。黙示録についての大きな注解に挿入された短い自伝的な言及のほかには、アンブロシウス・アウトペルトゥスの生涯についてはっきりしたことは知られていません。しかし、文献学者が少しずつアウトペルトゥスの著作であると認めた著作を注意深く読むことによって、彼の教えの中に、現代にとっても貴重な神学的・霊的宝を再発見できるようになりました。
 プロヴァンスの名家に生まれたアンブロシウス・アウトペルトゥスは、その伝記作者ヨハネスによると、フランク王ピピン短軀王(Pipin III der Kurze; der Jüngere フランク王在位751/752-768年)の宮廷に仕えました。この宮廷で、アウトペルトゥスは、後のカール大帝の家庭教師をもある程度務めました。おそらく753-754年にフランク王国宮廷を訪問した教皇ステファヌス二世(Stephanus II 在位752-757年)に従って、アウトペルトゥスはイタリアに赴きました。そして、ベネヴェント公領のヴォルトゥルノの泉のほとりにある有名なサン・ヴィンチェンツォ・ベネディクト修道院を訪れることができました。8世紀初頭にベネヴェント公の3兄弟のパルド、タト、タソによって創立されたこの修道院は、古典文化とキリスト教文化のオアシスとして知られていました。この訪問のすぐ後、アンブロシウス・アウトペルトゥスは修道生活を始めることを決め、サン・ヴィンチェンツォ修道院に入りました。彼は修道院の中で、教父の伝統に従い、特に神学と霊性の分野で適切な教育を受けることができました。761年頃、司祭に叙階され、777年10月4日フランク人修道士の支持を得て修道院長に選ばれました。しかし、ランゴバルド人ポトを支持する幾人かのランゴバルド人修道士はこれに反対しました。民族的な理由による対立はその後数か月経っても収まらなかったため、アウトペルトゥスは翌年の778年に修道院長職を辞職し、数名のフランク人修道士とともにスポレトに退くことにしました。彼はスポレトでカール大帝の庇護を受けることができたからです。しかし、それでもサン・ヴィンチェンツォ修道院の対立は収束しませんでした。数年後、アウトペルトゥスの後を継いだ修道院長が死に、ポト自身が修道院長に選ばれると(782年)、争いは再燃し、新しい修道院長をカール大帝に通告するまでに至りました。対立する両勢力は教皇裁判所に訴え、教皇は彼らをローマに召喚しました。アウトペルトゥスも証人として招請されましたが、彼は旅の途中、784年1月30日に、おそらく殺害されて急逝します。
 アンブロシウス・アウトペルトゥスは、激しい政治的対立を特徴とする時代に生きた修道士また修道院長でした。政治的対立は修道院内の生活にも影響しました。このことは彼の著作にもしばしば不安な影を落としています。たとえばアウトペルトゥスは、修道院の壮麗な外観と修道士の生ぬるさが矛盾していることを非難します。この批判がアウトペルトゥス自身の修道院にも向けられていたことはいうまでもありません。アウトペルトゥスは自分の修道院のために3人の修道院創立者の『伝記』(Vita)を書きました。それは明らかに、新しい世代の修道士に、目指すべき基準となる目的を示すためでした。修徳的な小論考『悪徳と美徳の戦い』(Conflictus vitiorum et virtutum)も同様の目的を目指していました。この論考は中世において大きな成功を収め、1473年ユトレヒトで大グレゴリウス(Gregorius Magnus 540頃-604年、教皇在位590-没年)の名前で、その1年後にはシュトラスブルクで聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)の名前で出版されました。この著作でアンブロシウス・アウトペルトゥスは、どうすれば日々、霊的な戦いに立ち向かうことができるかを、具体的なしかたで修道士に教えようとします。彼ははっきりと、二テモテ3・12のことば「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」を、外的な迫害だけでなく、キリスト信者が自分の内面で戦わなければならない悪の力の攻撃に当てはめます。アウトペルトゥスはいわば24組の対戦を示します。悪徳は皆、緻密な議論で魂を説得しようと努めます。これに対して美徳は、聖書のことばを好んで用いることによってこのようなささやきを拒絶します。
 悪徳と美徳の戦いに関するこの論考の中で、アウトペルトゥスは「貪欲(cupiditas)」と「世へのさげすみ(contemptus mundi)」を対比します。「世へのさげすみ」は修道士の霊性の中で重要な要素となります。世をさげすむことは被造物をさげすむこと、すなわち、被造物の美しさとよさ、そして造り主をさげすむことではありません。むしろそれは、貪欲がわたしたちに示し、抱かせる、世に対する誤った見方をさげすむことです。貪欲はわたしたちにこう思わせます。「所有すること」が、人生の、すなわちこの世での生活の最高の価値だ。この世での生活こそが大事だと思われるからだ。こうして貪欲は世の被造物を誤った形で造り変え、世を破壊します。さらにアウトペルトゥスは、彼の時代の社会の金持ちや権力者に見られる利益への貪欲さが、修道士の心の中にも存在すると指摘します。そこで彼は『貪欲について』(De cupiditate)という論考を書きました。この論考の中で、アウトペルトゥスは、使徒パウロとともに、あらゆる悪徳の根源である貪欲を初めから非難します。彼はいいます。「地の土壌では、さまざまな根からさまざまな鋭い棘(とげ)が生えます。しかし、人間の心においては、あらゆる悪徳の針は、貪欲という唯一の根から生じます」(『貪欲について』:De cupiditate 1, CCCM 27B, p. 963)。これは、現在の世界経済の危機から見て、完全に現代的な意味をもっていると思われます。わたしは、今日の危機はこの貪欲という根源から生まれたと思います。アウトペルトゥスは金持ちや権力者が反論することを想像して、いいます。「しかし、われわれは修道士ではない。このような修徳的な要求はわれわれにはあてはまらない」。これに対してアウトペルトゥスはこたえます。「おっしゃることはもっともです。しかし、厳しく狭い道はあなたがたの階級のやり方において、あなたがたの能力に応じて、あなたがたにもあてはまります。なぜなら、主は二つの門と二つの道だけを示されるからです(つまり、狭い門と広い門、細い道と広い道です)。主は第三の門も、第三の道も示されませんでした」(同:l. c., p. 978)。アウトペルトゥスは、生き方はさまざまであることをはっきりと認めます。しかし、この世の人や金持ちも、貪欲や所有欲、名誉欲と戦わなければなりません。何でも自分の好きなように用いることができる力という、誤った自由の概念と戦わなければなりません。金持ちも、真理と愛に基づく正しい道を見いだし、そこから、正しく生きる道を見いださなければなりません。それゆえ、魂の賢明な牧者であるアウトペルトゥスは、悔い改めの説教の終わりに、慰めのことばを述べます。「わたしは貪欲な人に反対しろというのではなく、貪欲に反対しなさいといっているのです。本性に反対しろというのではなく、悪徳に反対しなさいというのです」(同:l. c., p. 981)。
 アンブロシウス・アウトペルトゥスのもっとも重要な著作が、10巻から成る『黙示録注解』(Expositio in Apocalypsin)であることはいうまでもありません。これは、数世紀を経て、ラテン世界で最初に書かれた、聖書の最後の書についての詳細な注解書です。この著作は長年の作業から生まれました。この作業は彼が修道院長に選ばれる前の、758年から767年の間の二つの時期に行われました。アウトペルトゥスは序文の中で源泉資料をはっきりと示します。これは中世において決して普通のことではありませんでした。源泉資料の中でおそらくもっとも重要と思われる、6世紀中頃に書かれたハドルメントゥムの司教プリマシウス(Primasius Hadrumentinus 550/560年活動)の注解を通じて、アウトペルトゥスはアフリカ人テュコニウス(Tyconius 400年頃没)の黙示録注釈に触れました。テュコニウスは聖アウグスティヌスの一世代前の人です。テュコニウスはカトリックではなく、ドナトゥス派の分派教会に属していましたが、偉大な神学者でした。テュコニウスは自らの注解の中で、教会の神秘は何よりも黙示録の中に示されていると考えました。テュコニウスは、教会は二つの部分をもつからだであるという確信に達しました。彼のいうところによれば、一つの部分はキリストに属しますが、悪魔に属するもう一つの部分もあります。アウグスティヌスはこの注解を読んで、そこに役に立つものを見いだしました。しかしアウグスティヌスは強調します。教会はキリストの手のうちにあります。教会はキリストのからだであり続けます。そして、キリストとともに唯一の身体を形づくり、恵みの仲介にあずかります。それゆえアウグスティヌスは、教会をイエス・キリストから切り離すことが決してできないことを強調するのです。テュコニウスの注解と似た、自らの黙示録注解の中で、アウトペルトゥスは、世の終わりのときのキリストの再臨にあまり関心を寄せません。むしろ彼が関心をもつのは、キリストの最初の到来である、おとめマリアの胎ヘの受肉が教会にもたらした結果です。アウトペルトゥスはきわめて重要なことをわたしたちに語ります。実際、キリストは「キリストのからだであるわたしたちのうちで、日々、生まれ、死に、復活しなければなりません」(『黙示録注解』:Expositio in Apocalypsin III, CCCM 27, p. 205)。すべてのキリスト信者にかかわるこの神秘的な次元と関連して、アウトペルトゥスは、教会の模範であり、わたしたち皆の模範であるマリアに目を向けます。なぜなら、わたしたちのうちでも、わたしたちの間でも、キリストが生まれなければならないからです。黙示録12・1の「太陽を身にまとう女」のうちに教会の姿を認めた教父を支えとして、アウトペルトゥスは論じます。「祝福された聖なるおとめは・・・・日々、新たな民を生みます。この新たな民から仲介者のからだ全体が形づくられます。ですから、このおとめが教会の模範を代表したとしても驚くべきではありません。このかたの祝福された胎によって、教会も、かしらであるかたと一致するにふさわしいものとされたのだからです」。その意味で、アウトペルトゥスは、あがないのわざの中でおとめマリアが決定的な役割を果たしたと考えます(説教『聖マリアの清めについて』〔In purificatione s. Mariae〕および『聖マリアの被昇天について』〔In adsumptione s. Mariae〕も参照)。アウトペルトゥスの神の母に対する深い崇敬と愛は、聖ベルナルドゥス(Bernardus Claraevallensis 1091-1153年)やフランシスコ会の神秘家たちの表現をある意味で先取りする表現を生み出しました。しかしアウトペルトゥスの表現は、感情的と批判されるようなものに逸脱することがありませんでした。アウトペルトゥスはマリアと教会の神秘を切り離すことがなかったからです。それゆえ、アンブロシウス・アウトペルトゥスが西方教会における最初の偉大なマリア神学者とみなされるのはもっともなことです。アウトペルトゥスによれば、敬虔は魂を地上の過ぎ行く快楽への執着から解き放たなければなりません。このような敬虔を、聖なる学の深い研究、特に聖書の考察と一致させなければならないと、彼は考えます。アウトペルトゥスは聖書を「深い天、はかりしれない深淵」(『黙示録注解』:Expositio in Apocalypsin IX)と呼びます。『黙示録注解』の結びの美しい祈りの中で、あらゆる神学的な真理の探求において愛が第一に優先されるべきことを強調しながら、アウトペルトゥスは神に次のように語りかけます。「知性によってあなたを究めるなら、あなたの真実の姿を見いだすことはできません。あなたを愛するなら、あなたに至ります」。
 現代において、アンブロシウス・アウトペルトゥスは、教会がきわめて政治的に利用された時代に生きた人だと考えることができます。そこでは、国家主義や民族主義が教会の姿をゆがめていました。しかし、アウトペルトゥスは、わたしたちも体験するこのようなあらゆる困難の最中で、マリアのうちに、聖人たちのうちに、教会の真の姿を見いだすことができました。こうして彼は悟ることができました。カトリックであるとはいかなることか。キリスト者であるとはいかなることか。神のことばを生き、神のことばの深淵に入り、そこから、神の母の神秘を生きるとはいかなることかを。それは、神のことばに新たないのちを与えることです。今のときにあって、自分のからだを神のことばにささげることです。そして、神学的知識と深い学問を備えたアウトペルトゥスは、単なる神学的探求だけでは神が本当にいかなるかたであるかを知ることができないと悟ることができました。愛だけが神に達することができます。このメッセージに耳を傾けようではありませんか。そして主に祈ろうではありませんか。主の助けによって、わたしたちが今日、現代にあって、教会の神秘を生きることができますように。

略号
CCCM Corpus Christianorum Continuatio Mediaevalis

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