教皇ベネディクト十六世の176回目の一般謁見演説 コンスタンティノポリスの総大司教聖ゲルマノス

4月29日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の176回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第5回として、「コンスタンティノポリスの総大司教聖ゲルマノス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日お話ししたいコンスタンティノポリスの総大司教ゲルマノス(Germanos I コンスタンティノポリス総大司教在位715-730年)は、ギリシア語を話す東方キリスト教世界の代表的な人物ではありません。しかし彼の名前は、第7回公会議である第2ニカイア公会議(787年)が述べた聖画像の偉大な擁護者のリストの中におごそかなしかたで現れます。ギリシア教会は彼の祝日を5月12日に祝っています。ゲルマノスは、いわゆる「聖画像破壊の危機」の間、聖画像をめぐる争いの複雑な歴史の中で重要な役割を果たしました。彼は聖画像破壊論者の皇帝、すなわちイコン反対者のレオ三世(Leo III Isauricus 在位717-741年)の圧力に力強く抵抗することができました。
  ゲルマノスが総大司教を務めていた頃(715-730年)、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノポリスはサラセン人の包囲の危険にさらされていました。このとき(717-718年)町の守護を天上に祈願するために、コンスタンティノポリス市内で神の母(テオトコス)のイコンと聖なる十字架の聖遺物を顕示した荘厳な行列が行われました。実際、コンスタンティノポリスは包囲から解放されました。敵は、自分たちの首都をキリスト教帝国の象徴である町に築くという考えを永久に放棄することに決め、人々は神の助けに大いに感謝しました。
  総大司教ゲルマノスはこの出来事の後、神のわざは、聖なるイコンに対して民衆が示した信心を明らかに認めたものと考えるべきだと確信しました。しかし、レオ三世はまったく逆の考えでした。レオ三世はちょうどこの年(717年)にコンスタンティノポリスでゆるぎない皇帝として就任し、741年まで統治しました。コンスタンティノポリスの解放と、一連の勝利の後、このキリスト教皇帝は、帝国の強化は信仰表現の改革から始めなければならないという確信をこれまでにましてはっきりと表明し始めました。ここでいう信仰表現は特に偶像崇拝に関わります。皇帝は、イコンの過度な礼拝によって、民衆が偶像崇拝にさらされると考えたのです。
  教会の伝統と、だれもが「奇跡的」なものと認めた、ある種のイコンが実際にもつ力に対する総大司教ゲルマノスの主張は、敗北しました。皇帝はいっそう頑強に自らの改革計画を実施しようとしました。この計画はイコンの禁止を含むものでした。730年1月7日に皇帝が公の集会の中でイコン礼拝にはっきりと反対する立場を表明したとき、ゲルマノスは、正統信仰にとって決定的なものと彼が考える問題に関して皇帝の意志に決して従おうとしませんでした。ゲルマノスは、イコンを礼拝し、愛することはまさに正統信仰に属することだと考えたからです。その結果、ゲルマノスは総大司教職を辞職することを余儀なくされました。彼はある修道院に追放され、そこでほとんどすべての人に忘れ去られながら亡くなりました。彼の名前はまさに第2ニカイア公会議(787年)のときに再び現れます。そのとき東方教父はイコンを擁護することを決議し、ゲルマノスのいさおしを認めたのでした。
  総大司教ゲルマノスは典礼を深く重んじ、ある時期、「アカティストス」の祝日の創立者とも考えられていました。ご存じのように、「アカティストス」はビザンティン地域で生まれた古代からの有名な賛歌で、「神の母(テオトコス)」にささげられたものです。神学的観点から見てゲルマノスを偉大な思想家と呼ぶことはできませんが、彼の著作の一部は、特に「マリア論」についてのある種の直観のゆえに影響を与えました。実際、マリアについて述べたいくつかの説教が残っており、その一部は東方教会と西方教会のあらゆる世代の信者の信心に深い痕跡を残しています。すばらしい『マリアの神殿への奉献の祝日の説教』は、文字に書かれていないキリスト教会の伝承の生きたあかしです。女子・男子修道者と多くの奉献生活の会の会員は、今もこのテキストのうちに霊性の貴重な宝を見いだし続けています。
  ゲルマノスのいくつかのマリアに関するテキストは、今も驚嘆に値します。これは、西方教会における被昇天の祭日に当たる、「神の母の就眠の祝日」に行われた説教の一部です。教皇ピオ十二世(在位1939-1958年)は、マリアの被昇天の教義を宣言した使徒憲章『ムニフィケンティッシムス・デウス(1950年)』の中にこのテキストの一つを真珠のようにはめ込みました。ピオ十二世はこの使徒憲章の中でゲルマノスのテキストを引用して、それをマリアが肉体をもって天に上げられたことに関する教会の不変の信仰を擁護する議論として示しました。ゲルマノスはこう述べます。「至聖なる神の母よ。天も地もあなたがともにいてくださることを栄誉と感じました。そのあなたが、地上を離れるときに、あなたの保護なしに人々を残すことがありうるでしょうか。決してありえません。このようなことは考えることもできません。実際、あなたが世におられたとき天と無関係であると感じられなかったように、この世から移られた後も、あなたが霊のうちに人々と語ることができないなどということはありえません。・・・・あなたが救いを保証してくださった人々を見捨てることなどありえません。・・・・実際、あなたの霊は永遠に生き、あなたの肉体も墓の腐敗に服することがありません。ああみ母よ。あなたはすべての人のそばにおられ、すべての人を守ってくださいます。そして、至聖なるかたよ、たとえわたしたちの目があなたを見ることができなくても、わたしたちは知っています。あなたはわたしたち皆のただ中に住まわれ、さまざまなしかたでともにいてくださるということを。・・・・書かれている通り、あなたはご自身の美しさのうちにご自身をすべて示してくださいます。あなたのおとめのからだは完全に聖であり、完全に清く、完全な神の住まいです。ですからそれが塵に帰ることなど絶対にありえません。あなたのからだは不変であり、人間であったときから不滅のものとして上げられ、完全な栄光のうちに生き、傷つけられることなく完全ないのちにあずかります。実際、神の器、すなわち至聖なる神である独り子の生きた神殿となられたかたが、死者の墓に閉じ込められることなどありえません。さらにわたしたちは、あなたがわたしたちとともに歩み続けてくださることを確固として信じます」(PG 98, 344B-346Bほか)。
  ビザンティンの人々にとって、説教や、「トロパリオン」と呼ばれる賛歌ないし詩における修辞的な装飾形式は、典礼において、典礼が行われる聖堂の美しさと同じように重要だといわれています。ことばや言語の美しさと、建物と音楽の美しさは一致しなければならない――総大司教ゲルマノスはビザンティンの伝統の中で、この確信を生き生きと保つことに貢献した人々の一人として知られます。
  終わりに、ゲルマノスがその優れた小品の冒頭で、教会について述べた霊感に満ちたことばを引用します。「教会は神の神殿であり、聖なる場所であり、祈りの家であり、民の集会であり、キリストのからだです。・・・・教会は地上における天です。すべてを超える神がご自分の住まいとしてそこに住まわれ、その中を歩まれるからです。しかし教会は十字架と墓と復活の実現したしるし(アンティテュポス)でもあります。・・・・教会は、いのちを与える神秘のいけにえがささげられる神の家であるとともに、聖所の奥深いところ、聖なる洞窟です。実際、そこには墓と食卓があって、魂に糧を与え、いのちを保証します。最後に、そこには真実の貴重な真珠そのものがあります。すなわち、主が弟子たちに直接与えてくださった教えに関する神的な教義です」(PG 98, 384B-385A)。
  最後に問いが残ります。時代的にも文化的にもわたしたちからかけ離れたこの聖人は、現代のわたしたちに何を語ってくれるのでしょうか。わたしは基本的に三つあると思います。第一はこれです。世と教会の中で神がいわば目に見えるものであること。わたしたちはこのことを認めるのを学ばなければなりません。神はご自分の像に従って人間を造りました。しかし、この像は多くの罪の汚れによって覆われています。そのために神はいわば目に見えなくなってしまいました。そこで神の子はまことの人となり、完全な神の姿となりました。こうしてわたしたちはキリストのうちに神のみ顔までも仰ぎ見ることができます。そして、自分たちもまことの人、すなわちまことの神の像となることを学ぶことができます。キリストはわたしたちを招きます。わたしに倣いなさい。わたしと同じような者になりなさい。それは、すべての人のうちに神のみ顔が、すなわち神の像が、あらためて目に見えるようになるためです。たしかに、神は十戒の中で神の像を作ることを禁じました。それは神の像が偶像崇拝への誘惑の原因となったためです。信じる人々は異教の環境の中でこの誘惑にさらされる恐れがあったのです。しかし、神は受肉によってキリストのうちに目に見えるものとなりました。こうしてキリストのみ顔を写すことが認められることになりました。聖画像は、わたしたちがキリストのみ顔の表現のうちに神を見いだすようにと教えます。それゆえ、神の子の受肉の後、キリストの姿のうちに、また聖人の顔のうちに、神の聖性を輝かすすべての人の顔のうちに、神を見いだすことが可能となりました。
  第二は、典礼の美しさと品位です。神がそこにいますことを意識しながら、神の御稜威(みいつ)を示す品位と美しさをもって典礼をささげること。これは、深い信仰をもったあらゆるキリスト信者の務めです。第三は、教会を愛することです。わたしたち人間は教会について、まず罪と否定的なものを認める傾向があります。けれども、本来の形でものを見ることができるようにしてくれる信仰の助けによって、わたしたちは今もこれからも、教会のうちに神の美しさを再発見できます。神は教会の中に現存され、聖体によってご自身を与えてくださり、わたしたちが礼拝するために現存し続けてくださいます。神は教会の中でわたしたちに語りかけてくださいます。聖ゲルマノスがいう通り、「神は」教会の中で「わたしたちとともに歩んでくださいます」。わたしたちは教会の中で神からゆるしを与えられ、ゆるすことを学びます。
  神に祈ろうではありませんか。どうか教会の中にあなたの現存と美しさを見いだすことを、世においてあなたの現存を見いだすことを教えてください。あなたの助けによって、わたしたちもあなたの光を目に見えるようにする者となることができますように。

略号
PG Patrologia Graeca

PAGE TOP