教皇ベネディクト十六世の179回目の一般謁見演説 ストゥディオスの聖テオドロス

5月27日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の179回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第7回として、「ストゥディオスの聖テオドロス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日考察するストゥディオスの聖テオドロス(Theodoros 759-826年)は、宗教的・政治的な観点からきわめて不穏な時期の、盛期中世ビザンティン時代へとわたしたちを導きます。聖テオドロスは759年、敬虔な貴族の家庭に生まれました。母テオクティステ(Theoktiste)と、伯父でビテュニアのサックディオン修道院長のプラトン(Platon 735頃-814年)は聖人としてあがめられています。この伯父に導かれて、テオドロスは22歳で修道生活を始めました。テオドロスは(コンスタンティノポリス)総大司教タラシオス(Tarasios 在位784-806年)によって司祭に叙階されましたが、後に、皇帝コンスタンティノス6世(Konstantinos VI 在位780-797年)の不法な結婚問題の際に総大司教が示した弱腰な態度のゆえに、総大司教との交わりを絶ちました。その結果、テオドロスは796年にテサロニケへの流刑に処せられました。翌年、女帝エイレネ(Eirene 在位797-802年)の下で宮廷と和解しました。エイレネの好意で、テオドロスとプラトンは、サックディオン修道院の大部分の修道士とともにコンスタンティノポリスのストゥディオス修道院に移されました。サラセン人の侵攻を避けるためです。こうして重要な「ストゥディオスの改革」が始まりました。
  ところで、テオドロス個人の生活は活動的なものであり続けました。持ち前の活力によって、テオドロスは「アルメニア人」レオン5世(Leon V 在位813-820年)による聖画像破壊主義への抵抗運動の指導者となりました。レオン5世は再び教会内に画像やイコンが存在することに反対したからです。ストゥディオス修道士が主催したイコン行列は、官憲の介入を招きました。815年から821年までテオドロスは鞭打ちと投獄と小アジア各地への流刑に処せられました。ついにテオドロスはコンスタンティノポリスに戻ることができましたが、自分の修道院には戻れませんでした。そこで彼は自分の修道士たちとともにボスフォラス海峡の反対側に自分の修道院を創立しました。テオドロスは826年11月11日に没したと思われます。ビザンティンの教会暦ではこの11月11日にテオドロスを記念します。テオドロスは教会史の中で、偉大な修道生活の改革者として、また、コンスタンティノポリス総大司教聖ニケフォロス(Nikephoros 在位806-815年)とともに、聖画像破壊運動の第二期における聖画像擁護者として、傑出した存在です。テオドロスは、イコン崇敬の問題は受肉に関する真理そのものと関わると考えました。3巻の『聖画像崇敬の擁護論』(Antirrheticus)の中で、テオドロスは三位一体の内的関係をキリストの二つの本性の関係になぞらえました。三位一体においておのおのの位格の存在は一致を破壊せず、キリストの二つの本性はキリストにおいて「ロゴス(みことば)」の唯一の位格を傷つけないからです。テオドロスは次のように論じます。キリストのイコンを崇敬することを廃止するなら、キリストのあがないのわざを取り消すことになります。目に見えない永遠の「みことば」は、人間本性を取られたときから目に見える人間の肉のうちに現れ、こうして目に見える全宇宙を聖化したからです。典礼の祝福と信者の祈りによって聖なるものとされたイコンは、わたしたちをキリストの位格、またキリストの聖人と結びつけ、そして彼らを通して天の父と結びつけます。こうしてイコンは、わたしたちが目に見える物質的な世界の中で神的な現実に参入することをあかしします。
  聖画像破壊主義者による迫害の時期に勇気をもってあかしを行った、テオドロスとその修道士は、ビザンティン世界における共住修道生活の改革と不可分の形で結ばれています。彼らの重要性は、数字という外的なしるしによっても示されます。当時の修道院の修道士の数は30人から40人を超えることはありませんでしたが、『テオドロス伝』によれば、ストゥディオスには延べ1000人以上の修道士がいたことが分かります。テオドロス自身も、自分の修道院には300人の修道士がいるといっています。それゆえ、テオドロスという人のまわりで生まれた熱心な信仰は、同じ信仰によって養成され、形成されていたことが分かります。しかし、この共住修道生活の創立者から刻印された新たな精神が及ぼした影響は、数の上だけのものではありません。テオドロスは著作の中で、教父、特に、最初に修道生活の規則を定めた聖バシレイオス(Basileios 330頃-379年)や、有名なパレスチナの砂漠の霊的師父であるガザの聖ドロテオス(Dorotheos 6世紀)に立ち戻らなければならないと強調します。テオドロスの特徴的な貢献は、修道士の規律と従順の必要性を強調したことにあります。迫害の間、修道士たちは分散し、自分の判断に従って生活することを習慣としました。共住生活を再開することができるようになったとき、修道院を、再び真の有機的な共同体、真の家族、あるいは、テオドロスのことばを使えば、真の「キリストのからだ」にするよう心から努めなければなりませんでした。このような共同体のうちに、教会の存在全体が具体的に実現されるのです。
  テオドロスのもう一つの深い確信はこれです。すなわち、修道士は世俗の信徒よりも厳格かつ徹底的にキリスト教的な義務を守る務めがあるということです。そのために修道士は特別な誓願を立てます。この誓願は奉献(ハギアスマタ)に属し、いわば「新しい洗礼」といえます。修道服はこの「新しい洗礼」を受けたしるしです。けれども、世俗の信徒に対する修道士の特徴は、清貧、貞潔、従順の約束です。テオドロスは修道士に向かって清貧について具体的に、場合によって生き生きとしたしかたで語ります。ところで、キリストに従うための清貧は、初めから修道制の本質的な要素でしたが、わたしたちにも道を示します。私的財産の放棄、物質的なものからの自由、節制と質素な生活は、徹底的な形においては修道士にのみ当てはまるものです。しかし、こうした離脱の精神はすべての人に等しく当てはまります。実際、わたしたちは物質的な財産に頼ってはなりません。むしろ、離脱、質素な生活、禁欲、節制を学ばなければなりません。このようにして初めて社会の連帯性を強め、現代世界の大きな貧困の問題を解決することができるのです。それゆえ、この意味で、清貧な修道士の徹底的なしるしは、わたしたち皆にも基本的な道を示します。その後、貞潔に対する誘惑を説明する際、テオドロスは自分の体験を隠さず、自制に至るための内的な戦いの道と、そこから、神の神殿である自分のからだと他者のからだを尊重することを示します。
  しかし、テオドロスにとって、根本的な意味での離脱は、従順が求める離脱です。なぜなら、修道士には皆、自分の生き方があり、300人から成る大きな共同体に参加するには、真の意味で新しい生活様式が求められるからです。テオドロスはこの新しい生活様式を「従順による殉教」と呼びます。ここでも修道士は、わたしたちにも必要なことがらに関する一つの模範を示します。なぜなら、原罪の後、人間の傾向は、自分の意志を行うことだからです。第一原理はこの世の生活であり、それ以外のことは皆、個人の意志にゆだねられます。しかし、こうして、もしすべての人が自分自身に従うなら、社会構造は機能できなくなります。自分を共通の自由に接ぎ木すること、共通の自由に参加し、従うこと、法律を学ぶこと、すなわち、共通善と公共生活の規則に服従し、従うこと――これらのことを学ぶことによって初めて社会はいやされます。また、自分を世界の中心に置こうとする傲慢な「自分」もいやされます。このようにして聖テオドロスの鋭い洞察の助けによって、彼の修道士も、わたしたちも、まことの生活を悟ることができます。そして、自分の意志を生活の最高の規則とする誘惑に抵抗し、自分の本来のあり方――それは常に他者のありかたとともにあるものです――と心の平和を保つことができるのです。
  ストゥディオスのテオドロスにとって、従順と謙遜とともに重要な美徳は、「労働への愛(フィレルギア)」でした。テオドロスは「労働への愛」のうちに個人の信仰生活の質を試す基準を見いだしました。テオドロスはいいます。物質的な意味での仕事に熱心な人、熱心に働く人は、霊的なことがらにも熱心です。そのため彼は、修道士が、祈りや観想を口実にして、手仕事を含めた労働を免除されることを許しません。実際、労働と手仕事は、テオドロスと修道制の伝統全体によれば、神を見いだすための手段だからです。テオドロスは、労働は「修道士のいけにえ」であり、「典礼」であり、さらには一種のミサであると、はばかることなくいいます。ミサを通じて修道生活は天使のような生活となるからです。まさにこのようにして労働の世界は人間らしいものとなり、人間は労働を通じて、いっそう自分らしく、神に近いものとなるのです。この独特の見方がもたらした結果は考察に値します。共通の労働から得た富は、まさにそれが一種の「典礼」が生み出した成果であるがゆえに、修道士の生活のためではなく、貧しい人を助けるために使わなければなりません。ここからわたしたちは、労働の成果はすべての人のための善とならなければならないことを知ることができます。もちろん、「ストゥディオス修道士」の労働は手仕事だけではありませんでした。彼らは写本家、画家、詩人、若者の教育者、学校教師、司書として、ビザンティン文明の宗教的・文化的発展のためにきわめて重要な役割を果たしました。
  テオドロスはきわめて広範囲の外的活動を行ったとはいえ、そのために、長上としての仕事に密接に関わると考えることをおろそかにはしませんでした。それは、自分の修道士たちの霊的な師父となるということです。テオドロスは、優しい母と聖なる伯父プラトンが自分の生涯にどれほど影響を与えたかを自覚していました。彼は伯父プラトンをはっきりと「父」という名で呼んでいます。だからこそ彼は修道士たちに霊的指導を行いました。『テオドロス伝』の作者によれば、テオドロスは毎日、晩の祈りの後、イコノスタシス(聖障)の前で、すべての人の告白に耳を傾けました。彼は自分の修道院の外の多くの人にも霊的勧告を行いました。『霊的遺言』(Testamentum)と『書簡集』(Epistulae)は、テオドロスの開かれた優しい性格を際立たせるとともに、彼の父としての気遣いから修道院内外の人々との真の霊的友愛が生まれたことを示しています。
  「ヒュポテュポシス」という名で知られる、テオドロスの死後間もなくまとめられた『修道規則』は、アトス山で、962年に、アトスの聖アタナシオス(Athanasios 920/930-1000年頃)が「大ラウラ」を創立したとき、また、キエフ・ルーシで、第2千年期の初めに、聖フェオドシイ(Feodosij 1074年没)が「洞窟のラウラ」にこの規則を導入したときに、わずかに修正された形で採用されました。その本来の意味を考えるなら、『修道規則』はきわめて現代的な意味をもっています。今日、さまざまな思潮が生まれ、共通の信仰の一致を脅かすとともに、人々を一種の危険な霊的個人主義や霊的傲慢へと導いています。わたしたちは、キリストのからだの完全な一致を守り、成長させるよう努力しなければなりません。キリストのからだの一致においてこそ、調和のうちに、秩序ある平和と霊における真の意味での人間関係を形づくることができるからです。
  終わりに、テオドロスの霊的教えの根本的な要素のいくつかを挙げるとよいと思われます。それは、受肉した主と、典礼とイコンのうちに目に見えるものとなられた主を愛することです。洗礼への忠実と、キリストのからだの一致のうちに生きることです。キリストのからだの一致は、キリスト信者の互いの交わりでもあります。清貧、節制、離脱の精神。貞潔、自制、謙遜、自分の意志を優先しないための従順です。自分の意志を優先するなら、社会構造と魂の平安を破壊することになるからです。物質的・精神的労働への愛。自らの良心、魂、生活を清めることによって生まれる霊的友愛です。真の意味で、まことのいのちへの道をわたしたちに示す、これらの教えに従おうと努めようではありませんか。

PAGE TOP