教皇ベネディクト十六世の180回目の一般謁見演説 修道士ラバヌス・マウルス

6月3日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の180回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第8回として、「修道士ラバヌス・マウルス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日は、修道士ラバヌス・マウルス(Hrabanus Maurus 780頃-856年)という、真の意味で西方ラテン教会の特別な人物についてお話ししたいと思います。以前の講話ですでにお話ししたセビリャのイシドルス(Isidorus Hispalensis 560頃-636年)、ベーダ・ウェネラビリス(Beda Venerabilis 673/674-735年)、アンブロシウス・アウトペルトゥス(Ambrosius Autpertus 784年没)といった人々と同じく、ラバヌス・マウルスは、いわゆる盛期中世において、古代の学者やキリスト教教父の偉大な文化との関係を保ち続けることができました。しばしば「ゲルマニアの教師(praeceptor Germaniae)」と呼ばれたラバヌス・マウルスは、驚くほど多くの著作を著しました。彼はそのまことに稀に見る著作能力をもって、後の時代の人々が参照できるよう、神学・釈義・霊性の文化を生き生きと保つことにもっとも貢献した人物に違いありません。ペトルス・ダミアニ(Petrus Damiani 1007-1072年)、ペトルス・ウェネラビリス(Petrus Venerabilis 1092/1094-1156年)、クレルヴォーのベルナルドゥス(Bernardus Claraevallensis 1091-1153年)のような修道士の世界に属する偉大な人々がラバヌスを参照しました。ますます多くなった「在俗司祭」も同じです。これらの在俗司祭は、12・13世紀のもっともすばらしく実り豊かな人文思想の最盛期の一つに生命を与えました。
  780年頃マインツに生まれたラバヌスは、幼くして修道院に入りました。彼につけられたマウルスという名前は、大聖グレゴリウス(Gregorius Magnus 540頃-604年、教皇在位590-没年)の『対話』(Dialogi)第2巻に述べられている、ローマ貴族の両親によって幼くしてヌルシアの修道院長ベネディクトゥス(Benedictus de Nursia 480頃-547/560年頃)にゆだねられた少年マウルスにちなんだものです。ラバヌスがこのように幼くして「奉献された少年(puer oblatus)」としてベネディクト修道院に入り、そのことが彼の人間的・文化的・霊的成長にもたらした結果は、きわめて興味深い可能性を開きました。この可能性は、修道生活と教会生活だけでなく、通常「カロリング期」と呼ばれる彼の時代の社会全体にかかわるものでした。当時の人間、またおそらく自分自身について、ラバヌスはこう述べます。「ある人々は幸いにして幼い頃から(a cunabulis suis)聖書の知識へと導かれ、聖なる教会が与える糧で大いに養われました。こうして彼らは適切な教育によってもっとも高い位階へと上げられることができたのです」(PL 107, 419BC)。
  ラバヌス・マウルスの際立って特別な教養は、ただちに当時の有力者の注意を引きました。彼は皇太子の顧問となりました。ラバヌスは(フランク)王国の一致の維持に努め、より広い文化の次元において、誰であれ自分に質問する人に対しては、何よりも聖書と聖なる教父の著作に見いだされることによって慎重にこたえました。彼は初め有名なフルダ修道院の修道院長に選ばれ、後に生地マインツの大司教に選ばれましたが、そのために勉学を中断することはありませんでした。彼は生活の模範をもって、他の人に奉仕しながらでも、同時にそのために考察と勉学と黙想に十分な時間をとることを疎かにしないことが可能であることを示しました。このようにしてラバヌス・マウルスは釈義学者、哲学者、詩人、司牧者、そして神の人となりました。フルダ、マインツ、リンブルク、ヴロツワフ(ブレスラウ)教区は彼を聖人あるいは福者として崇敬しています。ラバヌスの著作はミーニュ(Jacques-Paul Migne 1800-1875年)の『ラテン教父全集』(Patrologia Latina)の6巻を占めます。彼はおそらくラテン教会でもっとも美しく有名な賛歌の一つであり、キリスト教の聖霊論の優れた要約である、『ヴェニ・クレアトール・スピリトゥス』(Veni Creator Spiritus)を作曲したといわれます。実際、ラバヌスの最初の神学的考察は詩の形で表現されました。すなわち、聖なる十字架の神秘をテーマとした『聖なる十字架の称賛について』(De laudibus Sanctae Crucis)という標題の著作です。この著作は、同じ写本の中で詩の形式と絵の形式を用いながら、概念的内容だけでなく、美しく芸術的な促しも表現します。著作の行間に十字架につけられたキリストの姿を図像的にも示しながら、たとえば彼はこう述べます。「これこそが救い主の姿です。救い主は、手足を伸ばすことによって、もっとも健やかで甘美で愛すべき十字架の形を聖なるものとしました。それは、救い主の名を信じ、その掟に従うわたしたちが、救い主の受難によって永遠のいのちを得ることができるようになるためです。それゆえわたしたちは、十字架に目を向けるたびに、わたしたちを闇の力から引き離すためにわたしたちのために苦しみを受け、わたしたちが永遠のいのちを受け継ぐために死を受け入れたかたを思い起こします」(『聖なる十字架の称賛について』:De laudibus Sanctae Crucis Lib. 1, Fig. 1, PL 107, 151C)。
  東方教会に由来する、このような芸術と知性と心と感情を結び合わせる方法は、西方教会でも大いに発達し、聖書や他の信仰・芸術書の彩色写本によって比類のない高みに達しました。こうした彩色写本は、ヨーロッパで印刷技術の発明まで、またそれ以降も盛んに作られました。いずれにせよここから、ラバヌス・マウルスが、信仰体験において、精神や心だけでなく、美的感覚を始めとした人間の感覚による他の要素によって、感覚をも用いなければならないことを特別に自覚していたことがわかります。感覚は、人間が全存在をもって、すなわち「精神と心とからだ」をもって真理を味わうことを可能にするからです。このことは重要です。信仰は単なる思想ではありません。信仰はわたしたちの存在全体に触れるものです。神は肉と血をもった人間となり、感覚的な世界の中に入りました。だからわたしたちは、自分の存在のすべての側面において神を求め、神と出会わなければなりません。このようにして神の存在は、信仰を通してわたしたちの存在を貫き、造り変えます。そのためラバヌス・マウルスは何よりも典礼に注意を向けました。典礼はわたしたちが現実を捉える感覚のあらゆる側面の総合だからです。この洞察によって、ラバヌス・マウルスはきわめて現代的な意味をもちます。彼は何よりも典礼で用いるために、有名な『詩集』(Carmina)も残しました。実際、ラバヌスの典礼に対する関心は、何よりも彼が修道士であったことに基づきます。しかし、彼は詩的作品をそれ自体を目的として作ったのではありません。むしろ彼は、神のことばを深めるために、芸術や他の種類の学問を用いたのです。それゆえ彼は、この上ない努力と厳密さをもって、同時代の人々、特に奉仕者(司教、司祭、助祭)を典礼の全要素の深い神学的・霊的意味の理解へと導こうと努めました。
  このようにして彼は、聖書と教父の伝統に基づきながら、典礼の中に隠された神学的意味を理解し、他の人々に示そうとしました。彼は誠実さのゆえに、また、自分の説明に重みを与えるために、自分の知識の典拠となった教父の源泉資料を示すことをためらいませんでした。彼は教父思想の発展を引き継ぎながら、これらの資料を自由に、また注意深い識別をもって用いました。たとえば、マインツ教区の補佐司教に宛てた『第一書簡』(Epistola prima)の終わりに、司牧的責務を果たす際の態度について説明してほしいという求めにこたえた後、ラバヌスは続けていいます。「わたしはこれらのことを皆、聖書と教父の法規から導き出されたままにあなたに書きました。けれども聖なる人であるあなたは、場合に応じて、あなたにとって最善と思われる形で決定を行い、あなたの判断を和らげるように努めてください。それは、すべてにおいて識別が保障されるためです。識別はすべての美徳の母だからです」(『書簡集』:Episutulae I, PL 112, 1510C)。ここに、神のことばから始まるキリスト教信仰の連続性を見いだすことができます。しかし、キリスト教信仰は常に生きています。そして、常にその構造の全体、すなわち信仰の建物全体と一致しながら、発展し、新たな形で表されるのです。
  神のことばは典礼の不可欠の部分です。そこから、ラバヌス・マウルスは全生涯を通じて神のことばに最大の努力をもって取り組みました。彼は旧約と新約のほとんどすべての書に関して釈義的解説を書きました。それは、はっきりとした司牧的意図をもってのことです。この意図を彼は次のように弁明しています。「わたしはこれを書いて・・・・他の多くの人の説明と提案を総合しました。それは、多くの書物を手元に置くことができない貧しい読者に役立つためですが、また、多くの場合、教父が見いだした意味の理解に深く達していない人の助けとなるためでもあります」(『マタイ福音書注解序文』:Commentariorum in Matthaeum praefatio, PL 107, 727D)。実際、聖書のテキストを注解する際、彼はしばしば古代教父を参照しました。ラバヌスが特に好んで用いたのは、ヒエロニュムス(Eusebius Hieronymus 347-419/420年)、アンブロシウス(Ambrosius Mediolanensis 339頃-397年)、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)、そして大グレゴリウスです。
  鋭い司牧的感覚に導かれて、後に彼は何よりも、当時の信者と聖なる奉仕者にもっとも深くかかわる問題の一つである、償いの問題に取り組みました。実際、彼は『償罪の書』(Paenitentialia)――これは彼が命名した書名です――を書きました。この書物の中で、ラバヌスは、当時の感覚に従って、罪とそれに対応する償いを列挙しました。その際彼は、できるかぎり聖書や、公会議の決議、教皇の教令から得られた理由を用いました。教会と社会の変革を目指した「カロリング期の人々」もこうした文書を用いました。『教会の規律について』(De disciplina ecclesiastica)や『聖職者の教育について』(De institutione clericorum)といった著作も同様の司牧的な目的にこたえたものです。これらの書物の中で、ラバヌスは何よりもアウグスティヌスを参照しながら、自分の教区の無学な人々や聖職者に、キリスト教信仰の根本的な要素について説明しました。これらの書物は一種の小カテキズムといえます。
  この偉大な「教会人」の紹介を終わるにあたり、彼の深い確信をよく映し出したことばを引用したいと思います。「観想をないがしろにする人は(qui vacare Deo negligit)、神の光を見ることができません。さらに、慎みのないしかたでさまざまな心配事に心を奪われ、騒がしいこの世のことがらに思い煩う人は、目に見えない神の秘密をけっして究められないように定められます」(PL 112, 1263A)。ラバヌス・マウルスはこのことばを現代のわたしたちにも語りかけていると、わたしは思います。激しい速さで仕事をしているときも、休暇のときも、わたしたちは神のために時間をとらなければなりません。神のために生活を開き、神に思いと考察と短い祈りをささげなければなりません。何よりも日曜日が主の日であり、典礼をささげる日であることを忘れてはなりません。それは、美しい教会と、教会音楽と、神のことばのうちに、神ご自身の美しさを見いだすためです。神にわたしたちの存在の中に入ってきていただくためです。このようにして初めてわたしたちの生活は偉大なものとなり、まことのいのちとなるのです。

略号
PL Patrologia Latina

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