教皇ベネディクト十六世の181回目の一般謁見演説 ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ

6月10日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の181回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第9回として、「ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日は、ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ(Johannes Scottus Eriugena 801/825-877年以降)という、西方キリスト教の注目すべき思想家についてお話ししたいと思います。もっとも、エリウゲナの出自については不詳です。エリウゲナがアイルランドの出身であることは確実です。彼は800年代の初めにこのアイルランドで生まれました。しかし、彼がいつ故郷の島を後にして、イギリス海峡を渡ったかは不明です。こうして彼は9世紀のフランスで、カロリング朝の人々、特にカール二世禿頭王(Kar II, der Kahle 西フランク王在位843-877年)の周りで復活した文化世界の完全な一員となりました。エリウゲナは、生年が不明なのと同様、没年も不詳です。研究者によれば、エリウゲナの没年は870年前後と思われます。
  ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナは、ギリシア教父もラテン教父も含めた教父文化を熟知していました。実際、彼はラテン教父とギリシア教父の著作を直接知っていました。何よりも彼がよく知っていたのは、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)、アンブロシウス(Ambrosius Mediolanensis 339頃-397年)、大グレゴリウス(Gregorius Magnus 540頃-604年)などの偉大な西方キリスト教教父たちです。しかし彼はオリゲネス(Origenes 185頃-253/254年)、ニュッサのグレゴリオス(Gregorios Nyssenos 335頃-394年)、ヨアンネス・クリュソストモス(Ioannes Chrysostomos 340/350-407年)を初めとした、偉大な東方キリスト教教父の思想もよく知っていました。エリウゲナは、当時、ギリシア語も自由に用いることのできた例外的な人物です。彼は証聖者聖マクシモス(Maximos Homologetes; Maximus Confessor 580-662年)と、何よりもディオニュシオス・アレオパギテス(Dionysios Areopagites 500年頃)に特に関心を示しました。ディオニュシオス・アレオパギテスの偽名のもとに身を隠していたのは5世紀のシリアの教会著作家ですが、ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナも含めて、すべての中世の人々は、この著者が使徒言行録(使徒言行録17・34)で語られる聖パウロの直接の弟子と同一人物だと確信していました。スコトゥス・エリウゲナは、ディオニュシオスの著作が使徒によるものであることを確信して、ディオニュシオスを優れた意味での「神的著者」と呼びました。それゆえディオニュシオスの著作はエリウゲナの思想の最高の源泉となりました。ヨハネス・スコトゥスはディオニュシオスの著作をラテン語訳しました。聖ボナヴェントゥラ(Bonaventura 1217/1221-1274年)のような中世の偉大な神学者はこの翻訳を通じてディオニュシオスの著作を知りました。エリウゲナは全生涯を通じて、ディオニュシオスの著作を参照しながら自らの思想を深め、発展させることに努めました。そのため、現代でも、どれがスコトゥス・エリウゲナの思想で、どれが偽ディオニュシオスの思想をあらためて示そうとしたものかを区別するのが難しいことがあります。
  実際のところ、ヨハネス・スコトゥスの神学的労苦はあまり報われませんでした。カロリング時代が終わると彼の著作は忘れられます。そればかりか、教会権威者の検閲も彼の姿に影を落としました。たしかにヨハネス・スコトゥスは徹底的なプラトン主義の代表者でした。エリウゲナが常に個人としてめざしたのは正統信仰でしたが、プラトン主義は場合によって汎神論的な思想だと考えられました。ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナのいくつかの著作は現在でも現存しています。中でも特に注目に値するのは、『自然区分論(ペリフュセオン)』(De divisione naturae; Periphyseon)と『聖ディオニュシウス天上位階論注解』(Expositiones super ierarchiam caelestem)です。これらの著作でエリウゲナは刺激的な神学的・霊的考察を展開しました。この考察は現代の神学者にも深い関心を引き起こしうるものです。たとえば、エリウゲナが、適切な識別を果たすべき務めについて――この務めは「真の権威(auctoritas vera)」として示されます――、また、神を沈黙のうちにあがめることができるようになるまで真理を求め続けなければならないことについて述べていることを挙げたいと思います。
  エリウゲナはいいます。「わたしたちの救いは信仰から始まります(Salus nostra ex fide inchoat)」。すなわち、わたしたちは自分の発明に基づいて神について語れるのではありません。むしろ、聖書の中で神がご自身について語ることに基づいて、神について語ることが可能になります。神のみが真理を語ります。だからスコトゥス・エリウゲナは、権威と理性が対立し合うことはありえないと確信しました。そして、真の宗教と真の哲学は一致すると確信しました。このような観点からエリウゲナは述べます。「真の理性によって確認されていない権威は薄弱なものだと考えなければなりません。・・・・実際、理性の力によって見いだされた真理と一致しなければ、真の権威とはいえません。たとえ、この権威が聖なる教父たちによって後の世代にとって有益なものとして勧められ、伝えられていたとしてもです」(『ペリフュセオン』:Periphyseon I, PL 122, 513BC)。そこからエリウゲナは警告します。「いかなる権威も、あなたを脅して、あなたが正しい理性的観想によって得られた確信からあなたを引き離すようなことがありませんように。実際、真正な意味での権威が正しい理性と対立するようなことは決してありませんし、正しい理性が真の権威と対立するようなこともありません。二つがともに神の知恵という同じ源泉から出ることは間違いないからです」(同:ibid. I, PL 122, 511B)。ここに理性の価値に関する勇気ある主張を見いだすことができます。この主張は、真の権威は理性的だという確信に基づきます。神は理性をもった造り主だからです。
  エリウゲナによれば、聖書自身にも、同じ識別の基準を適用しなければなりません。このアイルランドの神学者は、すでにヨアンネス・クリュソストモスに見られる考察をあらためて取り上げていいます。実際、聖書も、たとえそれが神に由来するものだとしても、人間が罪を犯さなければ必要なかったでしょう。それゆえ、こう考えなければなりません。聖書は教育的な目的によって、人間のことを配慮して神から与えられたのです。それは、人間が、「神の像と似姿に従って」(創世記1・26参照)創造されたときから心に刻まれ、原罪によって忘れた、すべてのことを思い起こせるようになるためです。エリウゲナは『聖ディオニュシウス天上位階論注解』で述べます。「人間は聖書のために創造されたのではありません。罪を犯さなければ、人間は聖書を必要としなかったからです。むしろ、聖書は、教えと象徴を組み合わせて、人間のために与えられたのです。実際、聖書のおかげで、わたしたちの理性的本性は、真の意味での純粋な神の観想の秘密へと導き入れられることができるのです」(『聖ディオニュシウス天上位階論注解』:Expositiones super ierarchiam caelestem II, PL 122, 146C)。聖書のことばは、わたしたちの曇った理性を清めます。また、神の像であるわたしたちは、心のうちに何かをもちながら、残念なことにそれを罪によって傷つけられています。聖書はわたしたちがそれらすべてのものを再び思い起こせるように助けてくれるのです。
  ここから、聖書解釈の方法に関するいくつかの解釈学的な結論が導き出されます。この結論は、現代のわたしたちにも、正しく聖書を読むための正しい方法を示しうるものです。実際、そこでは、聖書の中に隠れた意味を見いだすことが問題とされます。そしてそのためには特別な内的修練が必要です。このような内的修練によって、理性は真理への確実な道へと開かれます。この修練とは、常に進んで回心を行うよう努めることです。聖書のテキストの深みを見いだせるようになるには、心の回心と聖書の意味の分析を同時に進めることが必要です。聖書の意味には、宇宙的意味、歴史的意味、教理的意味があります。心の目と精神の目を常に清めることによって、正しい理解に達することができるのです。
  この近づきがたい道は、困難ではありますが、魅力的なものです。そのためには、絶えず人間の知識と戦い、これを相対化しなければなりません。この道を通って、被造的知性は神の神秘の入口へと導かれます。こうして、あらゆる思考は自分には力も能力もないことを認め、そこから、真理の単純で自由で甘美な力によって、これまでに達成したことを皆、常に超えていきます。それゆえ、神秘を礼拝と沈黙をもって認めること――この認識は一致の交わりへと流れ入ります――、このことこそが、真理とかかわるための唯一の道であることが示されます。それは、きわめて内的なしかたで、同時に互いに深い慎しみと丁重さをもってかかわり合う態度です。その際、ヨハネス・スコトゥスは、ギリシア語圏のキリスト教の伝統でよく用いられたことばも用いて、この経験を説明します。わたしたちはそこから「神化(テオーシス)」へと向かうのです。これは異端的な汎神論の疑いをもたれかねない、大胆なことばでした。いずれにせよ、次のようなテキストは深い感動を呼び起こします。エリウゲナは古くからある、鉄の溶解という譬えを用いてこう述べます。「それゆえ・・・・溶解した鉄の全体が火のように、いやまったく火そのものに見える――その場合それらの実体は保持されているが――ように、この世の終わった後には、物体的であれ非物体的であれ、すべての本性はその本性全体を保持しながらも、ただ神としか見えず、その結果、それ自身としては捉えることができない神も、なんらかのしかたで被造物に捉えられ、その一方で、被造物自体は言い表しがたい不思議によって神に変わる」(『ペリフュセオン』:Periphyseon I, PL 122, 451B〔今義博訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成6 カロリング・ルネサンス』平凡社、1992年、496頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。
  実際、ヨハネス・スコトゥスの神学思想の全体は、明らかに、神が言表不能でありながら言表可能であることを表そうとする試みです。この試みはただ、ナザレのイエスのうちに肉となったみことばの神秘にのみ基づきます。エリウゲナはこの言表不能なことを示すために多くの比喩を用いました。これは、こうしたことがらをことばで語ることが絶対的な意味で不適切であることを彼がどれほど自覚していたかを示します。それでも、エリウゲナのテキストで述べられた真正な神秘的体験は魅力的なものであり続けます。わたしたちはこの体験にいわば手で触れることができます。このことを示すには、『自然区分論(ペリフュセオン)』のわずかな箇所を引用するだけで十分です。それは21世紀の信者であるわたしたちの心をも深く打ちます。エリウゲナはいいます。「望まなければならないのは、真理、すなわちキリストの喜びだけです。そして、避けなければならないのは、キリストがおられないことだけです。じつにキリストがおられないことは、あらゆる永遠の悲しみの唯一の理由だからです。わたしからキリストを取り去るなら、いかなるよいものもわたしには残りません。キリストがおられないことほどわたしを恐れさせることはありません。理性的被造物にとっての最大の苦しみは、キリストが取り去られること、キリストがおられないことです」(同:ibid. V, PL 122, 989A)。わたしたちはこのことばを自分のことばとすることができます。そしてそれをキリストへの祈りに変えることができます。キリストはわたしたちにとっても心の望みだからです。

略号
PL Patrologia Latina

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