教皇ベネディクト十六世の182回目の一般謁見演説 聖キュリロスと聖メトディオス

6月17日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の182回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第10回として、「聖キュリロスと聖メトディオス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日わたしは聖キュリロス(Kyrillos 826/827-869年)と聖メトディオス(Methodios 815頃-885年)についてお話ししたいと思います。血のつながった、信仰における兄弟である二人は、スラヴ人の使徒として知られています。キュリロスはテサロニケで826/827年、ビザンティン帝国の官吏レオンの子として生まれました。7人兄弟の末子でした。キュリロスは子どもの頃からスラヴ語を学びました。14歳のとき、コンスタンティノポリスに送られて教育を受け、若き皇帝ミカエル三世(Michael III 在位842-867年)の学友となりました。この期間にキュリロスは大学のさまざまな科目、とくに弁論術を、フォティオス(Photios 820-891年)を教師として学びました。キュリロスは華やかな結婚を拒んで司祭叙階を受けることに決め、総大司教の「司書」となりました。ほどなくして孤独のうちに隠棲することを望みましたが、すぐにあらためて見つけ出されて、聖なる学問ならびに世俗的学問の教育をゆだねられました。彼はこの職責をよく果たしたので、「哲学者」の称号を与えられました。一方、(815年頃の生まれの)兄のミカエルは、マケドニアで公職を務めた後、850年頃この世を捨て、ビテュニアのオリュンポス山で修道生活を送るために隠棲しました。彼はこの地でメトディオスという名を与えられました(修道名は洗礼名と同じ文字で始まらなければならなかったのです)。それから彼はポリュクロニオン修道院の修道院長になりました。
  キュリロスも兄の模範に引かれて教職をやめることに決め、オリュンポス山で黙想と祈りに励みました。しかし、数年後(861年頃)、ビザンティン政府はアゾフ海沿岸に住むハザール人ヘの宣教を彼に命じました。ハザール人が、ユダヤ人とサラセン人と議論できる学者を送ってくれるように願ったからです。キュリロスは兄メトディオスを伴って長期間クリミアに住み、同地でヘブライ語を学びました。彼はそこで現地に埋葬されていた教皇クレメンス一世(Clemens I 在位88-97年)の亡骸も探しました。キュリロスはクレメンス一世の墓を発見し、兄と帰国した際に貴重な聖遺物を持ち帰りました。コンスタンティノポリスに帰ると、二人の兄弟は皇帝ミカエル三世によってモラヴィア(現チェコ共和国)に派遣されました。モラヴィア王ラスティスラフ(Rastislav在位846-870年)がミカエル三世にはっきりとこう願ったからです。「わが国民は異教を退けて以来、キリスト教の法を守ってきました。しかし、わたしたちは、わたしたちの言語でまことの信仰を説明することのできる師をもっておりません」。この宣教はまれに見る成功を収めました。二人の兄弟は典礼をスラヴ語に翻訳することにより、スラヴ人から深く愛されました。
  しかし、このことがフランク人の聖職者たちの間に二人に対する敵意を引き起こしました。フランク人の聖職者たちは、二人よりも前にモラヴィアに来ており、この地域は自分たちの教会裁治権に属すると考えたからです。二人の兄弟は、自分たちの立場を擁護するために、867年にローマに赴きました。旅の途中、二人はヴェネツィアに立ち寄りました。ヴェネツィアでは、いわゆる「三か国語異端」を支持する人々との間で激しい論争が行われました。この人々は、神を正しくたたえることのできる言語は、ヘブライ語とギリシア語とラテン語の三つしかないと主張したのです。いうまでもなく、二人の兄弟はこれに対して強く反対しました。ローマでキュリロスとメトディオスを迎えたのは教皇ハドリアヌス二世(Hadrianus II 在位867-872年)でした。ハドリアヌス二世は聖クレメンスの聖遺物をふさわしいしかたで受け取るために、行列をもって二人を出迎えました。教皇は二人の特別な宣教活動の大きな重要性も理解していました。実際、第一千年期の半ばから、多くのスラヴ人が東西ローマ帝国の二つの部分の間の地域に居住していました。東西の二つの地域の間にはすでに緊張が存在しました。教皇は、スラヴ人が橋渡しの役割を果たして、帝国の二つの部分のキリスト者の一致を保たせることができると考えました。そのため教皇はためらうことなく偉大なモラヴィアにおける宣教を認めるとともに、典礼におけるスラヴ語の使用を受け入れ、認可しました。スラヴ語の典礼書はサンタ・マリア・ディ・ファトメ(サンタ・マリア・マッジョーレ)大聖堂祭壇に保管され、サン・ピエトロ、サン・タンドレア、サン・パオロ大聖堂でスラヴ語による典礼が祝われました。
  残念ながらキュリロスはローマで重い病にかかりました。死が近いと感じた彼は、自分をローマのギリシア修道院(おそらくサンタ・プラッセデ修道院)の修道士として完全に神にささげることを望んで、キュリロスという修道名を名乗りました(彼の洗礼名はコンスタンティノスでした)。それからキュリロスは、この間に司教に叙階されていた兄のメトディオスに何度も願いました。どうかモラヴィアへの宣教をやめず、モラヴィア人のもとに戻ってほしいと。キュリロスは神に願いました。「主よ、わたしの神よ。・・・・わたしの祈りを聞き、あなたがわたしのもとに置いた民があなたへの忠実を守れるようにしてください。・・・・彼らを三か国語の異端から解放し、すべての人々を一致させてください。あなたが選ばれたこの民が、まことの信仰と正しい信仰告白における一致を保てるようにしてください」。キュリロスは869年2月14日に亡くなりました。
  メトディオスは弟への約束を忠実に守り、翌870年にモラヴィアとパンノニア(現ハンガリー)に戻りました。しかし、そこでメトディオスは再びフランク人宣教者の激しい反対に遭い、幽閉されます。彼は落胆することなく、873年に解放されると、教会をまとめるために活発に働きました。その際彼は、弟子のグループの教育を心がけました。そのおかげで、この弟子たちは、メトディオスが885年4月6日に死んだ後に起こった危機を乗り越えることができました。弟子たちは迫害され、投獄されたほか、一部の人は奴隷として売られ、ヴェネツィアに連れて来られました。弟子たちはヴェネツィアでコンスタンティノポリスの官吏によって救出され、バルカン半島のスラヴ人の国々に帰ることができました。ブルガリアで歓迎された弟子たちは、メトディオスが始めた宣教を続けることができ、「ルーシの地」に福音を広めました。神はその不思議な摂理によって、迫害を用いて聖なる兄弟のわざを助けたのです。二人の兄弟は文学的著作も残しました。兄弟が協働して作成した、『福音書』(Evangelium 典礼のための新約聖書の抜粋集)と『詩編集』(Psalterium)、さまざまなスラヴ語の典礼書のような著作を考えるだけで十分です。キュリロスの死後、とりわけ聖書全巻の翻訳と、『ノモカノン』(Nomocanon 法令集)、『教父の書』はメトディオスとその弟子によるものです。
  さて、二人の兄弟の霊的特徴を簡単にまとめるなら、何よりも、キュリロスが熱心にナジアンゾスの聖グレゴリオス(Gregorios Nazianzenos 325/330-390年頃)の著作に親しんだことに注目しなければなりません。キュリロスは啓示を伝える上での言語の重要さをグレゴリオスから学びました。聖グレゴリオスはキリストが自分を通じて語ってほしいという望みを表しました。「わたしはみことばのしもべです。だからわたしはみことばへの奉仕に身をささげます」。このようなグレゴリオスの奉仕のわざに倣うことを望んだキュリロスは、自分を通じてスラヴ語で語ってくださいとキリストに願います。キュリロスは自分の翻訳した書物の初めに荘厳な祈願を行います。「聞け、スラヴのすべての民よ。聞け、神から来たみことばを。魂に糧を与え、神の知へと導くみことばを」。実際、モラヴィア王が皇帝ミカエル三世に、モラヴィアの地に宣教者を送ってくれるように願う数年前に、すでにキュリロスと兄のメトディオスは、弟子のグループとともに、キリスト教教義をスラヴ語で書かれた書物にまとめる作業を行っていたように思われます。このとき、話し言葉を表すのに適した新しい文字が必要であることが分かりました。そこでグラゴール文字が生み出されました。後に修正されたこのグラゴール文字は、発明者をたたえるために、「キリル文字」の名で呼ばれました。これはスラヴ文化全体の発展のために決定的な出来事でした。各民族は、自分の言語で聞き、自分のアルファベット文字で読まないかぎり、完全に啓示を受け入れたと考えることができない。キュリロスとメトディオスはこう考えたのです。
  メトディオスの功績は、弟が始めた仕事が突然中断しないようにしたことです。「哲学者」のキュリロスが観想を好んだのに対して、メトディオスはむしろ活動生活に向いていました。こうしてメトディオスは、「キュリロスとメトディオスの理念」と呼びうるものが後代に確立する基礎を据えることができました。この理念は歴史のさまざまな時期にスラヴ人とともに歩み、その文化・国家・宗教の発展を促したのです。教皇ピオ十一世(在位1922-1939年)もすでにこのことを使徒的書簡『クオド・サンクトゥム・キュリルム』(Quod Sanctum Cyrillum) で認めました。この書簡の中で教皇は、二人の兄弟を「東方の子、ビザンティン帝国を祖国とし、ギリシアに生まれ、宣教においてはローマ人、使徒職の実りにおいてはスラヴ人」(AAS 19 [1927], 93-96)と呼びました。二人が果たした歴史的な役割は後に教皇ヨハネ・パウロ二世によって正式に宣言されました。教皇は使徒的書簡『エグレジエ・ヴィルトゥーティス・ヴィリ』(Egregiae virtutis viri)で、彼らを聖ベネディクトゥス(Benedictus de Nursia 480頃-547/560年頃)とともにヨーロッパの守護聖人と宣言したのです(AAS 73 [1981], 258-262)。実際、キュリロスとメトディオスは、今日「インカルチュレーション」ということばで呼ばれるわざの古典的な模範です。すべての民は啓示のメッセージを自分の文化に浸し、救いの真理を自分の言語で表現しなければなりません。そのためには「翻訳」という作業が必要とされます。「翻訳」は、啓示されたみことばの富を、そのままの形であらためて表現するために、適切な用語を見いだすことを求めます。この点で、二人の聖なる兄弟はきわめて重要なあかしを残してくれました。教会は現代においても、このあかしを仰ぎ見て、霊感と導きを与えられ続けているのです。

略号
AAS Acta Apostolicae Sedis 

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