教皇ベネディクト十六世の183回目の一般謁見演説 司祭年について

6月24日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の183回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、6月19日からアルスの主任司祭聖ヨハネ・マリア・ビアンネの没後150周年を記念して開幕した「司祭年」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


謁見の終わりに、教皇は、国連事務次長で子どもと武力紛争に関する国連事務総長特別代表のラディカ・クマラスワミ氏を迎えて、イタリア語で次のように述べました。
「(ラディカ・クマラスワミ)子どもと武力紛争に関する国連事務総長特別代表に率いられた代表団の皆様に心からごあいさつ申し上げます。特別代表と同行者の皆様に、暴力と紛争の犠牲者となる子どもを保護するための皆様の取り組みに深く感謝申し上げます。わたしは世界のすべての子ども、とくに恐怖、遺棄、飢餓、虐待、病気、そして死にさらされた子どもに思いを致します。教皇はこれらの幼い犠牲者に寄り添い、いつも祈りの中で彼らを思い起こします」。
また教皇は、赤十字社創立150周年にあたって次のようにイタリア語で述べました。
「150年前の6月24日、戦争の犠牲者を助けるための大きな運動という着想が生まれました。この運動は後に『赤十字社』と名づけられました。歳月を経て、奉仕の普遍、中立、独立性という価値観は世界中の何百万人のボランティアの参加を生み、多くの戦争や紛争や緊急的な状況における人間性と連帯の重要なとりでを築きました。わたしは人間の尊厳と全体性が常に赤十字社の人道支援の中心にあることを願いながら、若者がこの価値ある機関に具体的なしかたで参加することを奨励します。この機会を利用して、わたしは、紛争地域で誘拐されたすべての人、とくにフィリピンで活動していたエウジェニオ・ヴァーニの解放を求めます」。
イタリア赤十字社のエウジェニオ・ヴァーニ氏は、今年1月15日にフィリピンのスル諸島で過激派組織アブ・サヤフによって誘拐されました。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 先週の金曜日の6月19日のイエスのみ心の祭日、また恒例の「世界司祭の聖化のための祈願日」に、「司祭年」を開始することができてうれしく思います。「司祭年」の開催は、アルスの主任司祭、聖ヨハネ・マリア・ビアンネの「天上における誕生日」の150周年を記念して宣言されました。夕の祈りのためにサンピエトロ大聖堂に入堂するとき、いわば最初の象徴的なわざとして、わたしは聖歌隊の礼拝堂でしばらく聖なる司牧者の聖遺物を崇敬しました。なぜ「司祭年」を行うのでしょうか。なぜ、この特別なことは何もしなかったように思われるアルスの聖なる主任司祭をとくに記念するのでしょうか。
  神の摂理によって、この聖人は聖パウロの隣に置かれることになりました。実際、異邦人の使徒にささげられた「パウロ年」が終わろうとしています。聖パウロは福音を広めるために何度も宣教旅行を行った、福音宣教者の特別な模範です。この新しい聖年は、つつましい主任司祭となり、小さな村で司牧を行った貧しい農夫にわたしたちの目を向けさせます。生涯の特徴に関するかぎり、二人の聖人はたいへん異なります。一人は福音を告げるために方々を旅し、もう一人はいつも狭い告白場にとどまりながら何百万人もの信者を迎え入れました。しかし、そうだとしても、二人に共通する根本的なことがあります。それは、自分の奉仕職との完全な一体化であり、キリストとの一致です。だから聖パウロはこう述べたのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)。聖ヨハネ・マリア・ビアンネも繰り返していいました。「もしわたしたちに信仰があれば、ガラスの後ろの光や、水に混ざったぶどう酒のように、司祭のうちに神が隠れているのを見いだすことでしょう」。ですから、この機会に司祭に宛てて書いた手紙の中で述べたように、「司祭年」の目的は「奉仕職の効果が何よりもその上にかかっている、霊的な完徳を目指す」すべての司祭の努力を支えることです。そして、何よりも、司祭と、そして司祭とともにすべての神の民とが、叙階された奉仕職が、叙階を受けた人と、全教会と、世界に対して示す特別で欠くことのできない恵みのたまものに関する自覚を再発見し、強められるようにすることです。世界はキリストの現実の現存がなければ滅びるからです。
  もちろん、アルスの主任司祭が生きた歴史的・社会的状況は今とは違います。また、グローバル化した現代社会の中で司祭が自分の奉仕職と一体化する上で、どうすればビアンネから学べるかというのは、正当な問いかけです。人々の人生観がますます世俗化し、聖なるものの代わりに「機能性」が唯一の決定的な概念となった世界の中で、教会の人々の意識の中でさえ、カトリックの司祭概念はそれが本来もっていた重要性を失うおそれがあります。神学の世界でも、具体的な司牧の実践や司祭養成の場においても、司祭職に関する二つの異なる対照的な――場合によって対立的な――考え方がしばしば見いだされます。このことに関して、数年前にわたしはこう述べました。「一方では社会的・機能的な司祭理解があります。これは司祭の本質を『奉仕』の概念によって定義づけます。すなわち、機能の遂行としての共同体への奉仕ということです。・・・・他方では秘跡的・存在論的な司祭理解があります。これはもちろん司祭職がもつ奉仕としての性格を否定はしませんが、司祭職が奉仕職の本質に根ざすと考えます。そして、この本質はたまものによって規定されると考えます。このたまものは教会という媒介を通じて主から与えられるものです。これが秘跡と呼ばれます」(J. Ratzinger, Ministero e vita del Sacerdote, in Elementi di Teologia fondamentale. Saggio su fede e ministero, Brescia 2005, p. 165)。「司祭職」ということばを「奉仕、奉仕職、任務」ということばにおとしめる用語法の変化も、こうした理解の違いを表す徴候です。そして、第一の存在論的・秘跡的理解は、「祭司職=いけにえ」という概念に従い、聖体の優先と結びついているのに対して、もう一つの理解はことばと告知の奉仕職の優先に対応します。
  よく考えてみると、二つの理解は対立するものではありませんし、二つの理解の間にある緊張関係は内側から解消すべきものです。そのため第二バチカン公会議の『司祭の役務と生活に関する教令』はいいます。「事実、福音の使徒的告知によって神の民が招かれ集められるのであって、それはこの民に属するすべての人が・・・・自らを『神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ』(ローマ12・1)としてささげるものとなるためである。ところで司祭の役務を通して、信者の霊的いけにえは、唯一の仲介者であるキリストのいけにえとの一致のうちに完成するものであり、このキリストのいけにえは、主自らが来たりたもうときまで、司祭たちの手によって、全教会の名において、感謝の祭儀において血を流すことなく秘跡的にささげられる」(同2)。
  そこでわたしたちは問いかけます。「司祭にとって、福音宣教を行うとはいったい何を意味するのか。いわゆる告知の優先とはどういうことか」。イエスは、ご自分が世に来られたことのまことの目的は神の国を告げ知らせることだといいます。しかし、イエスの宣教は単なる「説教」だけではありません。それは同時にイエスのわざも含みます。イエスが行ったしるしと奇跡は、神の国が今や現実に到来していることを示します。つきつめていえば、神の国はイエスというかたそのものと一致します。その意味で、次のことを銘記すべきです。すなわち、告知を優先する場合でも、ことばとしるしを切り離すことはできません。キリスト教の宣教は「ことば」ではなく「みことば」を告げ知らせることです。そして、宣教はキリストというかたそのものと一致します。キリストというかたは、その存在において父との関係に開かれ、父のみ旨に従順に従いました。それゆえ、真の意味でみことばに奉仕するために、司祭は深い克己に努めることを求められます。それは使徒パウロとともにこういえるようになるためです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」。司祭は自分をことばの「主人」ではなく、しもべだとみなさなければなりません。司祭はことばではなく、洗礼者ヨハネが宣言したとおり――わたしたちは今日、洗礼者ヨハネの誕生の祭日を祝っています――、みことばの「声」なのです。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」(マルコ1・3)。
  ところで、みことばの「声」であることは、司祭にとって単なる機能としての側面ではありません。反対に、それはキリストのうちに本質的な意味で「自分を失い」、全存在をもってキリストの死と復活の神秘にあずかることを前提とします。それは、知性も自由も意志も含めて、自分のからだを生けるいけにえとしてささげることです(ローマ12・1-2参照)。キリストのいけにえに、すなわちキリストの「無化(ケノーシス)」にあずかることによって初めて、真の意味での宣教となるのです。そして、キリストとともに父にこういうことができるに至るまで、キリストとともにこの道を歩まなければなりません。「わたしが願うことではなく、み心に適うことが行われますように」(マルコ14・36)。それゆえ、宣教は常に自己犠牲を伴います。自己犠牲は、宣教が真実で効果をもたらすための条件です。
  「もう一人のキリスト(alter Christus)」である司祭は、御父のみことばと深く結ばれています。みことばは受肉して、しもべの姿をとり、しもべとなりました(フィリピ2・5-11参照)。司祭はキリストのしもべです。すなわち、その存在においてキリストに倣うものに造り変えられた司祭の生活は、本質的に関係的な性格をとります。司祭は、キリスト「のうちに」、キリスト「によって」、キリスト「とともに」、人々に仕えます。司祭はキリストに属する者であるがゆえに、徹底的に人々に仕えるのです。司祭は人々の救いと幸福と真の自由のための奉仕者です。そのために司祭は、少しずつキリストのみ旨を自分のものとしながら、祈りのうちに、すなわち、キリストの「心に心からとどまる」ことによって成長します。それゆえ、今述べたこのことがあらゆる宣教の不可欠の条件です。宣教は、秘跡としての聖体の奉献にあずかり、教会に従順に聞き従うことを前提とするからです。
  アルスの聖なる主任司祭はしばしば目から涙を流しながら繰り返していいました。「司祭であるとは何と恐るべきことでしょう」。続けて彼はいいます。「司祭が習慣のようにミサをささげるとは、何と悲しむべきことでしょう。内的生活を欠いた司祭は何と不幸なことでしょう」。「司祭年」がすべての司祭を、十字架につけられて復活したイエスとの完全な一致へと導くことができますように。それは彼らが、洗礼者聖ヨハネに倣って、キリストが栄えるために進んで「衰える」ことができるようになるためです。どうかアルスの主任司祭の模範に従って、司祭が自分の使命の責任をたえず深く自覚することができますように。司祭の使命は、神の限りないあわれみのしるし、また現存となることだからです。始まったばかりの「司祭年」と世界のすべての司祭を、教会の母である聖母にゆだねたいと思います。

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