教皇ベネディクト十六世の184回目の一般謁見演説 司祭年について(二)

7月1日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の184回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、前週に続いて「司祭年」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 ご存じのとおり、6月28日にサン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂で行われた聖ペトロ・聖パウロ使徒の祭日の前晩の祈りをもって「パウロ年」が終わりました。「パウロ年」は異邦人の使徒の生誕二千年を記念して行われました。この重要な行事が多くのキリスト教共同体に霊的な実りをもたらしたことを、主に感謝したいと思います。「パウロ年」の貴重な遺産として、わたしたちは使徒の次の招きにこたえることができます。キリストの神秘の知識を深めなさい。それは、キリストがわたしたちの個人的・共同体的生活の心となり、中心となるためです。実際、キリストの神秘を知ることこそが、教会のまことの霊的刷新のために不可欠な条件です。使徒ペトロの後継者として選ばれた後、最初にシスティーナ礼拝堂でささげた感謝の祭儀の中で強調したとおり、まさにこの「キリストとの完全な交わりから、教会生活の他のさまざまな要素が生まれてきます。すなわち、まず、すべての信者の交わりです。福音の告知とあかしへの献身です。すべての人、とりわけ貧しい人や小さな者に対する燃えるような愛です」(「最初のメッセージ」:Insegnamenti, I, 2005, pp. 8-13〔『霊的講話集2005』カトリック中央協議会、2007年、12頁〕参照)。このことは第一に司祭にいえます。ですから、「司祭年」を開催することを可能にしてくださった神の摂理に感謝したいと思います。わたしは、「司祭年」が、すべての司祭を内的に刷新し、そこから、司祭の使命への献身をしっかりと強化するための機会となることを心から望みます。
  「パウロ年」の間、わたしたちは聖パウロにたえず目を注ぎました。それと同じように、これからの1年間、わたしたちはまずアルスの聖なる主任司祭、聖ヨハネ・マリア・ビアンネに目を向けます。わたしたちはビアンネの没後150周年を記念するからです。この機会に司祭に宛てて書いた手紙の中で、わたしは、このつつましい祭壇の奉仕者の生活の中でますます輝きを放つものを強調したいと望みました。それは、「自分の職務と完全に一致すること」です。ビアンネはよくこう述べました。「よい牧者、すなわち神のみ心に従う牧者は、いつくしみ深い主が小教区に与える最大の宝であり、神のいつくしみのもっとも貴いたまものの一つです」。そして、貧しい被造物である人間にゆだねられた「たまもの」と「任務」のはかりしれない偉大さについて、ビアンネは驚嘆していいます。「ああ司祭とはいかに偉大なものでしょう。司祭は自分がいかなる者であるかを知るなら、死んでしまいます。・・・・神は司祭に従います。司祭が二言唱えると、主はその声にこたえて天から下り、小さなホスチアの中に入るのです」。
  実際、すべての司祭は、自らの「あるべき姿=使命」を考えるとき、ますますキリストと一致しなければならないと感じるはずです。このキリストとの一致こそが、福音のあかしへの忠実とその実りを保証するからです。「司祭年」のテーマ――「キリストの忠実、司祭の忠実」――が示すとおり、神の恵みのたまものはあらゆる人間のこたえと司牧的実践に先立ちます。それゆえ、司祭生活の中で、宣教と礼拝を切り離すことはできません。それは、司祭の存在論的・秘跡的本質と福音宣教を切り離せないのと同じです。要するに、あらゆる司祭の宣教の目的は「礼拝」だということができます。それは、すべての人が自分を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして神にささげることができるようにするためです(ローマ12・1参照)。このいけにえは、被造物と人々の中で、造り主への礼拝と賛美となります。わたしたちは愛を与えられ、その愛を互いに豊かに分かち合うよう招かれているからです。わたしたちはこのことを初期キリスト教のうちにはっきりと見いだします。たとえば、聖ヨハネ・クリゾストモ(340/350-407年)はこう述べました。祭壇の秘跡と「兄弟の秘跡」、あるいは、人々がいうところの「貧しい人の秘跡」は、同じ神秘の二つの側面です。隣人愛や正義と貧しい人への関心は、単なる社会倫理のテーマではなく、キリスト教倫理の秘跡的な意味の表れです。なぜなら、司祭の役務を通して、唯一の仲介者であるキリストのいけにえとの一致のうちに、すべての信者の霊的奉献が行われるからです。司祭は主の再臨を待ち望みながら、このいけにえを血を流すことなく秘跡的にささげます。これが司祭の本性と役務の主要な側面です。この側面は本質的に宣教的かつ動的です。福音の告知によって、まだ信じていない人々のうちに信仰が生まれます。こうして人々は自らの奉献をキリストのいけにえと結びつけることができます。人々の奉献は神への愛と隣人への愛のうちに表されます。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。司祭の役務の執行においても多くのとまどいと悩みが見いだされます。ですから、神の恵みが絶対的な意味で優先することを、明確にすこしのあいまいさも残すことなく、再確認することが何よりも必要です。そのために聖トマス・アクィナス(1224/1225-1274年)のことばを思い起こさなければなりません。「一人の人間の恩寵の善は全世界の自然本性的善よりもより大いなるものである」(『神学大全』:Summa theologiae I-II, q. 113, a. 9, ad 2〔稲垣良典訳、『神学大全14』創文社、1989年、197頁〕)。それゆえ、すべての司祭の宣教は、何よりも、自らの「新しいあり方」の秘跡的性格をいかに自覚するかにかかっています。司祭の宣教に対する熱意のたえざる刷新は、自らのあるべき姿についての確信にかかっています。司祭のあるべき姿は、人工的に作り上げられるものではなく、神から自由に与えられ、受け入れられるものです。回勅『神は愛』で述べたことは司祭にも当てはまります。「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向づけを与えるからです」(同1)。
  「叙階」によって特別な恵みのたまものを与えられた司祭は、キリストとの出会いをたえずあかしする者となります。司祭は、まさにこの内的自覚から出発して、自分の「使命」を完全に果たすことができます。みことばの告知と、秘跡の執行を通じてです。第二バチカン公会議後、現代の司祭の使命には、何かもっと緊急に必要なことがあるのではないかという漠然とした考えが生じました。ある人は、司祭はまず今とは違う社会を築かなければならないと考えました。しかし、初めに朗読された福音の箇所は、司祭の役務のもつ二つの本質的な要素を思い起こさせてくれます。イエスは、当時においても現代においても、福音を告げ知らせるために使徒を派遣します。そして、彼らに悪霊を追い出す権能を与えます。それゆえ、「告知」と「権能」、すなわち「ことば」と「秘跡」は、司祭職の二つの根本的な柱です。それは、考えうるさまざまなものをはるかに超えています。
  聖別と宣教という「二枚の板」を考慮に入れないなら、司祭と、教会における司祭の役務のあるべき姿を理解することはまったく困難になります。実際、聖霊によって回心して新たにされ、福音を自らの基準としながら、キリストとの個人的な関係を生きるのでなければ、司祭とは何者でしょうか。一致と真理の人であり、自らの限界と同時に、与えられた召命の特別な偉大さを自覚するのでないなら、司祭とは何者でしょうか。この召命とは、地の果てに至るまで神の国を広めるための助けとなるということです。そうです。司祭とは完全に主に属する人です。なぜなら、神ご自身が司祭を召し出し、使徒的奉仕のために彼を立てたからです。そして、完全に主に属する者であるがゆえに、司祭は完全に人々のために、人々に属します。来年のイエスのみ心の祭日まで行われるこの「司祭年」の間、すべての司祭のために祈りたいと思います。どうか、教区、小教区、修道会、とくに隠世修道会、信者の会と運動団体、世界中のさまざまな司牧グループの中で、聖職者の聖化と司祭召命のために、多くの祈り、とくに聖体礼拝が行われますように。それは、次のように祈るようにというイエスの招きにこたえるためです。「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(マタイ9・38)。祈りは第一の務めであり、司祭の聖化のためのまことの道であり、真の意味での「召命司牧」の魂です。一部の国で司祭叙階の数が不足しているからといって、失望すべきではありません。むしろそれは、沈黙し、みことばに耳を傾ける機会を増やし、霊的指導とゆるしの秘跡にもっと目を向けるための促しとならなければなりません。それは、多くの若者が、いつも招き、力づけ続けてくださる神の声を聞き、進んでこれに従うようになるためです。祈る人は恐れることがありません。祈る人は独りきりではありません。祈る人は救われます。いうまでもなく、聖ヨハネ・マリア・ビアンネは、生活を祈りとすることの模範です。教会の母であるマリア。すべての司祭を助けてください。どうかすべての司祭がビアンネの模範に従い、ビアンネと同じように、キリストの証人、福音の使徒となることができますように。

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