教皇ベネディクト十六世の2009年7月5日の「お告げの祈り」のことば キリストの御血

教皇ベネディクト十六世は、年間第14主日の7月5日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第14主日の7月5日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「この数日間、わたしたちはヴィアレッジョの事故に心を痛めています。わたしは、家族を失って悲しむすべてのかたがた、怪我をされたかたがた、瞬時にして大きな物質的損害をこうむったかたがたに心を合わせます。わたしは、事故に巻きこまれたすべてのかたのために神に悲しみの祈りをささげます。そして、同じような事故が二度と起こらないこと、職場や日常生活の中ですべての人の安全が保障されることを願います。どうか神が、亡くなったかたの魂をご自身の平安のうちに受け入れ、怪我人をすみやかにいやし、家族が事故に遭って悲しみのうちにあるかたがたの心を慰めてくださいますように。
  さらにわたしは、フィリピンのコタバトで行われた襲撃事件に対する深い非難を表明します。日曜日のミサの間に司教座聖堂前で起こった爆発により、何人かが死亡し、多くの怪我人が出ました。その中には女性や子どもも含まれます。わたしは、下劣な行為の犠牲となった人のために神に祈るとともに、あらためて、暴力の使用を非難するために声をあげます。暴力は現在の問題を解決するためのふさわしい手段ではありません。
  ボルツァーノ=ブレッサノーネの司教が、7月8日から12日までブレッサノーネで、世界ユース陸上競技大会が開催されることを知らせてくれました。主催者とすべての若い陸上競技選手に喜びをもってごあいさつ申し上げるとともに、真のスポーツ精神にのっとり、清朗かつ健全な競技が行われることを願います」。
イタリア北部トスカーナ州ヴィアレッジョ駅で6月29日(月)深夜、液化石油ガスを積載した貨物列車が脱線し、2両が爆発しました。この事故による死者は7月3日までに22名に達しています。
7月5日朝、フィリピン南部ミンダナオ島のコタバト市の司教座聖堂近くで爆弾が爆発し、少なくとも5人が死亡、40人以上が負傷しました。
国際陸上競技連盟(IAAF)が主催する世界ユース陸上競技大会は、開催年の12月31日時点で18歳未満の選手が参加する、陸上競技の世界選手権です。1999年から開催され、今年は6回目の大会となります。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 かつて7月の第1日曜日は、キリストのいと尊い御血に対する信心によって特徴づけられました。前世紀に、何人かのわたしの敬愛すべき先任者がこの信心を認可しています。また、福者ヨハネ二十三世は使徒的書簡『インデ・ア・プリミス(1960年6月30日)』によってこの信心の意味を解説し、連禱を認可しました。過越の小羊というテーマと結ばれた御血というテーマは、聖書の中で第一に重要な意味をもちます。旧約において、いけにえの動物の血を振り注ぐことは神と民の契約を表し、またそれを定めました。出エジプト記に書かれているとおりです。「モーセは血を取り、民に振りかけていった。『見よ、これは主がこれらのことばに基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である』」(出エジプト記24・8)。
  イエスは最後の晩餐の中ではっきりとこの定式を繰り返しました。イエスは杯を弟子たちに渡していわれます。「これは、罪がゆるされるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26・28)。実際に、鞭打ちから、十字架上で死去した後、脇腹を刺し貫かれるまで、キリストはご自分の血を流し尽くしました。キリストはすべての人のあがないのために犠牲としてささげられた小羊だからです。キリストの血が救いをもたらす意味をもつことは、新約の多くの箇所ではっきりと述べられています。「司祭年」にあたって、ヘブライ人への手紙のすばらしいことばを引用するだけで十分です。「キリストは・・・・雄山羊と若い雄牛の血によらないで、ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠のあがないを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の〝霊〟によって、ご自身をきずのないものとして神にささげられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだわざから清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」(ヘブライ9・11-14)。
  親愛なる兄弟の皆様。創世記に書かれているように、兄のカインに殺されたアベルの血は、土の中から神に向かって叫びました(創世記4・10参照)。残念ながら、昨日も今日も、この叫び声はやむことがありません。暴力と不正と憎しみによって人間の血が流され続けているからです。人は、いのちが神聖であり、神のみに属することを、いつ学ぶのでしょうか。わたしたちは皆兄弟であることを、いつ悟るのでしょうか。流血のために、地上のあらゆるところから上がる叫び声に、神は御子の血をもってこたえます。御子はわたしたちのためにいのちをささげたからです。キリストは悪に悪を返さず、かえって善をもって、すなわちその限りない愛をもってこたえました。キリストの血は人類に対する神の忠実な愛の保証です。十字架につけられたかたの傷を仰ぎ見るとき、すべての人は、たとえどれほどみじめな道徳的状態にあっても、こういうことができます。神はわたしを見捨てられませんでした。神はわたしを愛し、わたしのためにいのちをささげてくださいました。こうしてすべての人は再び希望を見いだすことができます。おとめマリアは、十字架のもとで、使徒ヨハネとともにイエスの血の契約を与えられました。マリアの助けによって、わたしたちがこの恵みのはかりしれない富を再発見し、心で深く味わい、とこしえに感謝することができますように。

PAGE TOP