教皇ベネディクト十六世の185回目の一般謁見演説 回勅『真理に根ざした愛』について

7月8日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の185回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、前日の7月7日に発布した回勅『真理に根ざした愛』(Caritas in Veri […]


7月8日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の185回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、前日の7月7日に発布した回勅『真理に根ざした愛』(Caritas in Veritate)について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
講話の終わりに、教皇は、イタリア・ラクイラで7月8日から10日まで開催される主要国首脳会議(G8サミット)のための呼びかけを行いました。教皇は7日、首脳会議参加のためにイタリアを訪れた麻生太郎首相と会談しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 昨日正式に発布されたわたしの新しい回勅『真理に根ざした愛』は、その根本的な視点を聖パウロのエフェソの信徒への手紙の一節から得ています。この箇所で使徒は「愛に根ざした真理」に従って行動することについて語ります。先ほど朗読されたとおりです。「愛に根ざした真理に従って行動し、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長しなさい」(エフェソ4・15)。それゆえ、真理に根ざした愛は、すべての人また全人類の真の発展のための主要な推進力です。そのため、教会の社会教説の全体は、「真理に根ざした愛」という原理の周りを回ります。わたしたちは、理性と信仰に照らされた愛をもつとき、初めて、人間的価値、また人間を人間たらしめる価値を伴う発展という目的を達成することができます。真理に根ざした愛は「教会の社会教説がその周りを回る原理です。この原理は、人間を方向づける基準において実践的な形をとります」(『真理に根ざした愛』6)。回勅は序文の中でただちに、正義と共通善という、二つの根本的な基準を述べます。正義は「行いをもって誠実に」(一ヨハネ3・18)示される愛の不可欠の部分です。使徒ヨハネがわたしたちに勧告するとおりです(『真理に根ざした愛』6参照)。そして、「だれかを愛するとは、その人の善を望み、そのために実際に努力することです。個人の善のほかに、個人の社会生活と結びついた善があります。・・・・隣人を実際に愛するには、共通善のために努力しなければなりません」。それゆえ、行動基準には、正義と共通善の二つがあります。この共通善によって、愛は社会的な次元を獲得します。回勅は述べます。すべてのキリスト信者はこの愛へと招かれています。続けて回勅はいいます。「これが愛の歩む制度的な道です」(同7参照)。
  他の教導職文書と同じように、今回の回勅も、21世紀の人類にとって根本的に重要な社会問題に関する教会の分析と考察をあらためて取り上げ、継続し、深めます。とくに今回の回勅は、パウロ六世が40年以上前に『ポプロールム・プログレッシオ』の中で述べたことにあらためて結びつけられます。教会の社会教説の里程標となったこの文書の中で、偉大な教皇は、人間と現代世界が完全な発展を行うために、決定的に重要であり、永遠に現代的な意味をもついくつかの方針を示しました。最近の数か月間、詳しく報道されているとおり、世界情勢はさまざまな大問題と顕著な不平等という「つまずき」を示し続けています。この不平等は、過去の努力にもかかわらず、変わっていません。深刻な社会的・経済的不平等を示すしるしが存在します。そのため、諸国民の発展における格差を是正するために、もはや先送りの許されない改革が求められます。その意味で、グローバル化という現象を真の意味での好機とすることができます。しかし、そのために重要なのは、深い意味での道徳的・文化的な刷新と、共通善のために下すべき決定に関して責任のある識別を行うことです。すべての人にとってよりよい未来を可能にするには、この未来が、根本的な倫理的価値観の再発見の上に基礎づけられなければなりません。発展をグローバルなしかたで書き直す、新たな経済計画が必要とされています。そのために、神と、神の被造物としての人間に対する責任に基づく基本的な倫理を基盤としなければなりません。
  もちろん、回勅は、現代世界のさまざまな社会問題に対する技術的な解決策を示すことを目指すものではありません。それは教会の教導職の果たす役割ではないからです(『真理に根ざした愛』9参照)。しかし回勅は、これからの人類の発展を築くために不可欠な大原則を述べます。これらの原則の中の第一は、人間の生命に対する配慮です。人間の生命は、あらゆる真の発展の中心だからです。第二は、信教の自由の権利の尊重です。信教の自由は、人間の発展と密接に結びついているからです。第三は、人間に関するプロメテウス的な思想を拒絶することです。この思想は、自らを自分の運命の絶対的な創造者と考えるからです。科学技術の力への無制限の信頼は、最終的に幻想であることが明らかとなります。政治においても経済においても、真の意味で共通善に関心を向ける、公正な人間が必要とされます。とくに世界の危機にあたって、人類の多くの部分を苦しめている、悲惨な飢餓と食糧の保障に世論の目を向けさせることが緊急に必要です。この領域における悲惨な状況はわたしたちの良心に訴えかけます。断固としてこの状況に立ち向かうことが必要です。そのために、この状況を生み出した構造的な原因をなくし、最貧国の農業開発を推進しなければなりません。最貧国の発展を目指したこのような連帯の道は、現在のグローバルな危機的状況の解決策を作り出すためにかならず役立つと、わたしは確信しています。いうまでもなく、国家の役割と政治的力を注意深く見直すべきです。現代においては、新たな経済・貿易・金融状況のために、国家主権に対するさまざまな制限が存在するからです。他方で、国内・国際政治への責任を伴う市民参加も欠くことができません。それには労働組合の新たな取り組みも貢献します。労働組合は、国内また国際レベルで新たな協力態勢を構築することを求められています。この分野においては、マスメディアも主要な役割を果たします。マスメディアはさまざまな文化・伝統の間の対話を推進するからです。
  それゆえ、現代に広く見られる機能不全や歪曲によって台無しにされることのない発展計画を立てるために、すべての人は、経済の意味と目的に関して真剣に考察しなければなりません。このことは、地球環境の状況からも必要とされます。それは、世界中で生じていることが明らかな、人間の文化的・道徳的危機からも求められます。経済が正しく機能するためには、倫理が必要とされます。経済は、市場経済において恩恵と「贈与の論理」の原則が果たす重要な役割を再発見しなければなりません。市場における原理は利益だけであってはならないからです。しかし、以上のことは、経済学者、政治家、生産者、消費者を含めた、すべての人の取り組みがあって初めて可能です。また、良心の教育も必要です。良心は、政治的・経済的計画を立てる際の道徳基準に力を与えるからです。正当にも、多くの人が、権利はその権利に対応する義務を前提とすることを主張しています。義務を伴わなければ、権利は自由放任に変わるおそれがあるからです。ますますいわれるとおり、人類全体には、これまでと違う生活様式が必要とされています。この生活様式において、すべての人の環境に対する義務は、人格に対する義務と結びつけられます。人格は、個人であるとともに、他者とのかかわりのうちにあるものとして考えなければならないからです。人類は一つの家族であり、信仰と理性の間で対話を深めることが、この家族を豊かにしなければなりません。そのために、社会における愛のわざをいっそう促進し、信仰者と非信仰者の協力を促すための適切な枠組みを作り、世界の正義と平和のために働くことをともに目指さなければなりません。わたしは回勅の中で、こうした兄弟愛に基づく相互関係を導く基準として、補完性の原理と連帯の原理を示しました。この二つの原理は互いに密接に関連します。最後にわたしは、現代世界に広がる深刻な問題を前にして、法的に規制された国際的政治機構の必要性を示しました。この機構は、上述した補完性の原理と連帯の原理に従い、人類の偉大な道徳的・宗教的伝統を尊重しながら、しっかりと共通善の実現を目指します。
  福音がわたしたちに示すとおり、人はパンだけで生きるものではありません。人は物質的な財産だけでは、心の深い渇きをいやすことができません。人間がより高く、より広いところを目指していることは明らかです。だから、あらゆる開発計画は、物質的な成長だけでなく、人間の人格の霊的成長をも考慮しなければなりません。人間の人格は、霊魂と身体の両方を備えているからです。これこそが、教会の社会教説が常に述べてきた完全な発展です。この完全な発展を方向づける基準は、「真理に根ざした愛」の推進力のうちにあります。親愛なる兄弟姉妹の皆様。祈ろうではありませんか。どうかこの回勅が、人類が自らを一つの家族だと感じ、正義と平和に基づく世界を実現するために努めるための助けとなりますように。祈ろうではありませんか。経済と政治の分野で働く信者が、彼らが社会に対して行う奉仕において一貫したしかたで福音をあかしすることの大切さを悟ることができますように。とくに皆様にお願いします。この数日間、ラクイラで会議を行うG8の国家・政府首脳のために祈ってください。この重要な世界首脳会議が、すべての人、とくに最貧の状態にある人々の真の発展のために役立つ決定と方向づけを生み出すことができますように。この意向を、教会と人類の母であるマリアの母としての執り成しにゆだねます。

PAGE TOP