教皇ベネディクト十六世の2009年8月9日の「お告げの祈り」のことば 8月の殉教者

教皇ベネディクト十六世は、年間第19主日の8月9日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  先週の主日と同じように、今日も、今わたしたちが行っている「司祭年」との関係で、この数日間に典礼で記念する聖人について考察したいと思います。アッシジのおとめクララ(1193/1194-1253年)は祈りと共同生活における日々の奉献の中で熱心に神を愛しました。このクララを除いて、他の聖人たちは殉教者です。そのうちの二人はアウシュヴィッツ強制収容所で殺されました。一人は十字架の聖テレサ・ベネディクタ、すなわちエディット・シュタイン(1891-1942年)です(8月9日)。十字架の聖テレサ・ベネディクタはユダヤ教徒として生まれましたが、大人になってからキリストに心をとらえられ、カルメル会修道女となり、殉教によってその生涯を閉じました。もう一人は聖マキシミリアノ・マリア・コルベ(1894-1941年)です(8月14日)。聖マキシミリアノ・マリア・コルベはポーランドに生まれ、アッシジの聖フランシスコ(1181/1182-1226年)の子で、無原罪のマリアの偉大な使徒です。さらにわたしたちは他のローマ教会の輝かしい殉教者たちに出会います。たとえば、教皇聖ポンティアヌス(在位230-235年)と司祭聖ヒッポリュトス(170以前-235年)(8月13日)、そして助祭聖ラウレンティウス(258年没)です(8月10日)。教会はどれほど多くのすばらしい聖性の模範をわたしたちに示してくれることでしょうか。これらの聖人は、あの「この上なく」愛する愛の証人です。そして、彼らは自分に加えられた悪を気にとめることなく、善をもって悪と戦いました(一コリント13・4-8参照)。わたしたち、特に司祭は彼らから福音的な勇気を学びます。この勇気は、恐れることなく、人々の救いのためにいのちをささげるようにとわたしたちを駆り立てます。愛は死に打ち勝つからです。
  神は愛です(Deus caritas est)。聖人、特に殉教者は皆、この神の証人です。あらゆる大量殺戮の行われた強制収容所と同じように、ナチスの強制収容所は、悪の究極の象徴だと考えることができます。地獄が地上に口を開きました。それは、人が神を忘れ、自らが神に代わろうとしたからです。そして、何が善であり何が悪であるかを決め、いのちと死を与える権利を神から奪い取ったからです。しかし、残念ながら、この悲しむべき現象は強制収容所に限られません。むしろそれは、しばしば境界を変えながら広く拡散しつつある現実が頂点に達したものです。わたしたちが今簡単に思い起こした聖人たちは、無神論的人間主義(ヒューマニズム)とキリスト教的人間主義の間にある大きな違いを考察させてくれます。この対立は歴史全体を通じて見られます。しかしそれは二千年期の終わりに、現代のニヒリズムによって決定的なところにまで達しました。偉大な文学者や思想家が感じ取り、また、出来事そのものが詳しく示しているとおりです。まず、さまざまな哲学や思想があります。しかし、考え方と生き方が、これまでにまして、自由を、神に代わる、人間の唯一の原理にまで高めています。そして、人間を神にまで造り変えます。しかしこの神は、自由放任主義を自らの行動様式とするのです。これに対して、聖人は、愛の福音を実践することによって自らの希望を弁明します。彼らは神のまことのみ顔を示します。神は愛だからです。同時に彼らは人間の本来の顔をも示します。人間は神の像と似姿として造られたからです。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。おとめアリアに祈りたいと思います。どうかわたしたち皆を、とりわけ司祭を助けてください。わたしたちも、信じ、殉教に至るまで自己をささげたこれらの勇敢な証人と同じように、聖なる者となることができますように。真理に根ざした愛こそが、現代世界の深刻な危機から生じる人間的・霊的な問いかけに対して信頼の置ける完全なこたえを示すための唯一の道です。

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