教皇ベネディクト十六世の188回目の一般謁見演説 聖ジャン・ユードと司祭養成

8月19日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸中庭で、教皇ベネディクト十六世の188回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「聖ジャン・ユードと司祭養成」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日は聖ジャン・ユード(Jean Eudes 1601-1680年)の記念日です。ジャン・ユードはイエスとマリアのみ心の信心のうむことのない使徒です。ユードは17世紀フランスで生涯を過ごしました。17世紀は宗教対立の現象と、大きな政治問題によって特徴づけられる時代です。それは三十年戦争の時代でした。三十年戦争は中央ヨーロッパの大部分を荒廃させただけでなく、魂をも荒廃させました。当時支配的だったいくつかの流行思想によるキリスト教信仰の軽視が広まる中で、聖霊は熱意に満ちた霊的刷新を引き起こしました。そのもっとも代表的な人物が、ベリュル(Pierre de Bérulle 1575-1629年)、聖ヴァンサン・ド・ポール(Vincent de Paul 1581-1660年)、聖ルイ=マリー・グリニオン・ド・モンフォール(Louis-Marie Grignion de Montfort 1673-1716年)、そして聖ジャン・ユードです。これらの偉大な聖性の「フランス学派」は、聖ヨハネ・マリア・ビアンネをもその実りとして生み出しました。摂理の不思議な計画により、わたしの敬愛すべき先任者であるピオ十一世(在位1922-1939年)は1925年5月31日、ジャン・ユードとアルスの主任司祭を同時に列聖し、教会と全世界に司祭の聖性の特別な模範を示しました。
  「司祭年」との関連で、わたしは、聖ジャン・ユードが抱いていた、とくに教区司祭の養成に対する使徒的熱意を強調したいと思います。聖人は聖書のまことの解釈です。聖人は生活の経験の中で福音の真理を証明します。こうして聖人はわたしたちを福音の知識と認識へと導きます。トリエント公会議は1563年に教区神学校の設立と司祭養成のための規定を発布しました。公会議は、宗教改革の危機は皆、不十分な司祭養成がもたらしたものでもあることを自覚したからです。司祭は心と魂において司祭職のためのふさわしい知的・霊的準備を行っていませんでした。規定の発布が行われたのは1563年です。しかし、ドイツでもフランスでも、規定の適用と実施が遅れたため、聖ジャン・ユードはこうした不十分な養成がもたらした結果を目の当たりにしました。人々は、まさしく聖職者の大部分の養成の不足のためにも、大きな霊的助けを必要としていました。このことをはっきりと知った、主任司祭、聖ユードは、とくに司祭養成を行うための修道会を設立しました。ユードは大学都市カンに自分の最初の神学校を創立しました。この神学校は高い評価を受けて、間もなく他の教区にも広がりました。ユードが歩み、また弟子たちに教えた聖性の道の基盤は、神の愛への堅固な信頼でした。この愛を、神はキリストの祭司としてのみ心とマリアの母としてのみ心のうちに人類に示したからです。残虐で内面性の失われた時代の中で、ユードは心に向かいました。それは、聖アウグスチヌスが適切なしかたで解釈した詩編のことばを心に語りかけるためでした。ユードは人々、とくに男性と将来の司祭の心を呼び覚ましました。そのために彼はキリストの祭司としてのみ心とマリアの母としてのみ心を示しました。すべての司祭はこのキリストとマリアのみ心の愛の証人また使徒とならなければなりません。ここからわたしたちは現代に戻ります。
  現代においても、司祭はキリストに完全に「心をとらえられた」生活をもって神の限りないあわれみをあかししなければなりません。そして、司祭はそれを神学校での養成期間から学ばなければなりません。教皇ヨハネ・パウロ二世は1990年の世界代表司教会議(シノドス)の後、使徒的勧告『現代の司祭養成(Pastores dabo vobis)』を発布しました。この使徒的勧告の中で、教皇はトリエント公会議の規定をあらためて取り上げて現代化しました。そして何よりも、初期養成と生涯養成が連続することの必要性を強調しました。これこそが、教皇とわたしたちにとって、司祭の生活と使徒職の真の刷新のためのまことの出発点です。それはまた、「新しい福音宣教」が単なる魅力的なスローガンに終わらず、実際に実現されるための中心点でもあります。神学校における養成の基盤は、かけがえのない「霊的土壌(humus spirituale)」となります。司祭はこのような「霊的土壌」の中で「キリストを学び」、徐々に唯一の大祭司、またよい牧者であるキリストに似せて造り変えられます。それゆえ、神学校での期間とは、主イエスが使徒たちを招いた後、彼らを宣教に遣わす前に、自分のそばに置いた時を実現したものだと考えなければなりません(マルコ3・14参照)。聖マルコは十二使徒の召し出しについて語る際に、いいます。イエスは二つの目的をもっていました。一つは、彼らが自分とともにとどまること、もう一つは、宣教に遣わすことです。けれども使徒たちは、常にキリストとともに歩むことによって、本当にキリストを告げ知らせ、福音の現実を世にもたらしました。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。皆様にお願いします。この「司祭年」の間、司祭と、司祭職の特別なたまものを受ける準備をする人々のために祈ってください。終わりに、皆様に、聖ジャン・ユードの勧告を申し上げます。彼は司祭に向かっていいます。「自分をイエスにささげなさい。それは、イエスの限りなく偉大なみ心のうちに入るためです。イエスのみ心は、聖母のみ心と、すべての聖人のみ心を含みます。そして、愛と、愛のわざと、あわれみと、へりくだりと、清さと、忍耐と、従順と、聖性の深淵の中で自分を失いなさい」(『いとも聖なる神の母の讃嘆すべきみ心』:Le cœur admirable de la très sacrée Mère de Dieu III, 2)。
  このような思いをもって、今、ご一緒にラテン語で「主の祈り」を唱えたいと思います。

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