教皇ベネディクト十六世の2009年8月23日の「お告げの祈り」のことば 弟子たちのつまずき

教皇ベネディクト十六世は、年間第21主日の8月23日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻 […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第21主日の8月23日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。
教皇は初めに、ギプスのとれた右手首を示して、次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。ご覧のように、右手はギプスから解放されましたが、あいかわらず少し怠惰なままです。わたしはもう少し忍耐の学びやにとどまり続けなければなりません。しかし、先へ進みましょう」。
8月21日(金)、教皇庁広報部は、教皇ベネディクト十六世の骨折した右手首につけられたギプス包帯を除去したことに関して、教皇の主治医のパトリツィオ・ポリスカ医師の声明を発表しました。声明によると、教皇は21日朝、カステル・ガンドルフォ教皇公邸内に特別に設置された医務室で、右手首骨折のために7月17日にアオスタの病院でつけたギプス包帯と癒合器具を除去しました。X線検査を行った結果、骨折した骨が固定したことが証明されました。最終的な結果はすべてきわめて良好で、ただちに開始された機能の回復は、今後、適切なリハビリテーション計画によって達成される予定です。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  この数週間の主日の典礼は、ヨハネによる福音書の6章をわたしたちが考察するように示します。ヨハネによる福音書の6章の中で、イエスはご自分を「天から降って来たいのちのパン」として示された後、続いてこういわれます。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6・51)。ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉をわれわれに食べさせることができるのか」(ヨハネ6・52)といって、互いに激しく議論しました。イエスはこのユダヤ人たちに繰り返していわれます。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちにいのちはない」(ヨハネ6・53)。今日の年間第21主日に、わたしたちは6章の結びの部分を黙想します。この部分で、第四福音書の記者は、群衆と弟子たち自身の反応を語ります。彼らは主のことばにつまずきました。こうして、それまでイエスに従ってきた多くの者が叫んでいいました。「じつにひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6・60)。そして、そのときから「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスとともに歩まなくなった」(ヨハネ6・66)。しかし、イエスは自分の主張を和らげません。むしろ彼は十二人に直接向かっていいます。「あなたがたも離れて行きたいか」(ヨハネ6・67)。
  この挑戦的な問いかけは、当時の人々だけでなく、すべての時代の信者と人に向けられています。現代においても、少なからぬ人がキリスト教信仰の逆説に「つまずき」を覚え続けます。イエスの教えは「厳しく」、受け入れ、実行に移すにはむずかしすぎるように思われます。そこから、教えを拒み、キリストを見捨てる人がいます。イエスのことばを時代の流行に「合わせ」ようとして、その意味と価値をゆがめてしまう人もいます。「あなたがたも離れて行きたいか」。この怒りを帯びた挑発のことばは、わたしたちの心の中に響き渡り、すべての人が個人としてこたえることを求めます。実際、イエスは、人々がうわべや形の上だけで従うことに満足しません。イエスにとって、最初の熱狂的な参加だけでは十分ではありません。むしろわたしたちは、生涯全体で「イエスの思いと望み」にあずからなければなりません。イエスに従うことは、心を喜びで満たし、自分の人生に完全な意味を与えます。けれどもそれは、困難と自己放棄をも伴います。なぜなら、わたしたちはしばしば時流に逆らって進まなければならないからです。
  「あなたがたも離れて行きたいか」。イエスの問いかけに対して、ペトロは使徒たちを代表してこたえます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばをもっておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(ヨハネ6・68-69)。親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちもペトロのこたえを繰り返すことができます。わたしたちは、自分の人間としての弱さを自覚しながらも、聖霊の力に信頼するからです。聖霊はイエスとの一致のうちに、ご自分を表し、示してくださいます。信仰は神が人間に与えてくださるたまものです。同時に信仰は、人間が神に自由かつ完全に身をゆだねることでもあります。信仰は、主のことばに忠実に耳を傾けることです。主のことばはわたしたちの歩みを照らす「ともしび」、わたしたちの道の「光」だからです(詩編119・105参照)。「わたしたちの地上における唯一の幸福は、神を愛すること、神がわたしたちを愛してくださることを知ることです」。信頼をもってキリストに心を開き、キリストに心をとらえられるなら、わたしたちもアルスの聖なる主任司祭と同じようにこのことを体験できます。おとめマリアに祈り求めたいと思います。どうか愛に満ちた信仰をわたしたちのうちに生き生きと保たせてください。この愛に満ちた信仰こそが、ナザレのつつましい少女を神の母とし、すべての信者の模範としたからです。

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