「カトリック情報ハンドブック2008」巻頭特集

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「カトリック情報ハンドブック2008」
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特集1 キリスト教界のカルト問題対応  久志利津男

こんな経験ありませんか?

 街中を歩いていると、突然見知らぬ人から声をかけられます。「生活意識調査です。アンケートに答えてくれませんか?」、「手相の勉強をしているのですが、あなたは今、転換期に来ていますよ。今度、○○○の集まりに来ませんか?」。知らない人とのかかわりには十分に気をつけていても、巧みなことばに、ついだまされてしまうこともあります。都会に出て、慣れない職場や人間関係で心身ともに疲れている若い人にしてみると、このうまい話で水を得た魚のような心境になり、「この人なら、そんなに危ないこともなさそうだ」といつの間にか何かの書類にサインし、住所まで教えてしまうケースもあります。人のよさと弱みに付け込まれて、ビデオセンターや合宿に誘われ、気がついたときにはかつての自分を失い、家族や世間から隔離させられていた、それが破壊的なカルト被害にあった実情なのです。

カルトとは

 ところでカルトとは何なのでしょうか。北海道大学教授でカルトに詳しい櫻井義秀氏は、「カルトを社会問題として形容し、告発するアピール性の高い言葉」を「洗脳」「マインド・コントロール」「人格破壊」「性暴力」「信教の自由の侵害」「詐欺」「テロリズム」と「新聞の見出し風に」並べて挙げ、「一般市民に訴える言い方としては、このようにカルトの外形的問題性を列挙するしかない」(「カルトからの回復――境界(バウンダリー)の再構築」、「日本脱カルト協会会報」第10号所収、2006年)としています。
  もともとカルトとは、「礼拝・祭祀を意味する言葉」でしたが、30年ほど前からアメリカにおいて、「カリスマ的指導者による新しく創始された宗教集団」で、「奇妙に思われる」祭儀を行い、世間と一線を画しながら人間性まで奪ってしまうような非人道的な団体をカルトと呼ぶようになりました。このような団体は、社会通念から逸脱した教えや、信奉者の「精神状態が疑われる」ような活動によって、「既成教団には異端視」され、地域社会や家族との間に軋轢を生み、その結果、世俗社会からの「撤退」か「同化」かという選択を迫られ、最悪の場合には攻撃すら選び取ることにもなります。日本では、とくにオウム真理教事件をきっかけにカルトが公に知られ、社会問題として取り上げられるようになりました。また、現実的には社会への敵対を内包しているものの、「世俗社会への優越性や憎悪をむき出しにするほど愚かではない」、ある意味で狡猾なあり方を選択している団体もあります(櫻井義秀・前出参照)。

カルトの何が問題なのか

 なぜカルトが問題なのでしょうか。日本国憲法は「信教の自由」をうたっています。しかし、その信教の自由を盾にして、他の権利をないがしろにするのであれば、それは単なる暴力です。一宗教団体が、生存権、財産権、結婚の自由など個人の諸権利を奪う権利など、当然持ちえるはずがないのです。
  ところがカルトは、その団体の利益・運営のためにマインド・コントロール(強制によらず、さも自分の意思で選択したかのように、あらかじめ決められた結論へと誘導する技術、またその行為のこと)によって人の自由意志を奪ってしまいます。まさに、基本的人権に直接かかわることであるため、大きな問題になっているわけです。
  オウム真理教や世界基督教統一神霊協会などに代表されるような破壊的カルトによる被害は後を絶ちません。被害者の家族やこれに携わる宗教者・弁護士らは被害者の立ち戻りを切実に願い、裁判を起こすなど地道な活動を行っています。しかし、裁判には勝利したものの、それによって引き裂かれた家族のきずなをどう回復していけばいいのか、という新たな問題にも直面しています。また、脱会後のカウンセリングにもさまざまな困難があります。しかしこれらの問題は、人権という、人間の生の根幹に触れることですので、慎重かつ忍耐強く策を講じていかなければなりません。
  日本のキリスト教界またカトリック教会は、カルトに対してどのような考えをもっているのか、問題に対し何らかの行動を起こしているのか、そういったことを知りたいかたも多いかと思います。今回、カルトの一つでいまだに活発な動きがある世界基督教統一神霊協会(以下統一協会)に対する対応に絞り、大まかなことをまとめてみます。

統一協会の素顔

 江原道加平郡雪岳面松山里にある清平本殿聖地。文鮮明夫婦が死後留まるといわれている(2006年1月20日撮影)

江原道加平郡雪岳面松山里にある清平本殿聖地。文鮮明夫婦が死後留まるといわれている(2006年1月20日撮影)

 「イエス」「キリスト」の名をはじめ、キリスト教の用語をふんだんに用いた教えを説いている統一協会は、創立者である文鮮明が再臨のメシアであることを主張し、また自らが説く原理のもと、世界に一つの人間家族を作り上げることが目的であると標榜しています。その実現のために、統一協会はその名を伏せ、いくつもの名前や顔で近づき、いかにもまっとうに感じられる文化団体やボランティア団体を装い、耳触りのよい表現を用い、人集め・金集めに必死に取り組んでいます。また、経済活動と称して多くの若者を詐欺的な販売活動に従事させています。表ではキリスト教の宣教活動であるかのようにふるまいながら、その実態は、犯罪的な霊感商法を展開する団体なのです。これまで数多くの被害が報告され、社会問題となっていることは周知のとおりです。
  また究極的目的であるとする「地上天国」建設のため、聖地開発にも力を注いでいます。教祖である文鮮明によれば、選ばれた聖地は日本に8箇所、米国に55箇所、韓国に15箇所、その他の国に42箇所の計120箇所あるそうです。土地購入のために全精力を注ぎ、いったん手にしたものは、決して手放すことはありません。全世界のあちらこちらで、地域開発という名分のもとに統一協会の聖地が開発されているのですが、実はその資金のほとんどが日本において調達されています。
  資金調達のため、統一協会のメンバーは身を粉にして活動しています。しかし、当然のことながら、信者である彼らも被害者なのです。信者たちの純粋な願いや動機を組織が悪用しているのです。したがって、問題を見極めるためには、統一協会という組織そのものに目を向ける必要があります。

カトリック教会の対応

 統一協会による被害に対し、他国のカトリック教会は早くから適切に対応しています。フランスのカトリック司教協議会は、統一協会の危険性について1975年に警告書を出しており、パナマの司教会議は、同一の立場から統一協会の実態を的確に記述した司牧書簡を発表しました。また1976年12月28日に、ニューヨーク大司教区が、米国のユダヤ系委員会、全米教会会議と共同声明を出し、統一協会は反キリスト教的・反民主的であると断言しました。
  日本でも、その被害の大きさと影響が明らかになるにつれて、当然、カトリック信者への司牧的配慮が求められるようになりました。日本カトリック司教団は、1985年6月22日付でカトリック信者に向け、「世界基督教統一神霊協会に関する声明」を発表し、統一協会の危険性を指摘した上で、この団体に関係する会合や運動に関与することがないよう呼びかけました。

現状と対策

 昨今カルト問題に以前ほど関心が向けられないようになった、といわれます。一時的にマスコミが取り上げることはあっても、事件化しなければ捜査機関は動けませんし、視聴率の高さを基準とする報道も熱心にはなりません。これがカルトをめぐる日本社会の現状といっていいでしょう。
  しかし、今でも巧妙な方法で多くのカルトが存在・活動し、また多くの人たちが被害者となっていることは厳然たる事実なのです。その事実を明らかにするものの一つが裁判です。たしかに裁判は、被害者やその家族にとって、多くの時間と心身の痛みなどの犠牲がともなう辛い道程です。しかし、裁判を通して対象組織の実情を社会に訴えることは、問題を明確にしていく確実な機会となります。霊感商法についての訴訟、統一協会信者とその家族双方による訴訟など、その影響力は大きなものです。
  さらにプロテスタントの日本基督教団が、教団として統一協会対策に取り組んでいることは宗教界としてもとくに心強く、注目に値するものです。教団の牧師らが統一協会信者から告訴されたことがきっかけになり、彼らは裁判の進行とともに被害者やその家族、弁護士らとかかわりを深めていき、下に挙げるようないくつかの大きな成果も生まれました(吉田好里〈日本基督教団新松戸幸谷教会牧師〉「三つの裁判に勝利して」、黒鳥・清水牧師を支える会編『ペンよ、奢るなかれ――統一協会との三つの裁判に勝訴』所収参照)。

  1. 2002年8月にNPO法人小諸いずみ会「いのちの家」を小諸市に開設。カルト集団に属した人がマインド・コントロールにより受けた心身のダメージに対する脱会後のリハビリ施設で、DVなどの夫婦問題、家族問題等で苦しんでいる人たちの援助の場としても用いられている。
  2. 2003年11月、「全国統一協会被害者家族の会」発足。それまで個々の集まりでしかなかったものが全国的に網羅され、適時に被害者の家族が相談することができるようになった。弁護士や牧師も所属する機関として、日々深刻な相談を電話やメールなどで受け付けている。
  3. 2005年9月、「全国統一協会被害者家族の会」編による『自立への苦闘――統一協会を脱会して』(教文館)出版。脱会後も続くマインド・コントロールの影響。そこから完全に自由になり、真の意味での社会復帰を果たすためには、家族の理解と愛情が不可欠であることを訴えるもので、長く信者救出と脱会後のカウンセリングにかかわってきた牧師や、統一協会との裁判を闘ってきた弁護士たちが、つちかった経験と知恵を出し合った内容になっている。
  4. 2004年10月、「統一協会問題キリスト教連絡会」発足。それまで日本基督教団が、おもにこの問題にかかわってきたが、教団という一教派だけでは限界があり、この問題を広く世に知らしめるためにはキリスト教界全体の協力を得ることが必要であるとして、諸教派に協力が呼びかけられた。その結果、カトリック中央協議会、在日大韓基督教会、日本聖公会、日本バプテスト連盟、日本福音ルーテル教会が加わり、日本キリスト教協議会がオブザーバーとして参加することとなった。定期的に会合を開いて情報交換を行い、統一協会の実態と対策を紹介したパンフレットも作成している。またこの「連絡会」所属の司祭、牧師と「霊感商法対策弁護士連絡会」の弁護士、「全国統一協会被害者家族の会」の有志メンバーが訪韓し、韓国の諸教派に対して日本における統一協会の被害状況を訴えた。

相談窓口

 社会生活を送る上で、人とのかかわりは大切なことです。また心から他者のことを思ってくれる人はたくさんいます。親元を離れて一人で生活する人は真に心の支えとなる人を求めていることでしょう。しかし、そのような心のすき間に入り込み不当な勧誘を行う人たちが身近にいることも確かです。しっかりと見極めることのできる、正しい判断力が各人に求められます。少しでも怪しいと思われる場合には、はっきり断る勇気も必要です。もしもあなたの家族や友人が統一協会や他のカルト団体に入信してしまった場合、問題解決のためのさまざまな方法と相談窓口があります。決してあきらめず助言をもらってください。ここでは、そのいくつかを紹介します。

統一教会を告発するWebサイト

統一協会問題キリスト教連絡会 教派・教団ごとの連絡先

  • 日本基督教団     事務局      03-3202-0544
  • カトリック中央協議会 社会福音化推進部 03-5632-4413
  • 日本聖公会      管区事務所    03-5228-3171
  • 日本福音ルーテル教会 三鷹教会     0422-33-1122
  • 日本バプテスト連盟  宣教部      048-883-1091
  • 在日大韓基督教会   総会事務所    03-3202-5398

啓発冊子

『これが素顔!』
統一協会問題キリスト教連絡会が作成したパンフレット。
申し込み先:〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18
03-3203-0544  (定価100円)
全国のキリスト教書店でも販売されています。

終わりに

 統一協会問題についての第2回日韓教会フォーラム(2007年4月18日)での講演風景

統一協会問題についての第2回日韓教会フォーラム(2007年4月18日)での講演風景


 統一協会のヨス市への浸透状況その1。建設中であるホテル、ウォーターパークなど各種娯楽施設の完成予想図(2007年4月19日撮影)

統一協会のヨス市への浸透状況その1。建設中であるホテル、ウォーターパークなど各種娯楽施設の完成予想図(2007年4月19日撮影)


 統一協会のヨス市への浸透状況その2。海上から見た文鮮明の別荘(2007年4月19日撮影)

統一協会のヨス市への浸透状況その2。海上から見た文鮮明の別荘(2007年4月19日撮影)

 カルトに魅了されて入信し、マインド・コントロールによって、閉鎖的・自己完結的な空間・思想・人間関係の中に閉じ込められた人たちは、間違いなく被害者であり、犠牲者です。
  彼らを利用して集めた資金によって、文鮮明とその家族らのため建てられたといわれる施設を、目の当たりにしたことがあります。2007年4月17日から19日にかけて、統一協会問題キリスト教連絡会、弁護士、被害者家族の会の代表者が、韓国・全羅南道の麗水(ヨス)市を訪問したときのことです。2012年の万国博覧会誘致運動の中で、観光地でもある同市に韓国の統一協会が莫大な投資をし、統一協会信者を増やしながら、ホテル等の名目で彼らの研修施設を建設していることに対し、現地のキリスト教会がそれを阻止しようと祈り活動している現状を見聞し、日韓の教会がどのような形でこれらの問題に対処できるかを模索する研修会が当地で開かれました。最終日には博覧会誘致に便乗して統一協会が計画した「国際海洋観光レジャー団地」(仮称)の一部、2006年に建設許可が下り建設中の、パークワンという70階規模の建物を車窓から見学しました。また、ヨス市ファヤン地区の文鮮明の別荘、その300万坪の敷地にさまざまな施設が建てられている様子を船上から見、あまりにも常識外れな規模に驚愕すると同時に怒りを覚えたものです。そして被害者とその家族に一日も早い心の平安が訪れるよう祈りつつ、その対応に労を惜しまないという決意を新たにすることができました。
 変わり果てたわが子の脱会のために、裁判を通して奮闘している両親の姿からは、親としての忍耐や思いやり、愛のまなざしがひしひしと伝わり、涙を禁じえません。カルト被害者のかたが真の自分の人生を取り戻すことこそが、わたしたちにとっての喜びです。そういった思いで、わたしたちは、救出や裁判、脱会者の社会復帰にかかわってきました。わたしたちは、それぞれの立場で相談を受け、お手伝いさせていただいています。
  最後に、自身や家族のカルト問題で困難を抱え苦しんでいるかたに改めて呼びかけます。一人で悩まず、どうか相談してください。必ず解決の道はあります。

(「統一協会問題キリスト教連絡会」カトリック中央協議会担当)

特集2 キリシタン史跡をめぐる―北陸編 カトリック中央協議会出版部・編

 全国のキリシタン史跡を出版部員が実際に訪れ紹介する、連続企画の第2回目。今回は「北陸編」とした。訪問先選出にあたっては、昨年同様、各教区から提出された教区内巡礼地一覧を基準としキリシタン史跡を抽出したが、名古屋教区内の史跡に関しては、地理的な条件等により一部割愛し、一覧には挙がっていないものを加えた。

佐渡の史跡(1)

佐渡・相川(5月31日)
 10時少し前に新潟駅に到着した。バスターミナルに立って空を見上げると、今にも泣き出しそうな曇天である。新幹線が長岡に着くころには雨が降っていて、それは燕三条を過ぎても止んではいなかった。だから、傘をささずともすむだけでよしとしなければならないのだろう。しかし、入梅前にと考えた日程であることを思えば、多少なりとも憂鬱になる。
 今回時間の都合からフェリーではなくジェットフォイルに乗船した。しかし、これはなんとも味気ない。乗船時間1時間、ただシートベルトで客席に縛りつけられているばかりである。数年前佐渡を訪問した際にはフェリーに乗った。時間は倍かかりはするが、あの2等船室の雑然とした雰囲気は実に楽しく心地よいものだ。太宰治は「『工』の字を倒さにしたような」佐渡の特徴的な姿ゆえに、島が二つあるような錯覚を起こし甲板上で慌てふためくさまを短編「佐渡」でユーモラスに描いているが、この高速船は、そんな情感にはおよそ縁がない。妙に間近に感じる黒く浮き上がった水平線は、こちらの気持ちを反映してか、ひたすらもの寂しい。
 下船後、両津埠頭から相川行本線の路線バスに乗り込む。バスの中には「お願い」として奇妙な掲示があった。「北朝鮮への制裁措置に併せたテロ対策防止について、車内に不審物等を発見しましたら、さわらないで乗務員にお知らせください」とある。「について」とは一体何だろう。おかしな文章なのだが、たしかに深刻なことがらを伝えている。
 1時間弱、県道31号線にあるバス停、海士町(あままち)で下車。今回の目的地、旧中山街道の峠にあるキリシタン塚へと向かう。
 昨年の特集で触れたことだが、東北や北海道のキリシタン史跡には、その裏付けとなる史料が大変少ない。しかし、この佐渡のキリシタン塚においてはもっと極端で、確定的な史料などほぼ皆無といってよいほどだ。
 もともと佐渡にどのようにしてキリスト教が伝播していったのか。
 佐渡のキリシタンに関する代表的な研究として、ヨゼフ・フランツ・シュッテ師(イエズス会)の「佐渡の島――キリシタン史料に表われている佐渡」(『キリシタン研究第十八輯』所収)という労作がある。それによれば、佐渡におけるキリシタンについての最初の報告は、1606年3月10日付のジョアン・ロドリゲス・ジランによるイエズス会年報で、京都・伏見で多くの人を信仰へと導いた一人の熱心な信徒が所用のため佐渡に渡ったが、鉱山で働いていた幾人かの信徒たちと出会い、彼らに霊的な手助けをし、結果1年半もそこにとどまったことが記録されている。司祭やその他の指導者もなく、確立された組織も存在しない中で、信徒たちは導き手を必要としていたのである。
 佐渡・相川は、慶長8(1603)年の佐渡奉行所設置以降、金山の町として繁栄を遂げた。その結果、多くの人々が仕事を求め佐渡に渡ったのである。シュッテ師は、佐渡の信徒たちは信仰のゆえに島へと送られたのではなく、経済的な理由から自らの意志で鉱山に向かった者たちであったのだと報告書の記述から結論付けている。
 さて、前述の信徒が伏見に戻ったとき、その地の教会にいたのが、東北、北海道で広く布教活動を行い、最期は江戸で殉教したイエズス会宣教師アンジェリス師である。そして、このアンジェリス師が最初に佐渡を訪問した司祭となる。1619年のことであった。
 その後、1621年にはアダミ師が、1625年には今回「ペトロ岐部と187殉教者」の一人として列福されるディオゴ結城了雪師が佐渡訪問を果たしたようである。ディオゴ結城師の佐渡訪問の直前か直後には、島における最初のキリシタン弾圧が記録されており、20人以上の信徒が島から追放されている。犯罪者を送り鉱山で強制労働に従事させた島から「追放される」というのは、皮肉というか、何か不思議な感じがする。以降、禁教下の佐渡キリシタンについて、西欧側に残る史料はない。

キリシタン塚を示す看板

キリシタン塚を示す看板

 海士町バス停から来た道を中山トンネルに向かってやや戻る。トンネルの少し手前左側にオレンジ色の文字で「キリシタン塚」と書かれた看板が立っている。そこを入ると、すぐ先右側にまた同様の看板が立っている。ここが旧中山街道(中山みち)の入り口になる。江戸時代には鉱山へと続く主要道として多数の往還があったそうであるが、明治18(1885)年に人力車の通れる掘割新道が脇にでき廃道になった。今は、砂利が敷かれてはいるが、雑草が生い茂り、深く轍がえぐられた細い山道が続いているばかりである。
 曇り空の下、鶯がよく鳴いている。すぐ近くにある市立相川中学校の校舎からは、何か行事の練習だろうか、郷土芸能の音楽が聞こえてくる。雨に濡れた草にたえず足元をなでられ、ジーンズの裾はすぐに濡れそぼってしまった。

 旧中山街道入り口

旧中山街道入り口

 足元に群生する白い踊子草に目をやりながら進んでいくと、突然目の前に野生の藤の花の大きな房がぶら下がった。紫色があでやかで美しいが、やや薄暗い中、他の木に絡まるその太い蔦に薄気味悪さを感じなくもない。
 最初の看板から10分ほど歩いたところに「キリシタン塚まで500m」の表示が立っている。幅広いシダ類が鬱蒼としているところだ。勾配がやや急になり、砂利が敷いてはありつつも雨水を含んだ道は歩きにくい。
 さらに5、6分行くと、あと200mの表示があった。雑木が両側から道を覆ってトンネルを作っているが、そこを抜け笹が茂る中をやや行けば、日の射す広い空間に出る。ここが峠であり、そこにキリシタン塚がある。
 実は両津埠頭で路線バスに乗る前に、観光案内所の女性にキリシタン塚の場所等について訊いていた。バス停からは山道をかなり歩くから大変だといわれていたのだが、実際に歩いてみれば、それほどのことはなかった。
 質素に公園化されたこの空間は「峠の茶屋跡」である。その昔、諸国から送られてきた無宿者たちにここで甘酒が振舞われたが、「ここを下れば金山だぞ」といわれて、だれもお代わりを求めるものはなかったといったようなことが説明板には記されている。

 マリア像

マリア像

 左端に御子を抱いたマリア像が建っていて、裏へと登る小道が続いている。登りきると特徴的な形の「キリシタン百人塚記念碑」があり、両津教会(現在の佐渡教会)による解説板も立っていて、ここが佐渡唯一の殉教地であることが紹介されている。
 佐渡における殉教については、前述のシュッテ師もわずかに触れるばかりで踏み込んだ考察を行ってはいない。頼りとすべき史料がほとんどないからである。
 佐渡における殉教の根拠となる史料は、日本国内のいくつかの文書に求められる。たとえば、佐渡奉行所の記録の寛永14(1637)年の項には次のような記述をみることができる。
 「当丑年、肥前国天草切支丹宗門一乱之節当国ニ茂右宗門之者有之人数百人計於中山ニ死罪、一説ニ慶安三寅年右党之者四拾六人死罪之由」(『佐渡国略記』新潟県立佐渡高等学校同窓会発行上巻による)。
 「今年肥前國島原の亂に依て彌切支丹嚴禁を被仰出に付佐州をも遂詮議處黨類數十人ありしにより中山と云所にて死刑に行ふと云」(『佐渡年代記』佐渡郡教育會発行上巻による)。

 キリシタン百人塚記念碑

キリシタン百人塚記念碑

 その他『佐渡風土記』にも上記『佐渡国略記』引用の前半部分と同様の記述がある。また、『佐渡国略記』引用の後半部分に伝聞形式で記されている慶安3(1650)年の弾圧はこの書物にのみみられる記録であり、確かなところは分からない。
 これらの書物は、実はいずれも100年以上経っての後代に過去の記録を元に編纂されたものである。殉教者の人数が「百人計(ばか)り」であったのか「数十人」であったのか、確定するすべはないといってよいだろう。
 また処刑が行われたという寛永14年という年についてはどの文書も一致しているところであるのだが、昨年惜しくも他界された郷土史家、磯部欣三(本間寅雄)氏は「中山キリシタン塚考」(「佐渡郷土文化」1991年10月号)において、島原の乱をきっかけとするキリシタン取り締まり強化の波及であるならば、処刑があったのは14年ではなく、その翌年、つまり乱が終息した寛永15年ではないかという推論をなしており説得力がある。
 この中山の地においてかなりの人数の殉教があったことは間違いないのであろうが、残念ながら奉行所がキリシタンに関する台帳などを残してはいないので、正確な人数、まして殉教者一人ひとりの名前などまったく分からない。ただ『佐渡年代記』の正保2(1645)年の項には「役人川合五兵衛と云者切支丹宗門たる事顯れ死刑に行ふ」(同前掲による)とある。これについて磯部氏は、「佐渡奉行所の役人の名前をあげた殉教は、これが唯一」であり、「佐渡での最後の処刑記録」であるとしている。
 そして、殉教とキリシタン塚との関係、つまりこの塚の根拠なのであるが、これに至っては不分明なことだらけだ。
 この塚を発見したのは大江雄松という伝道士で、彼は教会の人から中山に殉教者の塚があることを聞き、大正時代の初めに苦心の末これを発見、この地を周辺を含め町から買収し、発掘調査を行っている。このことは、昭和2(1927)年に発行された、地元の史学者や考古学者の手による雑誌「佐渡史苑」第2号において、岩木擴という人物が「國分尼寺跡八幡御所跡及切支丹塚に就て」という論文のなかで紹介している。それには「腰塚より發堀斜下し塚心に達したるも内部は土泥のみにして他物を見す」とある。発掘したけれども何も出てこなかったというのだ。
 しかし、岩木氏はこの塚について、古墳とするには形状が合わず、一里塚とするには距離が合わず、庚申塚等とするには人家から隔たりすぎているなどのことから「切支丹塚とすれは最も當を得たるものなるへく思はる」との感想を述べている。
 岩木氏は大江伝道士に案内されこの地を訪れているのであるが、それ以後、氏はキリスト教関係者に会うごとにこの話をした。その結果、キリシタン塚として一般に知られるようになったのだという。
 実際にここを訪れる前に、上に記したようなことはあらかじめ種々の資料に目を通し知識として持っていた。そのため、「謎めいた」などといってしまえば通俗に堕すような気がするが、正直かの地のキリシタン塚に対して、何か神秘的な場所のようなイメージを抱いていたことは事実である。

 十字架像の建つ百人塚

十字架像の建つ百人塚

 だが、実際のキリシタン塚は微妙に印象が異なった。塚周辺は芝よりもやや長いピンクがかった草が地面を覆い(この草が雨露を十分過ぎるほど含んでくれていたおかげで、スニーカーはずぶ濡れになった)、正面には1988年に建てられた立派な十字架像がある。この十字架の裏側がこんもりとした塚で、現在はカトリック墓地として使われており、墓石や墓標が計25基ほど並んでいる。
 黒い雲が空を覆う残念な天候でありながらも、塚のあたりは決して薄暗くはなく、むしろ明るいという印象をもった。樹木の緑は雨に濡れ色鮮やかにきらめき、関東に比べるとやや遅いだろうか、コデマリの白い花が静かに咲き誇っている。静寂な美しい風景だ。ここに至る山道がなんとも暗く寂しかったので、その対比から、そんなことを余計に感じたのかもしれない。
 さて、緑の輝きに心を残しつつ、ここを後にし相川の町へと歩を進めることにした。しかし、来た道を戻るのではつまらない。ここは一つ、江戸の昔に金山へと引かれた無宿者に寄り添って、この街道を最後まで歩いてみようと思った。だが、何か先へと伸びる道は余計に狭いようで、少々心細い。しかし、とりあえずと歩き出した。
 10分ほど下ると舗装された林道に出た。道を渡って正面に進めば中山集落、左に行けば「鶴子銀山跡1.4km」とある。実は、ここでもとの県道へと出るには右に行かなければならなかったのであるが、なぜか左に歩を進めてしまった。約20分後、鶴子銀山跡に着き、そこに掲げられている航空機写真に上書きされた大きな地図を見て初めて誤りに気づいた。雨水を吸い込んだスニーカーが舗装道路の上で滑稽な足音をたてるのを不快に感じつつ、来た道をしおしおと戻った。
 わたしはこんな失敗をして余計な時間を使ってしまったが、この街道を越えるには、キリシタン塚での時間も含めて、1時間半ほどをみておけば十分かと思う。最後は中山トンネルの手前に出ることになるので、相川の町へと向かうには、先ほどバスで通った道を行くことになる。

 相川郷土博物館

相川郷土博物館

 相川では郷土博物館を訪ねた。実はここで職員のKさんから、磯部氏の「中山キリシタン塚考」のコピーを頂戴した。Kさんとはあらかじめ電話で連絡を取っていた。存在は知りつつもどうしても手に入れることができなかった資料であったので大変ありがたかった。
 郷土博物館には金山の歴史に関するさまざまな資料が展示されているが、一室の隅に「マリア観音」として木彫りで厨子に収められた小さな子安観音があった。右腕に赤子を抱き蓮華座に乗っている。どちらかといえば素人の作のような素朴な像である。佐渡には他に2体、計3体のマリア観音が伝わっているそうである。
 まだ明るくはあるが、はや夕近くなり、これから金山跡に行くには時間が足りない。相川の町にはほとんど平地がない。海沿いの集落の裏はすぐに山である。博物館から少しだけ坂道を上り、途中でたたずみ日本海を眺めた。水面は黒いが、尖閣湾はこの日、とても穏やかだった。

佐渡の史跡(2)

 カトリック佐渡教会

カトリック佐渡教会

佐渡・両津(6月1日)
 朝バスに乗り込んで相川を後にし、両津の佐渡教会へと向かった。最寄りのバス停は両津埠頭の少し手前、福浦になる。バス通りから進行方向右手の小道に入って少し歩くと、塔のある真っ白な美しい建物が目前に現れる。
 佐渡教会は大変古い歴史を持つ教会である。まず件の大江雄松伝道士が明治11(1878)年に夷147番地に2階屋を30番地に平屋を、表向き宿屋を開業することとして本間金五郎氏より借り受けた。パリ外国宣教会のドルワール・レゼー師を迎えるためである。来島した師は、ここを拠点として布教活動を始めた。
 レゼー師は来島の際、完全に一旅行者を装い、大江氏との間で宿の主人と客という演技までしたという。当時、外国人が家や土地を借り受けるということはもちろん、新しい土地にただ居住することにすら、多分に困難があったのである。

佐渡教会祭壇

佐渡教会祭壇

 このあたりの経緯や、その他レゼー師が味わった数々の苦労などは、残された手記から知ることができる。この手記は『両津町史』巻末に資料として収録されているのであるが、読んでみると実に面白い。簡単に手に入り読めるものでないことがまことに残念である。来島直後、干したイカの臭いを異様な悪臭として耐えがたく感じたことや、コレラを流行させた犯人であるという流言飛語に苦しめられたこと、その後、夷湖のほとりに土地を借り西洋館を建てたが、ここは町のはずれで隣は火葬場であり、その煙に往生したことなど、まるで小説を読んでいるかのように感じるほど、見事な筆致で書き綴られている。
 レゼー師が最初に建てた西洋館は明治16(1883)年の大火で焼失してしまった。その後、ド・ノアイ師の代になり、明治20(1887)年、初めて聖堂が建てられた。当初は塔の四隅にさらに小さな塔がついていたそうであるが、雪害を防ぐため、現在それは取り除かれている。そのことを除けば、聖堂はほぼ当時のままのものである。文化財として有名な鶴岡の教会や旧・京都カテドラルなどを手掛けたパピノ師の設計による。
 教会では主任司祭の川崎久雄師にお会いし、色々と話をうかがった。
 昨日訪れたキリシタン塚については、その土地はいまだに大江氏名義になっていることを教えていただいた。大江氏は多くの孤児を養子として自分の戸籍に入れて育てたため、その遺産相続関係が複雑で、土地取得の了解を得るためにすべての権利者をたどることは不可能だからということである。
 佐渡教会の土地も長い間借地だったそうで、往時の宣教師の名前が記された領収証が残っているとのことである。
 またキリシタン塚から発掘の結果何も出てこなかったことに関しては「深く掘りすぎたのではないだろうか」との意見を述べられた。当時の処刑者の遺体はわずか3尺程度掘られただけで埋められ、土をかぶせられたのだという。
 信徒会館には、教会が写っている古い絵葉書を引き伸ばした写真が数点飾られていた。川崎神父は鷹揚な口調で丁寧に一つ一つを説明してくださった。
 現在、主日のミサに来るのは5、6人ほどとのことで、他の地方の教会同様、高齢化が進んでいる。しかし、今年の復活祭には20代のかたの受洗があったそうだ。「教会に来るのはお年寄りが多いですか」とちょっと失礼な質問を向けたわたしに神父はそのことを教えてくれたのだが、穏やかな中に少し誇らしげなトーンが混じるのを感じたのは、単なるわたしの思い過ごしではないと思う。

 最後にレゼー師のその後について簡単に触れておきたい。師が佐渡を去ったのは明治13(1880)年のことである。わずか3年の在島であった。しかし手記には、これまで40年日本で布教に従事して「当時の佐渡ほど布教に見込みのあった土地は前後にない」とある。
 その後仙台、麻布、松本、東京の関口教会の担当などを経て、大正7(1918)年に神山復生病院の院長に就任、昭和5(1930)年に帰天されるまで同職を務めた。精力的な活動は多くの人に知られ、最期まで衰えることはなかった。あの有名な井深八重さん――ハンセン病が誤診であることが明らかになっても復生病院に残り、同病院初の看護婦となった彼女が来院したのはその在任中である。また岩下壮一師もその父親とともにレゼー師を援助した。その後、岩下師はレゼー師のあとを継ぎ、第6代の神山復生病院院長となった(『神山復生病院の一〇〇年』参照)。  レゼー師の墓は復生病院の墓地にひっそりとある。もちろん、亡くなられた多くのハンセン病患者とともにである。

富山・石川の史跡(1)

富山(7月25日)
  まずは越後湯沢へと向かう新幹線の中で、車内放送を聞いた。早朝に発生した地震により、乗り換え予定の特急「はくたか」に大幅な遅れが生じているのだという。
  予定時刻に越後湯沢に到着。駅員に話を聞くと、特急は最前まで完全にストップしていて、今は運転を再開してはいるが1時間半以上は遅れているとのこと。富山まで行くに他に方法はなく「はくたか」到着を待つしかない。
  実は今回、出発前から地震の影響を受けていた。取材先の一つとして、石川県七尾市にある高山右近ゆかりの本行寺という寺を訪うつもりでいた。通常一般の拝観を受け付けていない寺院なので、前もって電話で取材の申し込みをしたのだが、結果からいえば、断られてしまったのである。住職は、今年(2007年)3月に起きた能登半島沖地震の被害が激しく、完全な復興に向け精力を注いでいるところであり、申し訳ないがそういった余裕がないのだと説明してくれた。他の理由であれば何とか粘って取材の約束を取り付けるところなのだが、地震が理由であれば、しつこくするわけにもいかず諦めるしかない。この電話の数日後、今回の新潟県中越沖地震発生の報を聞いた。
  さて、何もせず1時間半もの時間を過ごしているわけにもいかない。駅員の承諾を得ていったん駅の外に出、あたりを散策してみることにした。
  越後湯沢といってまず思い出されるのは、川端康成『雪国』だろう。駅から10分ほど歩いたところに立派な文学碑が建っている。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」。横光利一と並んで新感覚派の旗手としての地位を不動のものとしたあまりにも有名な書き出し、それが作家自筆の文字で彫られている立派な碑だ。前に設けられたベンチに腰掛けて、しばらくはぼんやりとその文字を眺めていた。だが、旅の目的をあらためて思い起こせば、いつまでも駒子に想いを寄せているわけにはいかない。
 結局、2時間近くの遅れをもって「はくたか」は発車し、午後1時過ぎに富山に到着した。ここから高山本線に乗り換える。しかし、1両編成のローカル電車、発着は1時間に1本もない。ここでも40分以上も無為の時間を過ごすことになった。
 中学生や高校生で込み合う電車に15分ほど揺られ、ようやく2時過ぎに千里(ちさと)駅に到着。目的地である長沢・西光寺に向けて歩き出した。道順は簡単で、駅前を走る国道472号をひたすら北上すればよい。両脇には青々とした水田や畑が広がり、西側の山の斜面には広大な牧場が見える。どんよりと曇り時折雨粒が落ちてくるが、湿度が高く蒸し暑い。流れる汗をタオルで拭いつつ歩き、25分ほどで着いた。

 長沢・西光寺

長沢・西光寺

  長沢・西光寺は、明治の初め、いわゆる浦上四番崩れにおいて富山藩に流された信徒が預けられた浄土真宗寺院の一つである。富山藩に流された信徒たちは浦上から直接同藩に送られたのではなく、金沢や大聖寺から移動を命じられた。浦川和三郎司教の『切支丹の復活』に収められている、生存信徒の証言をもとにまとめられた「旅の話」には、真冬に豪雪地帯である倶利伽羅峠を越えるのに、鋸で雪を切り開き進んだことなどが記されている。
  富山に着いた一行は諸寺に分囚されることになるが、長沢・西光寺に預けられたのは深堀重次郎の妻キクと4歳の次女トメであった。重次郎は妻と離され、吉川・楽入寺に預けられている。キクは浦上を出るとき、すでに身重であった。
  この重次郎は、排耶書『島原日記』を読まされ、いったんは棄教してしまう。浦川司教は前述書で次のように厳しく書いている。「深堀重三郎は信徒の杖とも柱とも仰いでいた伝道師であったにもかかわらず、真先に棄教した。仏僧と声を合わせ経文までも読んだものである。それが悪例となった上に、孤独の寂しさ、減食の辛さ、説得の煩わしさ等に根気負けがして、四十二名が三十七名までは改心してしまった」(「重三郎」とあるのは重次郎のこと。原文は旧字、旧仮名遣い。一部漢字を仮名に変え、送り仮名を補った)。
  しかしこの棄教には、近くにいてやることのできない妻の容態を思いやる気持ちが強く働いていたことは間違いないであろう。出産間近の妻を見舞ってやるために自由の身になりたい、それは人として当たり前の感情だ。三俣俊二氏は『金沢・大聖寺・富山に流された浦上キリシタン』において、浦川司教の記述は「酷に過ぎる」と評している(ちなみに同書は、現在では入手困難な浦川司教のテキストをもとに「旅の話」がまとめられ、その誤りも一つ一つ丁寧に指摘しているので、大変参考になる。本稿の浦上キリシタンに関する記述の多くは同書によった)。重次郎はその後、改心戻しを宣言し、信徒として浦上に帰還している。
  棄教の結果、重次郎は妻を見舞うことができたのであるが、ここで悲劇が起きる。「難産の結果、母子ともに死亡」(前出・三俣)してしまうのだ。キク母子が葬られた場所には、異教徒である当地の村人たちによって地蔵が建てられ、その死が悼まれたのだという。
  庫裏の玄関先で女性が立ち話をしていたので「お寺のかたですか」と話し掛け、案内を乞うた。突然の来訪であったにもかかわらず、住職とその奥さんが快く対応してくださった。
  ここまで述べたように、西光寺は浦上配流信徒関連の地として重要であり当然訪れなければならない場所なのであるが、正直、訪問には気が進まなかった。それは以下のような理由による。
  西光寺は、キクの遺品とされるものを3点所蔵している。仏像が付いた金属製の十字架、同じく仏像が施された短剣の形をした鋳物、古銭を十字架型(というよりは剣の形)に紐でつないだものの3点である。しかし、これらが果たして本当にキクの遺品であるのか、その信憑性がはなはだ疑わしいのである。
  フーベルト・チースリク師が『キリシタン史考――キリシタン史の問題に答える』において、キリシタン遺物とされながら実は偽造品であるものをいくつか紹介しているのだが、その中に、この西光寺の仏像付き十字架とほぼ同型のものがあるのだ。昭和20~25年の間に名古屋で作られ、発案者も分かっているのだという。外国人向けの土産品として作られ各地に出回ったのだそうだ。魚津歴史民俗博物館の麻柄一志学芸員も、このチースリクを引用して、西光寺のそれが疑わしいことを考察している(「歴史のなかの嘘――隠れキリシタン十字架調査?末記」〈富山県博物館協会インターネット電子紀要〉)。
  このような予備知識をもってその遺品に対峙したとしても、果たしてどんな顔をしていればよいのか。しかし、このレポートをまとめるため、実物を見ないわけにはいかないだろう。
  わたしがキクの遺品を見せていただきたく当寺を訪れた旨を説明すると、住職は綿を敷きつめた3つの箱に収められたそれを出してきてくださった。
  現物を目にすると、予想よりはるかに大きなものであることに驚いた。十字架は縦の長さが30センチ近くある。短剣型のものも20センチ以上はあるし、古銭がつながれたものに至っては40センチはあるだろう。これを浦上から隠し持ってくることなど、まずもってできるわけがない。当地である程度自由の身になってから造られたものであるとすればキクの遺品であるというのはおかしいし、わざわざ仏像付きの十字架にする理由がない。十字架自体が紛うことなくありありとゴチック風十字架の形をなしているからには、何かしらの目をごまかすためという説明も成り立たない。
  住職は立派な造形とおっしゃっていたが、申し訳ないが、わたしにはそうは見えなかった。逆に粗雑な出来である。チースリク師が紹介している十字架と違って、後ろに円形の光背のようなものがないのであるが、よく見ると、それを無理やり外したような痕跡がはっきりと見受けられる。偽造の上に偽造を重ねたのであろうか。短剣型のものに施された阿弥陀仏も、あまりいい出来とはいえず、どういった意図をもって作られたものなのか、さっぱり分からない。
  研究者でもないわたしが、これらの品を偽造品であると断言できる立場にないことは確かであるし、それにこの寺や住職が、偽造品と知りつつ、それをキクの遺品だと喧伝しているのだと主張するわけでも決してない。いつ、どんな切っ掛けでこれらの品が当寺において所蔵されるものとなったのか。おそらく50歳前後であろう若い住職も、いつから寺に保存されるようになったのかは知らない。というより、キクの遺品として最初から当寺に残されたものであるということを寸毫も疑っていない。
  住職からは、逆にこの遺品に関する資料を何か持っているかと尋ねられ、ことばに窮した。何を話したらよいのか分からず、重い空気が流れ気まずかった。しかたがないので早々に話題を切り替え、キクの墓について尋ねた。夫妻は、その道順を細かく丁寧に説明してくれたのだが、しかし、今の時期は雑草があまりにも生い茂っていてたどり着けないのではないかともいわれた。以前は地元のかたが整備していたのだそうであるが、今はそんなこともなく荒れているのだという。場所自体はここからすぐのところである。まずは実際に行ってみて、この目で確かめてみなくてはならない。礼を述べて寺を後にした。

 キリシタンきく塚の入り口を示す看板

キリシタンきく塚の入り口を示す看板


 きく塚に建つ祠

きく塚に建つ祠


 祠に安置されている聖母像と地蔵

祠に安置されている聖母像と地蔵

  西光寺の門を出て左に進み、国道472号を渡ると古里郵便局がある。郵便局の向かいに電話交換局があり、その右側の坂道を少し上ると、左手に「長沢西光寺流罪 キリシタンきく塚」と書かれた倒れかけた看板が、山中に続く草木が茂る小道を示している。
  住職夫妻のことばに嘘はなかった。背丈ほどもある雑草が、おそらく道だと思われるところを覆いつくしている。先ほど降った雨で草はしっとりと濡れているので、なおのこと条件は悪い。おまけにそこかしこに蜘蛛の巣が張り巡らされている。小枝を拾ってこれを振り払いつつ、腰で雑草を掻き分けて進んだ。目の前に巨大な女郎蜘蛛がそのグロテスクな腹を誇示してぶら下がっていたときにはさすがにひるみ、引き返そうかとも思った。だが、子どもの頃、これを捕まえて小枝にぶら下げ女の子をからかったりしていたことなどを思い出し、妙な話だが、そんな記憶で自らを鼓舞して先に進んだ。
  時間にすれば数分だが、十分に困難を味わってやっと小さな祠の前に出た。そこには古里郷土史研究会による解説板が立てられていて、キクの生涯を簡単に説明した後に「なおこの坂は重次郎坂(重坂)と呼ばれています」とある。しかし、その坂はほぼ隠されてしまっているのだから苦笑するしかない。
  屋根には銅板が葺かれた、さして古いものではないだろう小さな木造の祠だが、正面には十字架の彫りなど丁寧な細工がなされている。扉を開けると、磨耗した石の地蔵と真っ白なマリア像が並んで収められていた。マリア像は当然後になって安置されたものだろうが、磨り減って目鼻もよく分からない地蔵の顔は、それが経てきた時間を示している。そっと寄り添っている、常ならば対になるはずはない2体の像は、なぜか、柔らかく優しい雰囲気を醸し出している。無理をした甲斐があった。
  しかし、今回のわたしの体験からは、ここを訪れるのであれば十分な覚悟をした上で、といわざるを得ない。軍手と草刈りの鎌を持参したほうが無難だろう。このままであれば、ここはますます荒れ果て、いずれはどこに塚があるのかさえもよく分からないといったようなことになってしまうかもしれない。何とか史跡として整備し管理していくことはできないだろうか。しかしそれには、どこかがイニシアチブを取らなければならないのだ。

カトリック富山教会

カトリック富山教会

富山駅に戻り、富山教会へと向かった。駅から県庁、富山城址の前を通る大通り(越中東街道)をしばらく進み、山王町交差点で左側に一本入ったところ、徒歩15分程度である。向かいには愛護幼稚園がある。
  富山教会は富山藩庁が「合寺令」を出した後に配流キリシタンたちが預けられた鈴木家家老屋敷跡地に建っている。合寺令とは一派一寺にすべしというなんとも無茶な指令で、とくに230以上もの寺数を誇っていた浄土真宗は大変な打撃を受けた。この結果、真宗の寺にはキリシタンたちを収容できる余裕がなくなったのである。この屋敷跡地を後に神言会のヘルマン師が買い取り、聖堂を建てたのだそうだ。今はフランシスコ会に委託された小教区で、聖堂前にはフランシスコの像が建っている。
  もちろん住宅街の一角に過ぎない現在のこの地に、往時を偲ぶよすがが何かしらあるわけではない。だからこそ、ここに解説板の一つでも立っていれば、どんなにかよいだろうと思う。教区のwebサイトでもこの地の歴史は紹介されているのだから、その目的で訪れる人たちは少なからずいるはずだ。その際、たとえちょっとした解説の札であっても、何かしらがあれば、遠い昔の迫害の歴史に思いを馳せる切っ掛けにはなるだろう。せっかく教会の敷地なのだから、何かが欲しい。それは贅沢な望みだろうか。

富山・石川の史跡(2)

高岡城址石垣

高岡城址石垣


博物館前に展示されている石垣に用いられた文様が確認できる石

博物館前に展示されている石垣に用いられた文様が確認できる石


 高岡古城公園内にある高山右近像

高岡古城公園内にある高山右近像


高山右近顕彰碑

高山右近顕彰碑

高岡、金沢(7月26日)
 朝、富山を出て、まずは高岡に向かった。高岡には高山右近が縄張り(城の建物の配置を定めること)を行った加賀二代藩主前田利長の隠居城、高岡城がある。
 高岡は江戸の時代から続く銅器産業の街だ。駅から城までの道には、民話に材を取ったものなど、バラエティにとんだ銅像が多数建っている。それらと一緒にするわけにはいかないだろうが、極めつけは高岡大仏である。町中に突如現れる巨大な仏像には、そのあまりにも風景に溶け込めていない様子に逆に圧倒された。
 大仏を過ぎるとすぐに高岡城址(高岡古城公園)である。朱塗りの駐春橋を渡って外堀を越える。護国神社の脇を通るとすぐに内堀に面するが、二の丸と本丸を結ぶこの場所に、築城当時の石垣が少し残っている。積み方は「乱積み」で、すっかり苔むした現在でも、堅固なものであったろう往時が偲ばれる。解説板にもあるのだが、この石垣の石には十字や「田」の字のような文様が確認されている(公園内にある博物館の玄関先には、これら文様が刻まれた石が展示されており、間近に見ることができる)。これは現在では石工が付けた目印であると考えられているが、以前はキリシタンと関係あるのではといった説が、まことしやかに語られていたらしい。
 十字であれば何であれ即キリシタンというような、実にたわいない説であると思う。キリシタンとは関係なく日本には古来より十字の文様はいくらでも存在していたはずだし、シンボルということの本来的な意味を考えれば、いくらキリシタン大名が縄張りしたからといって、石垣の石に己の信仰のシンボルを刻む理由などまったくないことぐらい、すぐに分かりそうなものだ。
 石垣の手前を右に折れると博物館にぶつかる。そこをさらに右に曲がると、外堀の前に高山右近の銅像と顕彰碑が建っている。銅像は西森方昭作。同型の像は、高槻城跡公園(大阪府)、マニラ市パコ駅前(フィリピン)、石川県志賀町、そして今年5月に大阪の玉造教会から移設され香川県の小豆島・土庄教会にある(「カトリック新聞」2007年7月22日号による)。
 凛々しいというより険しいといったほうが的確かと思われる、厳しい表情をした像だ。胸の前で剣の形をした十字架磔刑像を掲げている。迫害や困難に多々合いつつも自らの信仰、信念を決して曲げることのなかった右近の姿がそこにはある。
 博物館に入ると、前田利長や高岡銅器に関する展示とともに、右近について解説する1枚のパネルがあった。読み進めると、右近の銅像についての文章には、何と玉造から小豆島へ移設されたことがすでに反映していた。これには正直驚かされた。地方の入館無料の小さな博物館がこれだけのことをしている。すばらしいことだと思う。

 カトリック金沢教会にある高山右近像

カトリック金沢教会にある高山右近像

 古城公園のすぐ近くにある高岡教会に立ち寄ったりしていたので思っていた以上に時間を食い、金沢に向かうため乗車予定であった「北越」の発車時間までわずかになってしまった。暑いけれどもしかたがない、駅までの道を走った。汗まみれで息を切らせ、やっとの思いで改札につくと、地震の影響で「北越」の運転は現在中止されているのだという。被災者の苦労を思えば、こんな程度のことで文句のいえるはずがない。結局次の電車である「サンダーバード」に乗り込んだ。25分ほどで金沢に着く。
 金沢ではレンタサイクルを借りて、市内各所を回ることにした。昨日の天気予報では今日の午後は雨ということであったが、何とか持ちそうだ。
 まずは金沢教会へ行く。場所は市役所の並び、金沢の中心的繁華街の程近くである。
 ここ金沢教会にも高山右近の像がある。しかし、高岡城のそれとはまさに正反対、実に対照的なものだ。短刀一本のみを腰に差し、右手には聖書を抱えている。威厳ある武士といったイメージとは遠い初老の姿だが、はるか遠くを見つめるまなざしと、肩幅ほどに開きしっかりと地を踏みしめている両足には、その強固な信仰を示す力強さがこもっている。

南坊石

南坊石

 また敷地の一角には、「南坊石」なるものがひっそりと置かれている。これは右近の屋敷を取り壊した際に運び出されたと伝えられている石だそうだ。「南坊」とは茶人としての右近の号である。
 受付の女性に来訪の理由を説明し、教会で作成しているキリシタン史跡案内の冊子を分けていただいた。「石川のキリシタン史跡(その一)」(1996年)と「金沢のキリシタン史跡・卯辰山の浦上キリシタン流配史跡」(2007年)の2冊である。前者の「その二」はすでに在庫がないのだそうであるが、後者がその内容を最新の情報でカバーしているとのことだ。
 ここでしっかり強調しておきたい。この2冊の冊子、実にすばらしいものである。今回、この冊子を手に入れることができなければ、金沢での目的をほとんど達成することができなかったといってよい。各場所への道順を説明する文章が実に細やかで分かりやすい。
 思うに、これだけのものを作成するにあたっては、金沢教会所属の木越邦子さんの力が大きかったのだろう(後日「カトリック新聞」9月2日号において、木越さんが冊子作成に当たったことが紹介された)。木越さんは桂書房という富山県の出版社から『キリシタンの記憶』という立派な本を出版なされている。実は、この本の存在は、最初に触れた本行寺の住職に電話で教えていただいたのである。住職は、木越さんの『キリシタンの記憶』はぜひとも読まねばならないと力説されていた。そこで早速に購入し読んでみたのだが、迫力のある考証とルポルタージュで構成されていて面白く、多くのことを教示していただいた。
 さて、件の冊子に従い、一つ一つの史跡を回ってみた。まずは右近第一の館跡。冊子には「旧金沢大学付属中学校跡」とあるが、現在は金沢21世紀美術館なる、まさに現代的な建物が建っている。町は刻一刻と姿を変えていくものだ。冊子の説明が細かで丁寧である分、それが情報として古くなるのも早い。それはしかたがないことである。逐次改訂版を出すことなどできるわけがない。
 このあと回ったのは、順に、紺屋坂、玉泉園、旧東内惣構堀、大手町、甚右衛門坂(教会が建てられていたとされる場所)、金沢貯金事務センター(右近第二の屋敷跡)、尾山神社であり、いずれも右近もしくはキリシタンに何かしら所縁のある場所だ。
 玉泉園は、加賀藩大小将頭であった脇田直賢の作庭による「上下二段式の池泉回遊式庭園」であるが、西庭の一角に切支丹灯籠とされるものがある。切支丹灯籠、要するに織部灯籠である。織部灯籠とキリシタンのつながりについては過去に幾人かの研究があるが、現在では、そこに何らつながりはないと考えるのが一般的だろう。たとえば、松田毅一氏は『キリシタン――史実と美術』において、両者の関連を説く諸説・諸論に対して厳しい反駁を加えている。灯籠の横に立てられた解説板には「竿と呼ばれる足の下部に聖母マリアの像を刻み、その前にツツジ等を植え込みこれを隠した」とあるが、なぜそこに刻まれているのが「聖母マリア」と断定できるのか。いくら何でもこれは、あまりにも根拠のない乱暴な説明ではないだろうか。
 さて、今回巡った他の場所には、右近やキリシタンとの関連を示す解説板などが立っている訳ではない。冊子の案内に従って場所を特定し、そこで冊子に書かれた解説を読む。あとは想像力である。車が頻繁に走る街角で400年前のこの地を想像するというのはかなり困難なことではある。しかし、何かしらの目印を頼りに一箇所一箇所を実際に巡るというのは、決して無意味なことではない。それに、さまざまに想像を働かせながら町を巡るのは、実に楽しいことだ。大規模な復元や模造といったものにあまりにも頼りすぎるのも、かえって人間の想像力を貧困にしてしまうのかもしれない。
 しかし、富山教会のところで書いたと同様に、そこに右近やキリシタンとの関連を説明する、何かが立てられていたらとも思う。それは、わたしたちを想像の世界へと誘う鍵のようなものとなるはずだ。

 金沢ではぜひとも食べねばならぬと決めていたものがある。「どじょうの蒲焼」である。これをホテルに落ち着く前に買い求めようと考えた。
 この食べ物のルーツがキリシタンにあることは、木越さんの著作でも三俣俊二氏の本でも紹介されている。ある程度の自由を得た卯辰山のキリシタンたちが、小川で取ったどじょうを蒲焼にして売り歩いたのがその始まりなのだそうだ。
 有名な近江町市場に行けば簡単に購うことはできるだろう。しかし、それでは何となくつまらない。街中で素朴に売っている店はどこかにないだろうか。史跡を巡っている最中にもあれこれと目を遣って捜してはいたのだが、なかなか見つからない。ほぼ諦め、明日近江町市場で買えばいいかと思って、自転車を返却しに駅の反対側(西口)に向かったところ、突然「どじょうの蒲焼」の看板が目に入った。
 数本を買い求めてから、炭火に向かい串を焼き続けている老女に聞くと、今ではこんな形で店を開いているところは2、3軒ほどしかないのだという。昔は何軒もあったそうなのだが、みんな年をとり止めてしまったらしい。
 ホテルの部屋で、さっそく食してみた。炭火焼特有の香ばしさの中に、たれの甘みに混じって微妙な苦味がある。うなぎほど濃厚ではないが、簡素ながら実に美味である。乾いた喉を潤すビールと、とても合う味だった。

富山・石川の史跡(3)

織屋跡(花菖蒲園)

織屋跡(花菖蒲園)


卯辰山養生所跡

卯辰山養生所跡


 長崎キリシタン殉教碑

長崎キリシタン殉教碑


湯座屋跡

湯座屋跡


 左側の谷が、奥のトキエのあったあざみ谷

左側の谷が、奥のトキエのあったあざみ谷

金沢(7月27日)
 最終日のこの日は、朝バスに乗り込み、卯辰山に向かった。配流された浦上キリシタン関連の史跡を訪ねるためである。ここでは昨日以上に、金沢教会で頂いた冊子が役に立った。
 天神橋バス停で下車。もっと先までバスで行くことはできるが、ここが卯辰山の入り口、ならばここから歩くべきだろう。まだ雲がかなりあるが、これから相当気温は上がりそうだ。覚悟して山を登りはじめた。

 蛇行する坂道を、西田幾多郎が参禅した洗心庵跡の碑や、独特ななよやかな筆致が刻まれた泉鏡花の句碑などを見つつゆっくりと進んでいくと、10分ほどで花菖蒲園の前に出る。ここが「織屋跡」である。金沢藩による卯辰山開発の一環として、ここには織物工場が建てられたが、維新後開発は中止され、2階建ての建物は空き家となっていた。そこに浦上から金沢藩に流された第一陣、おもに戸主によって編成されたキリシタン123名(浦上出発時は124名であったが1名が途中脱走)が収容されたのである。明治2年12月(1870年1月)のことであった。
 織屋跡からさらに上っていくと、ほどなく左手の民家の塀の前に「卯辰山養生所跡」と記された解説板が立っている(松の木で少し隠れているので、見落とさないよう注意が必要だ。実際わたしは見落としてしまい、途中で気づき後戻りした)。金沢藩が建てた病院の跡で、明治5(1872)年6月、大聖寺から移動を命じられた者たちが収容された場所である。「旅の話」には「向山の病院跡」と記されている。
 さらに15分ほど歩くと、望湖台という見晴らしのよい公園に出る。その少し先右手に「長崎殉教者之碑」と書かれた標識があり、草深い下り坂(丸太で階段状にしつらえられた道)を指し示している。これを下った先に「長崎キリシタン殉教碑」がある。途中、雑草や雑木の枝葉の生長が著しく、初日のキクの墓ほどではないが、突然顔に張り付く蜘蛛の巣には往生した。
 逆三角形をした大理石の碑には、正面にマタイ福音書5章10節「義のため迫害される人は幸いである」の聖句が彫られている。この碑は、金沢教会が創立80周年記念事業の一環として建てたのだそうだ。茂る緑に抱かれてぽっかりと空いたこの小さな空間で、碑を眺めつつ、しばしからだを休めた。
 さて、次に向かうのは「湯座屋跡」だが、ここと次の「奥のトキエ」とは、金沢教会の冊子の説明を読まなければ、まずたどり着けない。史跡としての何か目印があるでもないので、人に訊いたところで分かるわけがない。しかし、冊子の、歩きながら取ったメモのような詳細な案内のおかげで、ほぼ迷うことなく到達し、場所を特定することができた。ここにその本文を引用したい誘惑が強いのだが、教会の労作に敬意を表する意味で、あえてそれをしないでおく。
 「湯座屋跡」は、望湖台から金沢ユースホステル方面に進み、ユースホステルを通り過ぎた後に左折、坂道を下った先にある。興川貞次郎紀功の碑なるものが建っているが、その左側の石が積まれている場所がそうであるとのことだ。第一陣として金沢に到着した戸主たちの家族、400名以上が収容された場所である。浴場の建物で、収容人数からも想像されるとおり、相当大きなものであったようだ。
 もと来た道(卯辰山公園線)に戻り、鈴見台方面に向けて前進すると、直進が鈴見台、左折が御所・東長江となる三叉路に出る。金沢教会作成の冊子によると、その三叉路の左側の谷が「あざみ谷」と呼ばれる一帯で、「奥のトキエ」は、この谷底の一角にあったのだそうだ。「奥のトキエ」とは「二重柵をめぐらした十六間に四間の牢獄」(前出・三俣)のことで、織屋や湯座屋に収容されていた信徒が呼び出され、厳しく改宗を迫られた場所である。「随分雪も降っている。寒さは限りがない。冷たい板の間に一枚の筵を敷いたばかり」と「旅の話」にはあるが、信徒たちは、さらに食事もごくわずかしか与えられなかった。まさに拷問以外の何ものでもない。
 現在の谷底は、雑木林と大きな葉を揺らすツタ状の草で覆われている。今ここで冬の景色を、まして明治の初めのそれを想像することは難しい。ただ谷底をぼんやり見つめながら、しばしたたずみ風に吹かれた。

  兼六園まで徒歩で戻り、タクシープールでドライバーに声を掛けた。傳燈寺という寺を訪れたい旨告げると、さまざまな地図を広げて調べてくれたのだが、分からないようだ。「伝燈寺町というところにあるそうなんですが」というと、後ろに並んでいる他のドライバーにも訊いてくれた。しかしだれも知らない。すると、一緒に話を聞いてくれていたみやげ物店の店主がいったん店に戻り、「分かった、分かった」といいながら道路地図を持って戻ってきて、ここだよと指し示してくれた。卯辰山の北東、県道210号線沿いにある。
  傳燈寺については、わたしは何も資料を持っていなかった。ただ名古屋教区のwebサイトに記されている「キリシタンであった加賀藩家老津田玄蕃の父、津田正勝の位牌や墓塔と伝えられている五輪塔がある。本堂裏山に、十字架の形をした洞窟があり、地元では『弁天穴』と呼び、信仰の場所として崇められている」という解説を読んでいただけである。津田玄蕃は兼六園にその立派な邸が残っている、1万石という大変な高禄を得ていた藩の重臣であるが、その父となってしまうと、寡聞にして何も知らない。しかし、ここにある弁天穴なるものに興味が湧いた。そこで、旅の最後にここを訪れてみようと考えたわけである。
  田畑の中を通る細い県道を走り、15分ほどで寺の石段下に着いた。ドライバーは気を利かせてくれ、脇の細道を上り本堂前まで車を進めてくれた。

傳燈寺

傳燈寺

小さく質素な寺である。庭先を見回してみても、五輪塔など見当たらない。右手の庫裏の玄関で声をかけてみたが返事はない。しかたがないので、とりあえず裏に回り、ドライバーと一緒に洞窟があるか捜してみた。
  裏山は雑木の藪に覆われている。山からの湧水が細いパイプで引かれ、小さな水音をたてている。草を掻き分けて進むと、またしても蜘蛛の巣である。今回、よっぽど縁があるらしい。これと格闘しているとドライバーが「ここに穴があるよ」と声を上げた。彼が示す先には、たしかに洞窟のようなものがある。戦時中の防空壕跡などとは明らかに違う。しかし「十字架の形」というのは確認できない。しゃがめば何とか中に入れそうな大きさ、一瞬悩んだが、さすがにそこまでの決心はできなかった。
  結局、何も得ることがないような形で旅の幕切れとなった。しかし、それはそれでよい。訪れたこと、そのこと自体に意味はある。
  金沢駅へと戻るタクシーの中で、ドライバーとメジャーリーグ・ヤンキース、松井秀喜の話をした。彼は70歳はとうに過ぎているであろうが、日々の松井の活躍について、細かなことまで実に詳しい。そういえば昨夜入った居酒屋でも、地元の人たちの話題は何といっても松井であった。まさに郷土が生んだスーパースター、英雄である。
  列聖列福運動、キリシタン史跡の保存・管理、高山右近顕彰、不謹慎かもしれないが、頭の中でその隣に松井秀喜を並べてみる。何かが見えてきそうな気がする。しかし、靄は簡単に晴れそうにはない。
(奴田原智明)

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