教皇ベネディクト十六世の190回目の一般謁見演説 クリュニー修道院長、聖オド

9月2日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の190回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第 […]


9月2日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の190回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第11回として、「クリュニー修道院長、聖オド」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
講話の後、教皇は、ポーランド語でのあいさつの中で、次のように述べました。
「ポーランドからの巡礼者の皆様に心からごあいさつ申し上げます。昨日(9月1日)、第二次世界大戦開戦70周年が記念されました。さまざまな人間的悲劇と戦争の愚かしさは諸国民の記憶の中に残されています。神に願いたいと思います。ゆるしと平和と和解の精神が人類の心に行き渡りますように。現代のヨーロッパと世界は一致の精神を必要としています。この一致の精神を、キリストとその福音の上に、愛と真理の基盤の上に築こうではありませんか。ここにおられる皆様と、平和の雰囲気をつくることに貢献するすべてのかたがたに心から祝福を送ります」。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  長らくの中断の後に、中世の東方・西方教会の偉大な著作家の紹介を再開したいと思います。わたしたちは、これらの人々の生涯と著作のうちに、キリスト者であるとはいかなることかを鏡に映すように見いだすからです。今日はクリュニーの修道院長聖オド(Odo Cluniacensis 878/879-942年)という輝かしい人物を取り上げます。オドは、ヨーロッパに聖ベネディクトゥス(Benedictus de Nursia 480頃-547/560年頃)の『戒律』(Regula sancti Benedicti)から霊感を受けた生活と霊性を驚異的に広めた中世修道制の中に位置づけられます。この時代、修道院は驚くべきしかたで生まれ、増加しました。これらの修道院はヨーロッパ大陸に分院を作りながら、キリスト教の精神と感覚を大いに広めました。聖オドは特にわたしたちをクリュニー修道院に導いてくれます。クリュニー修道院は中世においてもっとも名高く有名な修道院の一つです。クリュニー修道院は現代でもその壮麗な遺構によって、禁欲生活と勉学と、特に威厳と美に包まれた典礼への深い献身に基づく過去の栄光の痕跡を示しています。
  オドはクリュニー修道院の第二代院長です。彼は880年頃、フランスのメーヌとトゥーレーヌの境に生まれました。彼は父によってトゥールの司教聖マルティヌス(Martinus Turonensis 336頃〔または316/317〕-397年)にささげられました。後にオドは聖マルティヌスの恵み深い影と記憶のもとに全生涯を送り、最後はマルティヌスの墓のそばで生涯を終えました。修道生活を送る決断に先立って、彼は特別な恵みの時を体験しました。オドはこの体験を、後にオドの伝記を書いた、修道士のイタリアのヨハネス(Johannes Italus Cluniacensis)に語っています。オドはまだ青年だった16歳のとき、降誕祭の前夜、おとめであるかたへの次の祈りが自然に口から出るのを感じました。「あわれみ深い母であるわが聖母、この夜、救い主を産んだかた、わたしのために祈ってください。ああ、もっともいつくしみ深いかた。あなたの栄光ある唯一の出産がわたしの逃れ場となりますように」(『聖オド伝』:Vita sancti Odonis I, 9, PL 133, 747)。青年オドがおとめであるかたに呼びかけた「あわれみの母」という名は、後にオドがマリアに呼びかける際に常に用いた呼び名です。オドはマリアを「世の唯一の救い」とも呼びます。「このかたのおかげで楽園の扉がわたしたちに開かれました」(『マグダラの聖マリアをたたえる説教』:In veneratione S. Mariae Magdalenae, PL 133, 721)。その頃からオドは聖ベネディクトゥスの『戒律』と出会い、その一部を守り始めました。「まだ修道士ではなかったが、修道士の軽いくびきを担い始めた」(同:ibid. I, 14, PL 133, 50)のです。ある説教の中で、オドはベネディクトゥスを「地上の生の暗闇の時を照らすともしび」(『修道院長聖ベネディクトゥスについての説教』:De sancto Benedicto abbate, PL 133, 725)と呼び、ベネディクトゥスは「霊的規律の師」(同:ibid., PL 133, 727)だといっています。オドは心から述べます。キリスト教の信心はベネディクトゥスを「深い甘美さをもって思い起こします」。神がこの人を「聖なる教会のもっとも気高い選ばれた人々の一人に」(同:ibid., PL 133, 722)上げたことを知っているからです。
  ベネディクトゥスの理想に心を惹かれたオドは、トゥールを離れて修道士としてボームのベネディクト修道院に入りました。後にクリュニー修道院に移り、927年にその修道院長になりました。オドはこの霊的生活の中心地から、ヨーロッパ大陸の諸修道院に大きな影響を及ぼすことができました。オドの指導と改革からイタリアの修道院も益を得ることができました。サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ修道院もその一つです。オドは一度ならずローマを訪れたばかりか、スビアコ、モンテカッシーノ、サレルノにも赴きました。オドは実にローマで、942年夏、病にかかりました。死が近いことを感じた彼は、力をふりしぼって自らのトゥールの聖マルティヌスのもとに戻り、このトゥールで、聖マルティヌスの八日間の祈りが行われていた942年11月18日に亡くなりました。伝記作者はオドの「忍耐の徳」を強調するために、オドの他の美徳の長いリストを示します。すなわち、世へのさげすみ、人々への熱意、教会の平和のための努力です。修道院長オドは、王と諸侯の和解、おきての遵守、貧しい人々への気遣い、若者の矯正、高齢者の尊重を深く願いました(『聖オド伝』:Vita sancti Odonis I, 17, PL 133, 49参照)。オドは自分の住む修室を好みました。そこで彼は「すべての人の目から離れ、神を喜ばすことだけに専念できた」(同:ibid. I, 14, PL 133, 49)からです。しかし彼は、「この世があまりに悲惨であることを悲しみながら」ことばと模範による奉仕を「豊かな泉」のように行い続けました(同:ibid. I, 17, PL 133, 51)。伝記作者はいいます。この一人の修道士のうちに、他の修道院にばらばらに存在するさまざまな美徳がまとめて見いだされました。「イエスはそのいつくしみによって修道院のさまざまな庭に行き、小さな場所に楽園を作りました。それは、ご自分の泉から信者の心が流れ出すためです」(同:ibid. I, 14, PL 133, 49)。
  マグダラのマリアをたたえる説教のある箇所で、クリュニー修道院長オドは、自分が修道生活をどのように考えているかを示します。「主の足もとに座り、注意深い心で主のことばに耳を傾けるマリアは、観想生活の甘美さを表す象徴です。観想生活の味わいは、味わえば味わうほど、目に見えるものや世の騒がしい思い煩いから離脱するように魂を誘います」(『マグダラの聖マリアをたたえる説教』:In veneratione S. Mariae Magdalenae, PL 133, 717)。この考えをオドは別の著作の中で確認し、展開します。そこに示されるのは、次のものです。内面生活への愛。世を、そこから脱け出るべき、はかなく不安定なものと見る思想。不安の原因であることが明らかなものごとからの離脱を目指す絶えざる傾向。さまざまな種類の人の中に悪が存在することについての鋭い感覚。そして、終わりの日への深い望みです。このような世の見方はわたしたちの見方とはきわめてかけ離れているように思われるかもしれません。しかし、オドの思想は、世のはかなさを目の当たりにしながら、他者へと、すなわち隣人への愛へと開かれた内的生活を大事にします。まさにそこから、この思想は生活を造り変え、世を神の光へと開くのです。
  特に注目すべきなのは、キリストのからだと血への「信心」です。オドは多くの人がこの信心をなおざりにしているのを目にし、これを強く非難しつつ、確信をもってこの信心を深めました。実際、オドは、パンとぶどう酒の「実体」変化により、聖体の両形態のもとに主のからだと血が現実に現存することを固く信じました。オドはいいます。「万物の造り主である神は、パンを取っていわれました。これはわたしのからだである。わたしは世のためにこれをささげます。また神は、ぶどう酒を渡して、これはわたしの血であるといわれました」。それゆえ、「変化が造り主の命令によって起こるのは自然の法です」。したがって「自然はただちに普通の状態を変えます。疑いなく、パンは肉となり、ぶどう酒は血となるのです」。主の命令によって「実体は変化します」(『オクパティオ』:Odonis Abbatis Cluniacensis Occupatio, ed. A. Swoboda, Lipsiae 1900, p. 121)。修道院長オドはいいます。「世の救いのすべてが含まれる、この主のからだの至聖なる神秘」(『講話集』:Collationes XXVIII, PL 133, 572)は、残念ながらおろそかなしかたで祝われています。オドはいいます。「ふさわしくないしかたで祭壇に近づく司祭は、パン、すなわちキリストのからだを汚します」(同:ibid., PL 133, 572-573)。霊的にキリストと一致している者だけが、ふさわしくキリストの聖体のからだにあずかることができます。その逆の場合、キリストのからだを食べ、その血を飲むことは、益ではなく、裁きとなります(同:ibid. XXX, PL 133, 575参照)。これらすべてのことは、新たな力をもって、深く、主の現存の真理を信じるようわたしたちを招きます。造り主はわたしたちのただ中に現存して、わたしたちの手に身をゆだね、パンとぶどう酒を変えられるようにわたしたちを造り変えます。このようにして造り主は世を造り変えるのです。
  聖オドは、修道士にとっても、当時の信者にとっても、まことの霊的指導者でした。社会の中で「巨大な悪徳」が広がっていたとき、オドがはっきりと示した治療薬は、謙遜と、禁欲と、はかないものごとからの離脱と、永遠のことがらとの一致に基づく、徹底的な生活の変革でした(『講話集』:Collationes XXX, PL 133, 613参照)。当時の状況に関して現実的な診断を下したとはいえ、オドは悲観主義には陥りませんでした。オドははっきりといいます。「わたしたちは、回心を望む人を絶望に陥れるためにこういうのではありません。神のあわれみはいつでも与えられます。それはわたしたちの回心の時を待っておられます」(同:ibid., PL 133, 563)。オドは大声でいいます。「ああ、言い尽くしえない、神のいつくしみの心よ。神は罪を裁くにもかかわらず、罪人を守られる」(同:ibid., PL 133, 592)。この確信に支えられながら、クリュニーの修道院長オドは、しばしば救い主キリストのあわれみを観想し続けました。オドはキリストを意味深くも「人間を愛するかた(amator hominum Christus)」と呼びました(同:ibid. LIII, PL 133, 637)。オドはいいます。イエスはわたしたちに帰せられるべき罰をご自分に負われます。それは、こうしてご自分が造り、愛しておられる被造物を救うためです(同:ibid., PL 133, 638参照)。
  心からの深いいつくしみという、聖なる修道院長の特徴がここに示されます。それは、初めはその改革者としての厳格な禁欲生活のもとにほとんど隠れていたものです。オドは厳格でしたが、何よりもいつくしみ深い人、大きないつくしみの人でした。このいつくしみは、神のいつくしみに触れることから生まれました。彼と同時代の人がいうとおり、オドは、自らを満たしていた喜びを自分の周りに広めました。伝記作者は、人間の口から「これほど甘美なことば」(同:ibid. I, 17, PL 133, 31)が発せられるのをいまだかつて聞いたことがないと証言しています。伝記作者は思い起こしていいます。オドはいつも道で出会った子どもを典礼に招き、その後、小さなおみやげを渡しました。伝記作者は続けていいます。「彼のことばは喜びで満たされていた。・・・・彼の喜びはわたしたちの心に深い喜びを与えた」(同:ibid. II, 5, PL 133, 63)。このように、中世の修道院長オドは、厳格であると同時に優しい人でした。彼は熱心な改革者であり、はっきりした行動をもって、修道士たちと当時の信徒のうちに、キリスト教的完徳の道をたゆまずに歩もうとする決意を育てました。
  願いたいと思います。オドのいつくしみが、信仰から発し、禁欲と世の悪徳の拒絶と結ばれた喜びが、わたしたちの心に触れますように。こうしてわたしたちも、神のいつくしみから湧き出る喜びの泉を見いだすことができますように。 

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