教皇ベネディクト十六世の191回目の一般謁見演説 修道士聖ペトルス・ダミアニ

9月9日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の191回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第12回として、「修道士聖ペトルス・ダミアニ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  最近の水曜日の講話の中で、起源から始めて、教会生活における幾人かの偉大な人物についてお話ししています。今日は11世紀のもっとも重要な人の一人である聖ペトルス・ダミアニ(Petrus Damiani 1007-1072年)を考察したいと思います。聖ペトルス・ダミアニは修道士で、独住生活の愛好者であると同時に、恐れを知らない教会人として、当時の諸教皇が始めた改革事業に自らかかわりました。ペトルス・ダミアニは1007年にラヴェンナで、高貴ではあっても貧しい家庭に生まれました。両親をともに失って孤児となった彼は、幼年期を貧困と苦しみのうちに過ごしました。ただし、姉のロセリンダ(Roselinda)が母親代わりとなり、兄のダミアヌス(Damianus)が彼を養子としました。このため彼は後に「ペトルス・ダミアニ(ダミアヌスのペトルス)」と呼ばれました。ダミアニは教育を初めファエンツァで、次いでパルマで受けました。彼はパルマですでに25歳で教えています。彼は法律の分野での高い学識に加えて、優れた文章術(ars scribendi)を身に着けました。そして、偉大なラテン文学についての知識によって、「当時のもっとも優れたラテン文学者の一人であるとともに、ラテン中世におけるもっとも偉大な著作家の一人」(J. Leclercq, Saint Pierre Damien, ermite et homme d’Église, Roma 1960, p. 172)となりました。
  ペトルス・ダミアニは、書簡から説教、聖人伝から祈り、詩から諷刺詩に至るまでさまざまな文学ジャンルで際立っていました。彼はその美に対する感受性によって世界の詩的観想へと導かれました。ペトルス・ダミアニは、宇宙はその意味を汲み尽くしえない「たとえ」であり、象徴の広がりだと考えました。これらの象徴から、内面生活と神的・超自然的現実を解釈することが可能になります。このようなものの見方により、1034年頃、神の絶対性の観想に促されて、彼は次第に世とそのはかないことがらから離れ、フォンテ・アヴェラーナ修道院に隠棲しました。フォンテ・アヴェラーナ修道院は数十年前に創立されたばかりでしたが、すでにその禁欲生活によって有名だったからです。彼は修道士の教育のために、創立者であるラヴェンナの聖ロムアルドゥス(Romualdus 十世紀中葉-1027年)の『伝記』(Vita beati Romualdi)を著すとともに、霊性を深めようと努め、隠修修道制の理想を解説しました。
  ここで特徴的なことを強調しなければなりません。フォンテ・アヴェラーナの隠修修道院は聖なる十字架に奉献されていました。そして十字架というキリスト教の神秘はペトルス・ダミアニの心を何よりもとらえました。彼はいいます。「キリストの十字架を愛さない人は、キリストを愛することがありません」(『説教18』:Sermo XVIII, 11, p. 117)。彼は自らのことをこう呼びます。「キリストの十字架のしもべの中のしもべペトルス(Petrus crucis Christi servorum famulus)」(『書簡9』:Epistula 9, 1)。ペトルス・ダミアニはそのもっとも美しい祈りを十字架にささげます。この祈りの中で彼は十字架の神秘についての幻を示します。十字架の神秘は宇宙的な側面をもっています。なぜなら十字架は救いの歴史の全体を包み込むからです。彼は叫んでいいます。「ああ聖なる十字架よ。太祖の信仰と、預言者の預言と、使徒の法廷と、殉教者の勝利の軍勢と、すべての聖人の群れは、あなたをあがめ、たたえ、賛美します」(『説教48』:Sermo XLVIII, 14, p. 304)。親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖ペトルス・ダミアニの模範に促されて、わたしたちも、わたしたちに救いをもたらしてくださった、人間に対する神の愛の最高のわざである十字架を仰ぎ見ることができますように。偉大な修道士ペトルス・ダミアニは隠修生活の発展のために『修道規則』(Regula)も作りました。この『修道規則』の中で彼は「隠修修道院の厳格さ」をはっきりと強調します。修道士は、修道院の沈黙の中で、昼も夜も祈りの生活を送り、長く厳しい断食を行うよう招かれます。修道士は、寛大な兄弟愛と、長上に対する常に素早く素直な従順によって自らを鍛えなければなりません。ペトルス・ダミアニは、勉学と日々の聖書の黙想を通じて、神のことばの神秘的な意味を見いだし、神のことばを霊的生活の糧としました。その意味で彼は隠修修道院の修室を「神が人と語るための応接室」と呼びました。彼にとって隠修生活はキリスト教生活の頂点であり、「生の諸段階の頂」でした。なぜなら、もはや世と自己とのきずなから解放された修道士は、「聖霊の手付金を与えられ、魂が天の花婿と幸いにも結びつけられる」(『書簡18』:Epistula 18, 17.『書簡28』:Epistula 28, 43ss.参照)からです。たとえわたしたちが修道士でなくても、これは現代のわたしたちにとっても重要です。神の声に耳を傾け、神がわたしたちに語りかけるためのいわば「談話室」を見いだすために、わたしたちのうちに沈黙がなければなりません。祈りと黙想のうちに神のことばを学ぶことが、いのちへの道です。
  聖ペトルス・ダミアニは基本的に祈りと黙想と観想の人でしたが、優れた神学者でもありました。彼はさまざまな教理的テーマの考察によって、生活にとって重要な意味をもつ結論へと導かれました。こうして、たとえば彼は明確で生き生きとしたしかたで三位一体の教理を解説しました。その際彼は、聖書と教父のテキストの導きに従いながら、3つの基本的な用語を用いました。これらの用語は後に西方の哲学にとっても決定的に重要なものとなりました。すなわち、発出(processio)、関係(relatio)、ペルソナ(persona)です(『小品38』:Opuscula XXXVIII, PL 145, 633-642; 『小品2』および『小品3』:ibid., 41ss.; 58ss.参照)。しかし、神秘の神学的分析は、神の内的生命と、三位の神的ペルソナの言い表しえない愛の対話の観想へと彼を導きました。そのため彼は、共同生活のために、また、このテーマに関して分裂していた西方教会と東方教会のキリスト者の関係のために、修徳的結論を引き出しました。キリストというかたの黙想も、重要な実践的結果をもたらします。なぜなら、聖書の全体はキリストを中心とするからです。聖ペトルス・ダミアニは述べます。「ユダヤ人も、聖書のことばを通じて、いわばキリストを肩に担いできました」(『説教46』:Sermo XLVI, 15)。ダミアニは続けていいます。それゆえキリストは修道生活の中心とならなければなりません。「キリストのことばをわたしたちの言語で聞き、キリストをわたしたちの生活の中に見いだし、キリストをわたしたちの心の中で感じなければなりません」(『説教8』:Sermo VIII, 5)。キリストとの深い一致は、修道士だけでなく洗礼を受けたすべての人に求められます。わたしたちはここにわたしたちに対する強い呼びかけをも見いだします。活動と、さまざまな問題と、日々の思い煩いに完全に心を奪われてはなりません。そして、イエスが本当に自分の人生の中心とならなければならないことを忘れてはなりません。
  キリストとの交わりはキリスト者の間の愛の一致を作り出します。教会論に関する独創的な論考である『書簡28』の中で、ペトルス・ダミアニは、交わりとしての教会に関する深い神学を展開します。彼は述べます。「キリストの教会は愛のきずなによって一つに結ばれています。こうして教会は、多くの部分において一つであるのと同じように、全体が一つひとつの部分において神秘的なしかたで一つです。そのため、普遍教会の全体が、正当にも単数形でキリストの唯一の花嫁と呼ばれます。また、選ばれた魂はおのおの、秘跡の神秘によって、完全な意味で教会とみなされます」。このことは重要です。普遍教会の全体が一つであるだけではありません。わたしたち一人ひとりのうちに教会が全体として現存しなければならないのです。だから、部分が行う奉仕が「普遍性の表現」となるのです(『書簡28』:Epistula 28, 9-23)。しかしながら、ペトルス・ダミアニが示した「聖なる教会」の理想的な姿は――彼自身がよく自覚していたとおり――当時の現実とは合致しませんでした。そのため彼は恐れることなく、修道院と聖職者の中に存在する腐敗を非難しました。こうした腐敗は、何よりも世俗の当局者によって教会職への任命が行われたことによるものでした。多くの司教や修道院長は、人々の魂の司牧者であるよりも、臣下の統治者として振舞っていました。彼らの道徳的生活が理想とかけ離れたものであることもしばしばでした。そのため、1057年、ペトルス・ダミアニは、深い苦しみと悲しみをもって修道院を去り、しぶしぶオスティアの枢機卿司教への任命を受け入れました。こうして彼は完全な意味で、諸教皇と協力しながら、困難な教会改革事業を開始しました。彼は観想では不十分だと考えました。そして、教会刷新事業の支援のために、観想の美を断念しなければならなかったのです。こうして彼はすばらしい隠修生活を断念し、勇気をもって多くの旅と宣教活動を始めました。
  修道生活への愛のゆえに、彼は10年後の1067年、オスティア教区を去って、フォンテ・アヴェラーナに帰る許しを得ました。しかし、望んでいた静穏な生活は長続きしませんでした。2年後、彼はフランクフルトに派遣されました。それは、ハインリヒ四世(Heinrich IV 神聖ローマ皇帝在位1056-1106年)の皇后ベルタ(Bertha 1087年没)との離婚を回避させるためでした。さらに2年後の1071年、彼は修道院聖堂の聖別のためにモンテカッシーノに赴きました。そして1072年初頭にはラヴェンナに赴きました。それは、対立教皇を支持したためにラヴェンナにおける職務の禁止制裁を受けた教区大司教との和解を回復するためでした。隠修修道院に戻る旅の途中で、ダミアニは急な病にかかり、ファエンツァのサンタ・マリア・ヴェッキア・フオリ・ポルタ・ベネディクト修道院にとどまらなければなりませんでした。彼はこの修道院で、1072年2月22日から23日にかけての晩に亡くなります。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。主が教会生活の中で聖ペトルス・ダミアニのような活力に満ち、才能豊かな人物を出現させてくださったのは、大きな恵みです。そして、フォンテ・アヴェラーナの隠修士である彼が書いたような、鋭く生き生きとした神学・霊性の著作は滅多に見いだせません。彼は徹底した修道士であり、現代から見ると極端にも思われる禁欲生活を送りました。しかし、このようにして彼は、修道生活を、神を優先することの雄弁なあかしとし、また、あらゆる悪との妥協から解放されて、聖性への道を歩むようにとのすべての人に対する招きとしたのです。ダミアニは、だれもが認める一貫した生活と、きわめて簡素な生活を送りながら、当時の教会の改革のために自らをささげ尽くしました。彼は自分の精神と肉体の力のすべてをキリストと教会にささげました。しかし彼は、自らしばしば述べたように、常に「修道士たちのもっとも卑しいしもべペトルス(Petrus ultimus monachorum servus)」であり続けたのです。

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