教皇ベネディクト十六世の192回目の一般謁見演説 新神学者シメオン

9月16日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の192回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第13回として、「新神学者シメオン」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日は東方教会の修道士、新神学者シメオン(Symeon 949-1022年)を考察します。シメオンの著作は、特に神との神秘的一致の体験に関して、東方教会の神学と霊性に著しい影響を及ぼしました。新神学者シメオンは949年、パフラゴニア(小アジア地方)のガラティアで地方の貴族の家に生まれました。若くしてコンスタンティノポリスに移って勉学を始め、帝国の宮廷に入りました。しかし彼は、自分の前に開かれた官吏の職にあまり魅力を感じませんでした。そこで彼は、自らが体験した内的な照らしの影響によって、疑いと混乱の時期に置かれた自分を方向づけ、神との一致への道を進む助けとなる人を探しました。シメオンはこのような霊的指導者として、コンスタンティノポリスのストゥディオス修道院の素朴な修道士である敬虔者シメオン(Symeon Eulabes 917-986/987年)を見いだしました。敬虔者シメオンは彼に修道士マルコス(Markos 430年以降没)の論考『霊的な掟』(De lege spirituali)を読むようにと与えました。新神学者シメオンはこの著作の中に自分に深い印象を与える教えを見いだしました。著作にはこう書かれていました。「霊的ないやしを求めるなら、あなたの良心に注意を払いなさい。良心があなたに語ることをすべて行いなさい。そうすれば、あなたにとって有益なことを見いだすでしょう」。新神学者シメオンはいいます。「このときからわたしは、自分の良心が何かとがめることがないかを尋ねることなしに決して床に着きませんでした」。
  シメオンはストゥディオス修道院に入りました。しかしそこで、彼の神秘体験と霊的指導者に対する特別に敬虔な態度が問題を引き起こしました。彼は同じコンスタンティノポリスの小さな聖ママス修道院に移り、3年後にこの修道院の修道院長(ヘーグメノス)となりました。シメオンはここでキリストとの霊的一致への深い探求を行い、そのために大きな名声を得ました。伝統的に「神学者」という称号は福音書記者ヨハネとナジアンゾスのグレゴリオス(Gregorios Nazianzenos 325/330-390年頃)の二人に限って用いられてきたにもかかわらず、シメオンに「新神学者」という称号が与えられたことはきわめて興味深いことです。シメオンは誤解を受け、追放されましたが、コンスタンティノポリスの総主教セルギオス二世(Sergios II 在位1001-1019年)により復権されました。
  新神学者シメオンは生涯の最後の時期を聖マリナ修道院で過ごしました。彼はここで著作の大部分を執筆し、教えと奇跡によっていっそう有名になりました。彼は1022年3月12日に亡くなりました。
  シメオンのもっとも有名な弟子で、シメオンの著作を集めて筆写したニケタス・ステタトス(Niketas Stethatos 1005頃-1090年頃)は、シメオンの伝記を付した、没後刊行の著作集を編集しました。シメオンの著作は9巻から成ります。9巻は、『100の神学的・覚知的・実践的主要則』、修道士のための3巻の『教理講話(カテーケーシス)』、2巻の『神学的・倫理学的論考』、そして1巻の『神の愛への讃歌』に分けられます。さらに多数の『書簡集』も忘れてはなりません。これらの著作は皆、今日に至るまで東方教会の修道的伝統の中で重要な位置を占めてきました。
  シメオンは、洗礼を受けた者のうちに聖霊がおられることと、この霊的現実を彼らが自覚すべきことに考察を集中します。シメオンは強調していいます。キリスト教的生活とは、神との深い個人的な交わりです。神の恵みは信じる者の心を照らし、信じる者を主の神秘的な直観へと導きます。そこから新神学者シメオンは強調します。神についての真の認識は、書物からではなく、霊的体験から、すなわち霊的生活からもたらされます。神についての認識は内的な清めの道から生まれます。内的な清めの道は、信仰と愛の力による、心の回心から始まり、深い悔い改めと自分の罪に対する心からの悲しみを経て、キリストとの一致へと至ります。キリストは喜びと平和の源であり、キリストの現存はわたしたちを光で満たします。シメオンにとって神の恵みの体験は一部の神秘家のために与えられる特別なたまものではなく、洗礼が真面目に信仰を実践するすべての信者の生活にもたらす結果です。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。これは深く考察すべき点です。この聖なる東方教会の修道士はすべての人に呼びかけます。霊的生活に注意を払いなさい。神がわたしたちのうちに隠れた形でおられることに注意を払いなさい。混じり気のない良心と、清めと、心の回心に注意を払いなさい。そうすれば、聖霊がわたしたちのうちにいて、わたしたちを導いてくださるようになります。実際、わたしたちが自分の身体的・人間的・知的成長に気を配るのは正しいことです。そうであれば、内的な成長を軽んじないことはいっそう重要です。内的な成長とは、神についての真の認識、まことの認識において成長することです。わたしたちはこの認識を、書物からだけではなく、内面から、神との交わりから学びます。それは、あらゆるとき、あらゆる状況の中で神の助けを感じとるためです。シメオンが自らの神秘体験を語りながら述べているのは次のことです。シメオンが修道院に入る前のまだ若いとき、ある晩、家の中で長い祈りをささげ、誘惑と戦うための神の助けを願い求めていると、部屋が光に満たされるのを目にしました。後に修道院に入ると、彼は霊的書物を学ぶために手渡されました。けれども、書物を読んでも、自分が求めている平安は得られませんでした。シメオンはいいます。わたしは自分が翼のない貧しい小鳥であるかのように感じました。シメオンはこのような状態を謙遜に受け入れ、逆らいませんでした。すると、再び光の幻視をたびたび体験し始めるようになりました。シメオンはこれらの幻視が真正なものであることを確かめることを望んで、キリストに直接問いかけました。「主よ、本当にあなたご自身がここにおられるのですか」。シメオンは心のうちに「そうだ」というこたえを聞いて、深く慰められました。続いて彼はいいます。「主よ。このとき初めてあなたは、放蕩息子であるわたしを、み声を聞くにふさわしい者とみなしてくださいました」。けれども、この啓示はシメオンに完全な平安はもたらしませんでした。シメオンは、この体験は幻想にすぎないのではないかと自らに問いかけました。ついにある日、シメオンの神秘体験にとって根本的に重要なことが起こりました。彼は自分が「兄弟を愛する貧しい者(プトーコス・フィラデルフォス)」であると感じ始めました。彼は自分の周りに、自分に危害を加え、悪事を働こうとする多くの敵がいるのを目にしました。しかし、にもかかわらず彼は自らのうちに、彼らを愛したいという深い促しを感じました。このことをどのように説明すればよいでしょうか。このような愛が彼自身から生じえず、別の源から湧き出なければならないことは明らかです。シメオンは、それが自分のうちにおられるキリストから生まれることを悟りました。こうしてすべてが彼にとって明らかになりました。自分の中にある愛の源は、自分とともにおられるキリストである。自分個人の思いを超えた愛が自分の中にあることは、愛の源が自分の中にあることを示している。このことの確かな証拠をシメオンは見いだしました。ここからわたしたちはこういうことができます。まず、愛に確実に心を開かなければ、キリストはわたしたちのうちに入ってこられません。しかし、愛の源となり、わたしたちを造り変えてくださるのはキリストです。親愛なる友人の皆様。この体験は現代のわたしたちにとっても依然としてきわめて重要です。それは、わたしたちが本当に神の近くにいるか、神がわたしたちのうちに存在し、生きておられるかをわたしたちに示す基準を見いだすためです。もしわたしたちが祈り、神のことばに耳を傾け、心を開くことによって神と一つに結ばれ続けるなら、神の愛はわたしたちのうちで成長します。神の愛だけが、わたしたちの心をほかの人に開かせます。彼らの必要とするものに気づかせます。すべての人を兄弟姉妹と考えさせます。そして、憎しみには愛を、侮辱にはゆるしをもってこたえるように招くのです。
  新神学者シメオンの姿を考察することによって、その霊性のもう一つの要素を見いだすことができます。シメオンが示し、自ら歩んだ修徳的生活の道において、修道士は、内的体験に強い関心と注意を向けることで、修道院の霊的師父を根本的に重要とみなすようになりました。すでに述べたように、若きシメオン自身、霊的指導者を見いだし、大いに助けられました。この霊的指導者はシメオンからきわめて深く尊敬されたので、死後、公に崇敬されるようになりました。わたしはこういいたいと思います。よい霊的指導者の助言を求めるようにという招きは、司祭、奉献生活者、信徒を含めたすべての人にとって、特に若者にとって、現代においても有効です。よい霊的指導者は、各人が自分自身を深く知るために同伴し、主との一致へと導き、ますます福音に従った生活を送ることができるようにするからです。わたしたちは主に向かって歩むために常に指導と対話を必要とします。指導と対話を、自分の反省だけで行うことはできません。これが、わたしたちの信仰の教会的な性格と、このような指導者を見いだすことの意味でもあります。
  そこでわたしたちは終わりに、新神学者シメオンの教えと神秘体験を次のようにまとめることができます。シメオンは、絶えざる神の探求において、また、出会った困難や受けた批判においてさえも、どこまでも愛に導かれました。シメオンは次のことを自ら生き、そして自分の修道士たちに教えることができました。イエスのすべての弟子にとって根本的に重要なのは、愛において成長することです。そこからわたしたちは、キリストをいっそう深く知り、聖パウロとともにこういうことができるまでになります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)。

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