教皇ベネディクト十六世の2009年9月20日の「お告げの祈り」のことば 真の知恵

教皇ベネディクト十六世は、年間第25主日の9月20日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻 […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第25主日の9月20日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「世界に存在する多くの紛争状況から、ほとんど毎日のように、兵士と民間人双方の犠牲者に関する悲惨なニュースがもたらされます。わたしたちは決してこのことに慣れることができません。そして、それは平和と市民の共存という善を心から望む社会の中に深い非難ととまどいを引き起こします。最近、アフガニスタンで起こった、数人のイタリア人兵士を死亡させた攻撃に深い悲しみを覚えます。わたしは祈りのうちにご家族、市民、兵士の皆様と悲しみをともにすると同時に、同じ参加意識をもって他の国際支援部隊の皆様に思いを致します。これらの国際支援部隊も、最近犠牲者を出しながら、人間の共存にとってきわめて必要とされる、平和と諸制度の発展の促進のために働いておられるからです。わたしは、特に愛する市民の皆様に思いを馳せながら、これらすべてのかたがたを主のみ前で心にとめることを約束します。そして、神に祈りをささげてくださるよう皆様にお願いします。ここでわたしはあらためて、諸国家が連帯して、暴力と死の論理と戦い、正義と和解と平和を助長し、愛と相互理解から出発して諸民族の発展を支えてくださるよう促したいと思います。最近、回勅『真理に根ざした愛』(同72)で述べたとおりです」。
9月17日(木)、アフガニスタンの首都カブールの中心部で、北大西洋条約機構(NATO)主導の国際治安支援部隊(ISAF)の車列をねらった自爆テロが起こり、イタリア軍兵士6人と民間人10人が死亡、55人が負傷しました。イスラーム原理主義組織タリバンが同日、犯行声明を出しています。
続いて、教皇として13回目のイタリア国外司牧訪問となるチェコ共和国訪問を前にして、イタリア語で次のように述べました。
「今週の9月26日(土)から28日(月)まで、神が望まれるなら、チェコ共和国への司牧訪問を行う予定です。わたしは首都プラハにまいりますが、モラヴィアのブルノとスタラ・ボレスラフも訪問します。スタラ・ボレスラフはチェコの第一の守護聖人である聖ヴァーツラフ(Václav I 907-935年、ボヘミア公在位921-没年)が殉教したところです。チェコ共和国は地理的・歴史的にヨーロッパの中心に位置します。そしてこの国は、前世紀の悲劇を経験した後、ヨーロッパ大陸全体と同じように、信仰と希望の理由を再発見することを必要としています。この国を3度訪問した、わたしの愛すべき前任者であるヨハネ・パウロ二世の足跡に従って、わたしも、福音を勇気をもってあかしした過去と現在の人々に敬意を表し、すべての人が愛と真理のうちに歩むよう促すつもりです。今からわたしは、祈りをもってこの旅に同伴してくださるかたがたに感謝します。主がこの旅を祝福し、実り豊かなものとしてくださいますように」。
教皇は終わりに、これがカステル・ガンドルフォにおける今年最後の「お告げの祈り」であることに触れ、イタリア語を話す巡礼者に向けて次のように感謝のことばを述べました。
「すでに述べたとおり、わたしは来週の日曜日はチェコ共和国におり、その週のうちにバチカンに戻ります。そのため、カステル・ガンドルフォの共同体の皆様に心から『またお会いしましょう』と申し上げます。わたしは皆様をいつも祈りのうちに心にとめます。よい主日となりますよう、皆様にごあいさつ申し上げます」。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日は、いつもの主日の考察として、今日の典礼で示されたヤコブの手紙の箇所(ヤコブ3・16~4・3)を出発点として取り上げます。特に、その美しさと現代的な意味のゆえに印象的なことばを考察します。このことばは真の知恵について語ります。使徒ヤコブはこの真の知恵を偽りの知恵と対比します。偽りの知恵は「地上のもの、この世のもの、悪魔から出たもの」です。それはねたみや利己心、混乱やあらゆる悪い行いをもたらすことから分かります(ヤコブ3・16参照)。反対に、「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、さらに、温和で、優しく、従順なものです。あわれみとよい実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」(同3・17)。聖書の語法に従った、この七つの性質から、完全な真の知恵と、この知恵が生むよい結果がもたらされます。聖ヤコブは、他の性質のいわば前提となる第一の主要な性質として、「純真さ」を挙げます。「純真さ」とは、人間の魂の中でいわば神を透明に映し出す、聖性です。そして、知恵がそこから生じる神と同じように、知恵は力ずくで押しつけることを必要としません。なぜなら、知恵は真理と愛に基づく打ち勝ちえない力をもち、自明だからです。だからこそ知恵は温和で、優しく、従順なのです。不公平である必要もなければ、偽りも用いません。いつくしみに満ちて寛大であり、それがもたらす豊かな実によって示されます。
  なぜいつもこの知恵のすばらしさを仰ぎ見ようとしないのでしょうか。なぜこの神の愛の汚れのない泉から、心の知恵を引き出そうとしないのでしょうか。このような心の知恵が、偽りと利己主義のかすからわたしたちを清めてくれるのに。これはすべての人にいえることですが、何よりもまず、宗教社会と市民社会の中で、そして社会・政治的連関と国際関係の中で、平和を促進し「つむぐ」ことを使命とする人々にいえます。現代において、おそらく大衆社会に特有のある種の力学のせいもあって、しばしば真理とことばへの尊敬の欠如が見られます。それとともに、攻撃、憎しみ、復讐を求める傾向が広く認められます。聖ヤコブはいいます。「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔(ま)かれるのです」(ヤコブ3・18)。けれども、平和のわざを「行う」には、平和の人で「ある」ことが必要です。「上から出た知恵」の学びやに入ることが必要です。それは、この知恵の性質を自分のものとして、実を生み出すためです。もしすべての人が自分のいるところで、思いとことばと行いにおいて偽りと暴力を退け、他の人に対する尊重と理解と畏敬の心を注意深く深めることができるなら、たとえ日常生活のあらゆる問題を解決することはできなくても、それらの問題にもっと落ち着いて有効に対処することができると思います。
  親愛なる友人の皆様。聖書は人間生活の道徳的な側面を考察するようわたしたちを導きます。しかし聖書は、道徳そのものに先立つ現実から、すなわち、真の知恵という現実から出発します。信頼をもって心の知恵を与えてくださるよう、神に願おうではありませんか。受肉した知恵である、わたしたちの主イエス・キリストを胎内に受け入れ、生んでくださったかたの執り成しによって。知恵の座であるマリアよ、わたしたちのために祈ってください。

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