教皇ベネディクト十六世の193回目の一般謁見演説 アオスタの聖アンセルムス

9月23日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の193回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第14回として、「アオスタの聖アンセルムス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  ローマのアヴェンティーノ丘にはサンタンセルモ・ベネディクト修道院があります。大学が置かれ、ベネディクト会連合の総修道院長が居住するこの修道院は、祈りと勉学と統治を一つにまとめた場所です。この三つの活動こそが、サンタンセルモ修道院がささげられた聖人である、アオスタの聖アンセルムス(Anselmus Cantuariensis 1033/1034-1109年)の生涯を特徴づけるものです。今年は聖アンセルムスの没後900周年を記念しています。この幸いな記念の年のために特にアオスタ教区が開催する多くの行事は、この中世の思想家が関心を呼び起こし続けていることを示します。アオスタのアンセルムスは、彼がかかわった町の名から、ベックのアンセルムス、またカンタベリーのアンセルムスとしても知られています。互いに離れた、三つの違った国――イタリア、フランス、イギリス――にある場所との特別なつながりが見いだされるアンセルムスとはいかなる人だったのでしょうか。彼は深い霊的生活を送った修道士、青年の卓越した教育者、特別な考察力を備えた神学者、知恵ある統治者、そして「教会の自由(libertas Ecclesiae)」の妥協することのない擁護者でした。中世において傑出した人物の一人であるアンセルムスは、深い神秘体験によってこれらの諸特徴を調和させることができました。神秘体験はアンセルムスの思想と活動を常に導いたからです。
  聖アンセルムスは1033年(あるいは1034年初頭)、アオスタで、貴族の家庭の長男として生まれました。父は、人生の享楽にふけり、財産を浪費する粗野な人でした。これに対して、母は気高い習慣と深い宗教心を備えた女性でした(エアドメルス『聖アンセルムス伝』:Vita Anselmi, PL 159, 49参照)。この母が息子に最初の人間的・宗教的教育を行いました。後に母は息子をアオスタのベネディクト会修道院長にゆだねました。伝記作者はいいます。アンセルムスは子どものときから、いつくしみ深い神の住いは高く雪を頂いたアルプスの頂上にあると想像していました。ある晩、彼は、この神ご自身の宮殿に招かれる夢を見ました。神はしばらくの間親しく彼と語らい、ついに彼に「真っ白なパン」(同:ibid., 51)を食べるよう与えました。この夢はアンセルムスに、自分は崇高な使命を果すよう呼ばれているという確信を抱かせました。15歳のとき、アンセルムスはベネディクト会に入る許しを願いましたが、父はあらゆる権威をもってこれに反対し、重病にかかって死が近いと感じた子が修道服を最後の慰めとして願ったときも、これを聞き入れませんでした。病気が癒え、母が若くして亡くなった後、アンセルムスは道徳的な放蕩の時期を過ごしました。彼は勉学をおろそかにし、地上の情念に負け、神の呼びかけが聞こえなくなりました。アンセルムスは家に戻り、新たな経験を求めてフランスへの旅に出ました。3年後、ノルマンディに来たアンセルムスは、修道院長のパヴィアのランフランクス(Lanfrancus Cantuariensis 1010頃-1089年)の名声に魅かれてベックのベネディクト修道院に行きました。アンセルムスのその後の人生にとってそれは摂理的で決定的な出会いとなりました。実際、アンセルムスはランフランクスの指導のもとで熱心に勉学を再開し、短期間のうちに生徒として気に入られただけでなく、師の信頼をも得ました。修道生活への召命が再び目覚め、注意深い考察の後、27歳で修道会に入会し、司祭叙階を受けました。禁欲と勉学はアンセルムスに新たな世界を開き、子どものときにもっていた神との親しい関係をより高い次元で再発見させました。
  ランフランクスが1063年にカンの修道院長になると、アンセルムスは修道生活を始めてわずか3年で、ベックの副院長と修道院学校の校長に任命され、優れた教育者としての才能を表しました。アンセルムスは権威主義的な方法を好みませんでした。彼は青年を若木にたとえます。若木は、温室に閉じ込めず、「健全な」自由を与えると、よく育ちます。アンセルムスは修道生活の遵守について自分自身にも他の人にも厳しい要求を課しましたが、規律を押しつけるのではなく、説得を通じて規律に従わせようと努めました。ベック修道院の創立者のヘルルイヌス(Herluinus; Hellouin)の没後、アンセルムスは何の異論もなくその後継者に選ばれました。1079年2月のことでした。この間、多くの修道士がカンタベリーに招き寄せられました。それは、イギリス海峡の北側の兄弟たちにヨーロッパ大陸で行われている刷新をもたらすためでした。修道士たちの活動が十分に受け入れられた結果、カンの修道院長のパヴィアのランフランクスがカンタベリーの新しい大司教となりました。するとランフランクスはアンセルムスに、すこしの間自分のところに来て、修道士の教育を行い、ノルマン人の侵攻後、教会共同体が困難な状況に置かれているときに、自分を助けてくれるように願いました。アンセルムスの滞在はきわめて多くの実りを生みました。彼は共感と尊敬を得、ランフランクスの死後、カンタベリー大司教座の後継者に選ばれることになりました。正式な司教叙階を受けたのは1093年12月です。
  アンセルムスはただちに教会の自由のための精力的な戦いを始め、地上の権力に対する霊的権力の独立を勇気をもって支持しました。彼は特にウィリアム二世(William II Rufus イングランド王在位1087-1100年)やヘンリー一世(Henry I イングランド王在位1100-1135年)らの政治的権威の不当な介入から教会を守りました。そのために彼はローマ教皇のうちに励ましと支えを見いだしました。アンセルムスはローマ教皇に対して常に勇気をもって心からの忠誠を示しました。この忠誠の代償として、1103年、彼はカンタベリー大司教座から追放されるという試練も味わいました。ようやく1106年、ヘンリー一世が教会叙任権の付与に対する主張と、徴税と、教会財産の没収を放棄するに至って、アンセルムスはイングランドに戻ることができ、聖職者と民衆から歓呼のうちに迎えられました。こうしてアンセルムスの堅忍と勇気といつくしみの武具による長い戦いは幸いにも終わりました。この聖なる大司教はどこに行っても周囲に深い驚嘆の念を引き起こしました。彼は生涯の最後の時期を、何よりも聖職者の道徳教育と神学的議論の知的探求のために用いました。アンセルムスは1109年4月21日、その日ミサで朗読された福音のことばに伴われながら亡くなりました。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いをともにする・・・・ことになる」(ルカ22・28-30)。子どものとき、まさに霊的歩みの初めに見た、不思議な食事の夢がこうしてかなえられました。ご自分の食卓に着くように招いてくださったイエスが、聖アンセルムスを、彼が死ぬときに、父の永遠のみ国に受け入れてくださったのです。
  「神よ、あなたを知り、あなたを愛し、あなたに喜びを見いだせるように、わたしは祈ります。もしこの世で完全な喜びを得ることができないなら、完全にそうなる日まで、少なくとも毎日進歩がありますように」(『プロスロギオン』:Proslogion cap. 26〔古田暁訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成7 前期スコラ学』平凡社、1996年、218頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。この祈りは、スコラ神学の創始者である、この中世の偉大な聖人の神秘的な魂を理解させてくれます。キリスト教の伝統はこの聖人に「偉大な博士(doctor magnificus)」という称号を与えてきました。なぜなら、アンセルムスは神の神秘を深く理解したいという強い望みを抱いていたからです。とはいえ彼は、少なくとも地上において神を探求する道を歩み尽くすことができないことをよく自覚していました。明快さと論理的な力を備えたアンセルムスの思想が目指した目的は、常に「精神を努めて神の瞑想に傾ける」(同:ibid., proemium〔前掲古田暁訳、185頁〕)ことでした。アンセルムスははっきりといいます。神学を行おうとする者は、自分の理解にのみ頼ってはならず、むしろ同時に深い信仰体験を培わなければなりません。それゆえ、聖アンセルムスによれば、神学者の活動は三段階で発展します。第一は「信仰」です。信仰は神から無償で与えられるたまものであり、人はそれを謙遜に受け入れなければなりません。第二は「経験」です。経験とは、神のことばを自分の日々の生活の中に受肉させることです。第三はまことの「認識」です。認識は、冷たい推論からではなく、観想的な洞察から生まれます。このことに関連して、アンセルムスの有名なことばは、健全な神学的探求にとって、また信仰の真理を深めようと望むすべての人にとって、現代においてもきわめて有益です。「主よ、わたしはあなたの高みを極めることを試みる者ではありません。わたしは、わたしの理解力を決してそれと比較することもないからです。しかし、わたしの心が信じまた愛しているあなたの真理を、いくらかでも理解することを望みます。そもそもわたしは信じるために理解することは望まず、理解するために信じています」(同:ibid. 1〔前掲古田暁訳、189頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖アンセルムスの全生涯を特徴づける真理への愛と神への絶えざる渇きが、すべてのキリスト信者を促してくれますように。道であり、真理であり、いのちであるキリストとますます深く一致しようとたゆまず求めるようにと。さらに、アンセルムスの司牧活動を際立たせるとともに、彼が多くの誤解と苦しみを受け、ついには追放までされる原因となった勇気が、牧者と奉献生活者とすべての信者を励ましてくれますように。キリストの教会を愛し、そのために祈り、働き、苦しみ、決して教会を見捨てたり、裏切ったりしないようにと。聖アンセルムスが真心から子としての信心をささげた神の母であるおとめの執り成しによって、この恵みがわたしたちに与えられますように。聖アンセルムスはいいます。「マリアよ、わたしは心からあなたを愛することを欲し、あなたを口で賛美することを望みます」(『祈り』:Orationes 7〔古田暁訳、『祈りと瞑想』教文館、2007年、60頁〕参照)。

PAGE TOP