教皇ベネディクト十六世の196回目の一般謁見演説 ペトルス・ウェネラビリス

10月14日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の196回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第15回として、「ペトルス・ウェネラビリス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日の講話でご紹介したいペトルス・ウェネラビリス(Petrus Venerabilis 1092/1094-1156年)は、わたしたちを有名なクリュニー修道院と、――クリュニーの文書の中でしばしば用いられることばを用いるなら――その「華麗さ(decor)」と「輝き(nitor)」へと連れ戻します。この「華麗さ」と「輝き」は、何よりもすばらしい典礼の中でたたえられました。典礼は神へと至る特別な道だからです。しかし、ペトルスの姿は、こうした側面ばかりでなく、偉大なクリュニー修道院長たちの聖性を思い起こさせてくれます。教皇グレゴリウス七世(Gregorius VII 在位1073-1085年)は1080年にこう述べています。クリュニーには「聖人でない修道院長は一人もいなかった」。この修道院長の一人がペトルス・ウェネラビリスです。ペトルス・ウェネラビリスはある意味で前任者たちのすべての美徳を一身に集めました。もっとも、すでにペトルスの時代に、クリュニーは、シトー会のような他の新しい修道会を前にして、ある種の危機の徴候を示し始めていたのですが。ペトルスは、自分には厳しく、他人には理解のある禁欲生活の驚くべき模範です。ペトルスは1094年頃、フランスのオーヴェルニュ地方に生まれ、子どものときにソークシランジュ修道院に入りました。彼はこの修道院で修道誓願を立て、やがて副院長になりました。1122年にクリュニーの修道院長に選ばれ、死ぬまで同職にとどまりました。ペトルスは、望みどおりに、1156年の降誕祭の日に亡くなりました。ペトルスの伝記作者ロドゥルフスはいいます。「平和を愛するペトルスは、平和の日に神の栄光のうちに平和を得た」(『ペトルス・ウェネラビリス伝』:Vita Petri Venerabilis I, 17, PL 189, 28)。
  ペトルスを知る人は皆、その洗練された柔和さ、落ち着いた平衡感覚、自制、廉直、誠実さ、明晰さ、人を仲裁する特別な態度を称賛しました。ペトルスはいいます。「寛大すぎることがわたしの性格です。わたしは、人をゆるす習慣によって寛大であるように促されます。わたしは忍耐し、ゆるすことに慣れているのです」(『書簡192』:Epistola 192, in: The Letters of Peter the Venerable, Harvard University Press, 1967, p. 446)。ペトルスはまたいいます。「わたしたちは平和を憎む人とも、できればいつも平和でいたいと望みます」(『書簡100』:Epistola 100, loc. cit., p. 261)。彼は自分についてこういいます。「わたしは自分の運命に満足できない者ではありません。・・・・そのような人の心はいつも不安で疑いに満ちています。彼は、他のすべての人が休んでいるのに、自分だけが労苦していると嘆くのです」(『書簡182』:Epistola 182, p. 425)。繊細で優しい性格だったペトルスは、主への愛を、家族、特に母親と友人に対する愛情と結びつけることができました。彼は特に修道士たちとのかかわりを通じて友愛を深めました。修道士たちはいつもペトルスに信頼を置きました。自分たちが受け入れられ、理解されていると確信できたからです。伝記作者の証言によれば、「ペトルスはだれをも軽んじず、拒絶しなかった」(『ペトルス・ウェネラビリス伝』:Vita I, 3, PL 189, 19)。「彼はすべての人に優しく接していると思われた。彼は生まれながらのいつくしみにより、すべての人に心を開いた」(同:ibid. I, 1, PL 189, 17)。
 この聖なる修道院長は、現代の修道士とキリスト信者にとっても模範となるといえます。現代は急速な生活のリズムを特徴とし、不寛容と行き違いに基づく事件や、分裂と争いが絶えません。ペトルスのあかしはわたしたちを招きます。神への愛と隣人への愛を結びつけなさい。うむことなく友愛と和解の関係をあらためて築きなさいと。実際、ペトルス・ウェネラビリスはそのように行動しました。彼は修道院の内外の理由で決して穏やかとはいえない時代にクリュニー修道院を指導しましたが、厳格であると同時に、深い人間らしさをもつことができたのです。ペトルスはいつもこういいました。「不平をいって怒らせるよりも、寛大に接するほうが、人から多くのものを得ることができます」(『書簡172』:Epistola 172, loc. cit., p. 409)。彼は職務上、イタリア、イギリス、ドイツ、スペインを何度も訪問しなければなりませんでした。観想の静けさをあきらめなければならないのは彼にとって悲しいことでした。彼はこう打ち明けています。「わたしはさまざまな土地に赴き、息を切らせ、落ち着かず、苦しみながら、ここかしこを連れ回されます。わたしの思いは自分のことに向かうかと思えば、他人のことに向かいます。こうしてわたしの魂は深くかき乱されます」(『書簡91』:Epistola 91, loc. cit., p. 233)。ペトルスはクリュニーを取り巻く権力者や領主の間で問題を処理しなければなりませんでした。けれども彼は、その平衡感覚と寛大さと現実主義のおかげで、変わることなく心の平静を保つことができました。ペトルスがかかわった人の一人にクレルヴォーのベルナルドゥス(Bernardus Claraevallensis 1090-1153年)がいます。気質と考えは異なるとはいえ、ペトルスはこのベルナルドゥスと交友を深めました。ベルナルドゥスはペトルスが「重要なことがらに携わる重要な人物」だと述べて、深い尊敬を表しました(『書簡147』:Epistola 147, ed. Scriptorium Claravallense, Milano 1986, VI/1, pp. 658-660)。これに対してペトルスは、ベルナルドゥスは「教会のともしび」(『書簡164』:Epistola 164, p. 396)、「修道会と全教会の力強く輝く支柱」(『書簡175』:Epistola 175, p. 418)だといいます。
 ペトルス・ウェネラビリスは強い教会的感覚をもっていいます。自分を「キリストのからだに属する者」と考える人は、キリスト信者の民に関することがらを「心の奥底」で感じなければなりません(『書簡164』:Epistola 164, loc. cit., p. 397)。ペトルスは続けていいます。それがどこに生じたときにも、「キリストのからだの傷を感じない人は、キリストの霊から糧を与えられることがありません」(同:ibid.)。さらにペトルスは、教会の外にいる人々、特にユダヤ教徒とイスラーム教徒にも配慮と気遣いを示しました。イスラーム教徒に関する認識を深めるために、彼はコーランを翻訳させました。このことに関して現代の歴史家はいいます。「中世の人々、それもそのもっとも偉大な人々でさえも排他的だった時代にあって、このようなキリスト教的愛に導かれた細やかな気遣いの最高の模範が示されたことに、われわれは驚きを覚える」(J. Leclercq, Pietro il Venerabile, Jaca Book, 1991, p. 189)。ペトルスが大事にしたキリスト教的生活のそれ以外の側面として、聖体への愛と、おとめマリアへの信心があります。聖体に関してペトルスは「あらゆる時代を通じての聖体に関する文書の傑作」(ibid., p. 267)となる著作を残しました。神の母に関して、ペトルスはわたしたちを照らす考察を書きました。その際、彼は常にマリアを、あがない主イエスとその救いのわざとの密接な関係のうちに仰ぎ見ます。そのことは、彼が霊感のうちに書いた賛美を引用すれば分かります。「めでたし、呪いを退けた、祝福されたおとめよ。めでたし、いと高きかたの母、いとも柔和な小羊の花嫁よ。あなたは蛇に打ち勝ち、その頭を砕きました。あなたから生まれた神が蛇を滅ぼしたからです。・・・・西の闇を退けた、東からの輝く星よ。太陽に先立つ夜明けの光、夜を知らない昼よ。・・・・あなたから生まれた神に祈ってください。どうかわたしたちが罪から解放され、ゆるされた後に、恵みと栄光が与えられますように」(『歌集』:Carmina, PL 189, 1018-1019)。
 ペトルス・ウェネラビリスは著作活動を好み、また彼にはその才能がありました。彼は自分の考察を書き記しました。それは、「みことばの種を紙の上にまくために」(『書簡20』:Epistola 20, p. 38)ペンを犂(すき)のようにして用いることの大切さを確信していたからです。ペトルスは組織神学者ではありませんでしたが、神の神秘の偉大な探求者でした。彼の神学は、祈り、特に典礼の祈りに根ざしていました。彼がもっとも愛したキリストの神秘は、変容の神秘でした。変容の中で復活が先取られるからです。変容の祝日をクリュニーに導入したのはほかでもないペトルスです。ペトルスはこの祝日のために特別な聖務日課を作りました。この聖務日課にはペトルスとクリュニー修道院の特徴である神への信心が反映されています。この信心は、キリストの栄光のみ顔(gloriosa facies)の観想に全身全霊を傾けます。それは、自らの心にしるされ、修道院の典礼の中で輝き出る深い喜びの理由をこのみ顔のうちに見いだすのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖なる修道士ペトルス・ウェネラビリスが、ベネディクト会の伝統の源泉によって養われた、修道生活の聖性の偉大な模範であることはいうまでもありません。ペトルスにとって、修道士の理想は、修道生活の中で「キリストと固く一致すること」(『書簡53』:Epistola 53, loc. cit., p. 161)でした。修道生活の特徴をなすのは、「修道的な謙遜」(同:ibid.)と勤勉(『書簡77』:Epistola 77, loc. cit., p. 211)、そして、沈黙のうちに行われる観想の雰囲気と、絶えざる神への賛美です。クリュニーのペトルスによれば、修道士の第一のもっとも重要な務めは、聖務日課を荘厳に唱えることです。聖務日課は「すべてのものの中でもっとも有益な天上のわざ」(『規約』:Statuta Congregationis Cluniacensis I, PL 189, 1026)です。聖務日課には、読書と、黙想と、個人の祈りと、分別をもって守るべき償いのわざが伴わなければなりません(『書簡20』:Epistola 20, loc. cit., p. 40参照)。こうして全生涯は深い神への愛と人々への愛に満たされます。人々への愛は、真に隣人へと開かれた心、ゆるし、そして平和の追求によって表されます。終わりに、こういうことができます。聖ベネディクトゥス(Benedictus de Nursia 480頃-547/560年頃)にとって、日々の労働と結びついたこのような生活様式は修道士の理想でした。そうであれば、それはわたしたち皆にもいえます。このような生活様式は大いに、キリストの真の弟子となることを望むキリスト信者の生活様式となりうるのです。キリスト信者の生活は、キリストとの固い一致と、謙遜と、勤勉と、ゆるしと平和の力によって特徴づけられるからです。

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