教皇ベネディクト十六世の197回目の一般謁見演説 クレルヴォーの聖ベルナルドゥス

10月21日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の197回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第16回として、「クレルヴォーの聖ベルナルドゥス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日はクレルヴォーの聖ベルナルドゥス(Bernardus Claraevallensis 1090-1153年)についてお話ししたいと思います。クレルヴォーの聖ベルナルドゥスは「最後の教父」と呼ばれます。なぜなら、彼は12世紀に、教父たちの偉大な神学をあらためて刷新し、提示したからです。ベルナルドゥスの幼年時代について詳しいことは知られていません。いずれにせよ彼は1090年にフランスのフォンテーヌで、まずまず裕福な大家族の子として生まれました。少年時代、彼はシャティヨン=シュル=セーヌのサン=ヴォルル聖堂参事会の学校で、いわゆる自由学芸――特に文法学、修辞学、弁証論――の学習に努めました。そしてゆっくりと修道生活を始める決断を深めていきました。20歳のときにシトー修道院に入りました。この新たに創立された修道院は、当時の歴史の古い高名な修道院よりも活発で、同時にもっと厳格に福音的勧告を実践していました。数年後の1115年、ベルナルドゥスは、シトー修道院の第3代修道院長、聖ステファヌス・ハルディングス(Stephanus Hardingus 在任1109年-1134年)から、クレルヴォー修道院を創立するよう命じられます。このクレルヴォー修道院で、弱冠25歳の若き修道院長は、自らの修道生活の概念を磨き、その実践に努めることができました。ベルナルドゥスは、他の修道院の規律を見て、食卓や衣服、修道院の建物において、簡素で節度ある生活を送る必要性をはっきりと思い起こさせました。そして、貧しい人を助け、世話するよう勧告しました。こうしてクレルヴォー共同体はますます人数を増やし、多くの子院を創設するようになりました。
 同時期にベルナルドゥスは1130年までに、重要な人も社会的な身分の低い人も含めて、多くの人との文通を行いました。この時期の多くの『書簡』(Epistolae)に、『説教』(Sermones)、『格言』(Sententiae)、『論考』(Tractatus)を加えなければなりません。サン=ティエリ修道院長ギヨーム(Guillaume de Saint-Thierry; Willelmus Sancti Theodorici 1085頃-1148年)や、12世紀のもっとも重要な人物であるシャンポーのギヨーム(Guillaume de Champeaux; Guillelmus Campalensis 1070頃-1122年)とのベルナルドゥスの深い交友もこの時期に生まれました。1130年以降、ベルナルドゥスは聖座と教会の多くの重大な問題にかかわり始めました。そのため彼は自分の修道院をしばしば離れ、ときにはフランス国外にも赴かなければなりませんでした。彼はいくつかの女子修道院も創立しました。ベルナルドゥスは、先週の水曜日にお話ししたクリュニー修道院長のペトルス・ウェネラビリスとの活発な往復書簡でも中心的な役割を果たします。ベルナルドゥスは何よりもアベラルドゥス(Petrus Abaelardus 1079-1142年)に対して論争的な著作を著しました。アベラルドゥスは神学の新しい方法を創始した偉大な思想家です。彼は神学思想の構築にとりわけ弁証的・哲学的方法を導入したからです。ベルナルドゥスが戦ったもう一つの相手はカタリ派の異端です。カタリ派は物質と人間の身体をないがしろにし、そこから、造り主をもないがしろにしました。ベルナルドゥスはまた、ユダヤ人を擁護することを自らの務めと感じ、ますます広まっていた反ユダヤ主義の復活を非難しました。ベルナルドゥスの使徒的活動のこの最後に挙げた側面のゆえに、約10年後、ボンのラビのエフライムは、ベルナルドゥスに手紙を送り、心からの称賛を示しました。同じ頃、聖なる修道院長ベルナルドゥスは有名な『雅歌講話』(Sermones super Cantica Canticorum)などのもっともよく知られた著作を著しました。最晩年――ベルナルドゥスは1153年に亡くなります――、ベルナルドゥスは旅行を減らさなければなりませんでしたが、それを完全にやめはしませんでした。この時期を用いて、彼は『書簡』、『説教』、『論考』の全体を決定的な形で見直しました。まさにこの時期の1145年に書き上げたきわめて独特な文書は注目に値します。この年、弟子の一人のベルナルド・パガネリ(Bernardo Paganelli)が教皇に選ばれ、エウゲニウス3世(Eugenius III 在位1145-1153年)を名乗ったからです。このような状況のもとで、ベルナルドゥスは霊的な父として霊的な子にあてて『熟慮について』(De consideratione)という文書を書いたのです。この文書はどうすればよい教皇になれるかについての教えを含んでいます。それはあらゆる時代の教皇が読むにふさわしい書物です。この書物の中で、ベルナルドゥスは、どうすればよい教皇になれるかを示すだけでなく、教会の神秘とキリストの神秘に関する深い考察を表します。この考察は、ついには三位一体の神の神秘の観想となります。聖なる修道院長はいいます。「まだ十分になされなかったこの神の探求をさらに続けなければならないかもしれません。しかし、おそらく議論によるよりも祈りによるほうが、神をよりよく探求し、容易に見いだすことができるでしょう。本書はここで終わりますが、探求は」すなわち神への歩みは「終わることがありません」(『熟慮について』:De consideratione XIV, 32, PL 182, 808)。
  ここでわたしはベルナルドゥスの豊かな教えの二つの中心的な側面を考察したいと思います。すなわち、イエス・キリストとその母である至聖なるマリアです。ベルナルドゥスは、キリスト信者をイエス・キリストにおける神の愛に深く生き生きとしたしかたであずからせようとする熱意をもって、神学の学問的な意味での新たな方向づけを示しはしませんでした。しかしこのクレルヴォーの修道院長は、きわめてはっきりとしたしかたで、観想的かつ神秘的な神学者の姿を示しました。当時の複雑な弁証論的な推論に対してベルナルドゥスはいいます。イエスだけが「口で味わう蜜、耳にする歌、心の喜び(mel in ore, in aure melos, in corde iubilum)」です。まさにこのことばから伝統的に彼に帰された「蜜の流れる博士(Doctor mellifluus)」という称号が生まれました。実際、彼のイエス・キリストへの賛美は「蜜のように流れた」のです。当時流行した哲学の学派である、唯名論と実在論が延々と争う中で、クレルヴォーの修道院長ベルナルドゥスはうむことなく、誇るべき唯一の名であるナザレのイエスの名を繰り返して述べました。ベルナルドゥスは告白していいます。「この油が注がれていないなら、魂の食物はすべて干からび、この塩でもって味付けられないなら、味がなくなる。あなたが何かを書いても、そこにイエスの名を読まないなら、わたしには少しも味わいがない」。結論として彼はいいます。「あなたが何を論じたり考えを述べても、イエスの名が響いていないとしたら、わたしには少しも味わいがない」(『雅歌講話』:Sermones super Cantica Canticorum XV, 6, PL 183, 847〔金子晴勇訳、『キリスト教神秘主義著作集2 ベルナール』教文館、2005年、146頁〕)。実際、ベルナルドゥスにとって神を真に知るとは、イエス・キリストとその愛を深く個人的に体験することでした。親愛なる兄弟姉妹の皆様。これはすべてのキリスト信者にいえることです。信仰とは、何よりもまず、イエスとの深く個人的な出会いです。そして、イエスの近さ、友愛、愛を体験することです。そのようにして初めて人はイエスをますます深く知り、愛し、彼に従うことができるようになるのです。わたしたち皆がそうできるようになりますように。
  さらに、有名な『聖母の被昇天の八日間中の主日の説教』(Sermo in Dominica infra octavam assumptionis Beatae Virginis Mariae)の中で、聖なる修道院長ベルナルドゥスは、マリアが御子のあがないをもたらすいけにえに深くあずかったことについて、情熱的なことばで述べます。彼は叫んでいいます。「ああ聖なる母よ。まことに剣はあなたの心を刺し貫きました。・・・・激しい痛みがあなたの心を刺し貫きました。それでわたしたちは正しい理由をもってあなたを殉教者以上のかただと呼ぶことができます。あなたは殉教者が肉体で苦しむよりもはるかに深く御子の受難にあずかったからです」(『聖母の被昇天の八日間中の主日の説教』:Sermo in Dominica infra octavam assumptionis Beatae Virginis Mariae 14, PL 183, 437-438)。ベルナルドゥスは、わたしたちが「マリアを通してイエスへと(per Mariam ad Iesum)」導かれることを疑いませんでした。彼は伝統的なマリア論の原則に従って、マリアがイエスに従属することをはっきりとあかしします。しかし、『説教』は、おとめマリアが救いの営みの中で特別な位置を占めることも述べています。聖母は御子のいけにえにきわめて独自のしかたであずかる(compassio)からです。ベルナルドゥスの死から150年後、ダンテ・アリギエリ(Dante Alighieri 1265-1321年)が『神曲』(La Divina Commedia)の最終歌で「蜜の流れる博士」の口にマリアへの最高の祈りを語らせているのは偶然ではありません。「処女(おとめ)にして母、おん子の娘、いかなる被造物にもまして低められ、高められたる者、永遠の勧めのゆるぎなき目的(まと)」(『神曲』天国篇第33歌1行以下〔寿岳文章訳、集英社、1987年、295頁〕)。
  聖ベルナルドゥスのようにイエスとマリアに心をとらえられた者の特徴をなす、こうした考察は、現代においても、神学者だけでなくすべての信者にも有益です。人は時として、神と人間と世界に関する問いを理性の力だけで解決できるかのように思い上がることがあります。しかし、聖書と教父にしっかりと基盤を置く聖ベルナルドゥスは、わたしたちに思い起こさせてくれます。神への深い信仰をもたず、祈りと観想と主との深い関係によって養われていなければ、神の神秘についてのわたしたちの考察は空しく知性を働かせるだけで、信頼性を失う恐れがあるということを。神学は「聖人の知」に帰らなければなりません。「聖人の知」とは、生きた神の神秘についての洞察であり、知恵であり、聖霊のたまものです。これこそが神学的考察の基準となります。わたしたちもクレルヴォーのベルナルドゥスとともに認めなければなりません。「議論によるよりも祈りによるほうが」神をよりよく探求し、容易に見いだすことができるということを。結局のところ、神学者、そしてあらゆる福音宣教者の真の模範は使徒ヨハネであり続けます。使徒ヨハネは、師であるかたの胸に頭をもたせかけていたからです。
  聖ベルナルドゥスに関するこの考察を、彼のすばらしい説教に書かれたマリアへの祈りをもって終わりたいと思います。ベルナルドゥスはいいます。「危難と、不安と、悩みのときに、マリアのことを思い、マリアを呼び求めなさい。マリアがあなたの口からも心からも離れることがないように。そして、マリアの祈りの助けを得られるように、マリアの生涯の模範を忘れてはなりません。マリアの模範に従うなら、道に迷うことはありません。マリアに願い求めるなら、希望を失うことはありません。マリアのことを思うなら、誤りに陥ることはありません。マリアに支えられるなら、つまずくことはありません。マリアに守っていただくなら、決して恐れることはありません。マリアに導いていただくなら、疲れることはありません。マリアに守っていただくなら、あなたは目的地に着くことでしょう」(『「天使ガブリエルは・・・・遣わされた」(ルカ1章26-27節)についての説教』:Homilia II super 《missus est》 17, PL 183, 70-71)。

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