教皇ベネディクト十六世の198回目の一般謁見演説 12世紀の神学

10月28日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の198回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第17回として、「12世紀の神学」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日は、歴史の興味深い側面について考察します。すなわち、12世紀の西方神学の興隆です。これは一連の偶然の出来事によって起こりました。当時の西ヨーロッパ諸国では比較的に平和が保たれました。この平和は、社会の経済発展と政治構造の安定化を保証し、文化活動を活発化しました。最後のことには東方との接触も寄与しています。教会全体は「グレゴリウス改革」として知られる広範な活動の恩恵を受けました。11世紀に力強く推進されたこの改革は、教会共同体の生活、特に聖職者の生活をいっそう純粋に福音的なものとし、教会と教皇制に真の活動の自由を回復しました。さらに、奉献生活の豊かな発展に支えられて、大規模な霊的刷新が広まっていました。新たな修道会が生まれ、拡大するとともに、すでに存在した修道会も将来性のある再興を経験していました。
  神学も再び開花し、自らの性格をますます自覚していました。神学はその方法を磨き、新たな問題にこたえ、神の神秘の観想を深め、基本的な著作を生み出し、芸術から文学に至るまでの重要な文化的活動に霊感を与え、次の13世紀の傑作を準備しました。13世紀とは、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1224/1225-1274年)とバニョレージョのボナヴェントゥラ(Bonaventura 1217/1221-1274年)の時代です。12世紀の活発な神学的活動は、二つの場において行われました。すなわち、修道院と都市の学校(scholae)です。学校のいくつかのものは間もなく大学を生み出しました。大学はキリスト教的中世が「発明」した典型的なものの一つです。まさに修道院と学校(scholae)という、この二つの場から出発して、二つの異なる神学のモデルについて語ることができます。「修道院神学」と「スコラ神学」です。修道院神学の代表者は修道士であり、大体の場合、修道院長です。彼らは豊かな知恵と福音的な熱意をもち、基本的に、神への愛と探求を促し、深めることに努めました。スコラ神学の代表者は、熱心な探求者である文化人です。彼ら教師(magistri)は、神と人間の神秘の理解可能性と合理性を示そうと努めました。もちろん彼らも信仰をもっていましたが、同時に理性によって理解したのです。こうした相異なる目的が、二つの神学のモデルが神学を行う方法、やり方の違いを説明します。
  12世紀の修道院における神学の方法は、主として聖書――当時の著者の言い方でいえば、「聖なる書物(sacra pagina)」――の解釈と結びついていました。特に行われたのは聖書神学でした。実際、修道士は皆、熱心な聖書の聴衆であり、読者でした。彼らの主要な務めの一つは「霊的読書(lectio divina)」、すなわち、祈りのうちに聖書を読むことでした。修道士にとって、ただテキストを読むだけでは、その深い意味と内的統一と超越的なメッセージを把握するために不十分でした。それゆえ、彼らは「霊的読書」を実践し、聖霊に聞き従う態度へと導かれなければなりませんでした。そこで教父の学校では、聖書は寓意的に解釈されました。それは、旧約と新約のすべてのテキストの中に、キリストとその救いのわざについていわれたことを見いだすためです。
  昨年開催された、「教会生活と宣教における神のことば」に関するシノドスは、聖書の霊的な読み方の重要性を再確認しました。そのために、修道院神学とその途切れることのない聖書釈義、また、その代表者たちの著作を活用することが役立ちます。これらの著作は聖書の貴重な修徳的注解だからです。そこで、修道院神学は、文学的な準備と、霊的な準備とを結びつけます。彼らはたんなる理論的・世俗的な読書だけでは不十分なことを自覚していたからです。聖書の核心に入るためには、聖書がそのもとで書かれ、生み出された霊において聖書を読まなければなりません。文学的な準備は、文法的・文献学的感覚を磨くことを通じて、ことばの正確な意味を知り、テキストを容易に理解できるようになるために必要です。そこから、20世紀のベネディクト会の研究者であるジャン・ルクレール(Jean Leclercq 1911-1993年)は、修道院神学の性格を紹介した研究書を『学問への愛と神への希求(L’amour des lettres et le désir de Dieu)』(邦訳『修道院文化入門――学問への愛と神への希求――』神崎忠昭・矢内義顕訳、知泉書館、2004年)と名づけたのです。実際、わたしたちは神のことばを受け、黙想し、実践することを通じて、神を知り、愛したいと望むようになります。この望みは、聖書のテキストをあらゆる次元において深く知ろうとする探求へと導きます。その後、修道院神学を実践する人々は、もう一つの態度を強調します。すなわち、深い祈りの態度です。この深い祈りの態度が、聖書の研究に先立ち、伴い、それを完全なものとしなければなりません。結局のところ、修道院神学とは、神のことばを聞くことです。だから、神のことばを受け入れるために心を清め、何よりも、主と出会うために心を熱く燃やさなければなりません。それゆえ、神学は黙想、祈り、賛美の歌となり、心からの回心を促します。修道院神学の多くの代表者たちが、この道を通って神秘体験の最高の境地に達しました。彼らはわたしたちをも招いています。神のことばを人生の糧としなさい。そのために、たとえば、特に主日のミサの聖書朗読と福音朗読に熱心に耳を傾けなさいと。さらに、聖書の黙想のために毎日、ある程度の時間をとることも大切です。それは、神のことばが、地上におけるわたしたちの日々の歩みを照らすともしびとなるためです。
  これに対して、すでに述べたとおり、スコラ神学は、聖職者の教育のために、当時の大きな司教座聖堂に隣接してできた学校(scholae)で行われました。いいかえると、それは、知識がますます高く評価されるようになった時代の中で、専門的文化人を教育するために、神学教師とその弟子の周りで行われました。スコラ神学者の方法の中心は、「問い(quaestio)」、すなわち、聖書や聖伝のことばをめぐって講師に示される問題でした。権威あるテキストが示す問題に対して、さまざまな問題が立てられ、教師と生徒の間で討論が行われます。こうした討論の中で、権威に基づく議論と、理性に基づく議論が示されます。そして、最終的に、権威と理性の総合を見いだすために討論が展開されます。それは、神のことばのより深い理解に達するためです。このことに関して、聖ボナヴェントゥラはいいます。神学とは「付加によって(per additionem)」行われます(『命題集注解』:Commentaria in quatuor libros Sententiarum I, proemium, q. 1, concl.参照)。すなわち、神学は神のことばに理性の次元を付加します。そこから、それは信仰をより深く、個人的なものとし、それゆえ、人間生活の中で具体化します。その意味で、さまざまな解答が見いだされ、神学体系を構築し始めるための結論が導き出されます。問い(quaestiones)の組織化は、より大きな総合のまとめへと導きます。すなわち、さまざまな問い(quaestiones)は、そこから出た解答と組み合わされ、一つの総合を生み出します。この総合がいわゆる「大全(summae)」です。実際、「大全」は人間理性と神のことばとの対決から生まれた、大きな神学的・教義的論考なのです。スコラ神学は、いわゆるスコラ(学校)的方法を用いて、キリスト教の啓示の一致と調和を示そうと努めました。スコラ的方法は人間理性に信頼を置きます。文法学と文献学は神学の認識の道具となります。しかし、ますます神学の道具の役割を果たすようになったのは論理学です。論理学は人間理性の「働き」を研究し、命題の真理を明らかにするからです。現代においても、スコラ学の「大全(summae)」を読むと、議論の秩序、明瞭性、論理的なつながり、そしていくつかの洞察の深みに感銘を受けます。専門的な用語法によって、すべてのことばが正確に意味づけられ、信仰と理解の間に、明確さを目指した相互の動きが確立されました。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。ペトロの手紙一の招きを反響させながら、スコラ神学はわたしたちを促します。わたしたちの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように用意しているようにと(一ペトロ3・15参照)。ですから、わたしたちへの問いかけを聞くとは、こたえることができるということです。そこからわたしたちは、信仰と理性の間には創造の秩序そのものに基づく自然な親しさがあることを思い起こします。神のしもべヨハネ・パウロ二世は回勅『信仰と理性』の冒頭で述べます。「信仰と理性は、人間の霊魂が真理の観想へと飛翔していく両翼のようなものです」。信仰は、理性が行う理解の努力へと開かれています。理性も、信仰が理性を押さえつけるのではなく、むしろ理性をより広く高い地平へと駆り立てることを認めます。これに修道院神学の永遠の教訓が加わります。信仰と理性は、相互の対話のうちに、喜びに震えます。二つとも、神との深い一致への探求に促されているからです。愛が神学の祈りの領域を生かすとき、理性によって得られる認識も広がります。わたしたちは真理を謙遜に探求し、驚きと感謝をもって受け入れなければなりません。一言でいえば、認識は、真理を愛するとき、初めて深まります。愛は知解となり、心の真の知恵である神学となります。このような神学こそが、信じる者の信仰と生活を方向づけ、支えます。それゆえ、祈りたいと思います。神の神秘を知り、深める道が、いつも神の愛に照らされますように。

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