教皇ベネディクト十六世の199回目の一般謁見演説 12世紀の神学の発展 ―聖ベルナルドゥスとアベラルドゥスの論争

11月4日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の199回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第18回として、「12世紀の神学の発展――聖ベルナルドゥスとアベラルドゥスの論争」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  先週の講話で、12世紀の修道院神学とスコラ神学の主な特徴をご紹介しました。わたしたちはある意味でこの二つをそれぞれ「心による神学」と「理性による神学」と呼ぶことができます。それぞれの神学思潮の代表者の間では、広範囲にわたって、ときには激しい議論が繰り広げられました。この議論を象徴的な形で代表するのが、クレルヴォーの聖ベルナルドゥスとアベラルドゥスの間の論争です。
  この二人の偉大な教師の対立を理解するには、次のことを思い起こすのが適切です。すなわち、神学は、信仰に基づいて信じるキリスト教の啓示の神秘を、可能な限り理性によって理解しようとする探求です。伝統的な、簡潔で力強い定義を用いるなら、神学とは「知解を求める信仰(fides quaerens intellectum)」です。さて、修道院神学の典型的な代表者である聖ベルナルドゥスは、この定義の第一の部分、すなわち「信仰(fides)」に強調点を置きました。これに対して、スコラ学者であるアベラルドゥスは、第二の部分、すなわち「知解(intellectus)」を強調しました。「知解」とは、理性による理解です。ベルナルドゥスにとって、信仰そのものは、聖書の証言と教父の教えに基づいて、深い確実性をもって与えられます。さらに信仰は、聖人のあかしと、信じる者一人ひとりの心の中の聖霊の霊感によって強められます。疑いやあいまいさのある場合、信仰は教会教導職の行使によって守られ、照らされます。そのためベルナルドゥスは、アベラルドゥスや、もっと一般的にいえば、信仰の真理を理性による批判的な吟味にゆだねる人々に同意することができませんでした。ベルナルドゥスの考えでは、このような吟味は深刻な危険、すなわち知性主義を生み出します。真理は相対化され、信仰の真理そのものが議論に付されます。ベルナルドゥスはこのような考え方のうちに、神をも恐れぬ大胆さを見いだしました。このような大胆さは、神の神秘を「把握」できるかのように思い上がる、人間知性の傲慢から生まれます。ベルナルドゥスは深い憂慮をもって、ある手紙の中で述べます。「人間の才能はすべてを自分のものとし、信仰には何も残しません。自らを超えたものに立ち向かい、自分より優れたものを探索し、神の世界に押し入ります。信仰の神秘を照らし出すのではなく、別なものに変えます。閉じられ、封印されたものを開くのではなく、根絶やしにします。そして、それ自体において見通すことのできないものは、無とみなして、信じることを拒みます」(『書簡188』:Epistola CLXXXVIII, 1, PL 182, I, 353)。
  ベルナルドゥスにとって、神学の目的はただ一つです。すなわち、神を生き生きと深く体験するよう促すことです。それゆえ、神学は主をますます深く愛するための助けです。『神を愛すべきことについて』(De diligendo Deo)という標題が示すとおりです。神を愛する歩みにはさまざまな段階があります。ベルナルドゥスは、信じる魂が愛の極みにおいて陶酔する頂点に至る、この歩みを詳しく述べます。人間の魂はすでに地上においてこの神のことばとの神秘的一致に達することができます。この一致を「蜜の流れる博士(Doctor Mellifluus)」ベルナルドゥスは「霊的婚姻」と呼びます。神のことばは魂を訪れ、最後の抵抗を解いて、魂を照らし、燃え上がらせ、変容させます。この神秘的一致の中で、魂は深い平安と甘美を味わいます。そして、自分の花婿に喜びの賛歌を歌います。聖ベルナルドゥスの生涯と教えについての講話で述べたとおり、ベルナルドゥスにとって、神学は、観想的な祈りによって、いいかえれば、心と精神が愛をこめて神と一致することによって養われなければならないのです。
  これに対して、現代用いられる意味での「神学」ということばを初めて用いたアベラルドゥスは、まったく異なる立場に位置づけられます。フランスのブルターニュに生まれたこの12世紀の有名な教師は、明敏な知性に恵まれ、学問を天職としていました。彼は初め哲学を研究しましたが、その後、哲学から得た成果を神学に適用しました。彼は当時のもっとも文化的な都市であるパリで、次いで、彼の住んだ修道院で、神学を教えました。アベラルドゥスは優れた修辞学者でした。彼の講義には文字どおり学生の群れがつめかけました。敬虔な精神とともに、活発な気性を備えたアベラルドゥスの生涯には、劇的な事件が絶えませんでした。彼は教師たちを論駁し、教養と知性のある女性エロイーズ(Héloïse; Heloissa 1100頃-1164年)との間に一子をもうけました。同僚の神学者たちとの間ではしばしば論争を行いました。教会から断罪されましたが、亡くなるときには教会との完全な交わりのうちにありました。アベラルドゥスは教会の権威に信仰の精神をもって服従したからです。1140年のサンス教会会議でアベラルドゥスの教えの一部が断罪されたのは、ほかならぬ聖ベルナルドゥスの後押しによるものでした。聖ベルナルドゥスは教皇インノケンティウス二世(Innocentius II 在位1130-1143年)の介入も要請しました。すでに述べたとおり、クレルヴォーの修道院長ベルナルドゥスは、アベラルドゥスのあまりにも知性主義的な方法に異議を唱えました。ベルナルドゥスの考えでは、この知性主義的な方法は、信仰を、啓示された真理から切り離された、単なる見解におとしめるものだったからです。ベルナルドゥスの心配は根拠のないものではなく、当時の他の偉大な思想家も共有するものでした。実際、哲学を過度に用いることによって、アベラルドゥスの三位一体説や、そこから、その神概念も、危険なまでに脆弱なものとなりました。道徳の分野でも、アベラルドゥスの教説はあいまいさを含みました。彼は、主体の意図が、道徳的行為の善悪を述べるための唯一の根拠だとする考えを主張しました。こうして彼は、行為の客観的な意味と道徳的価値を無視することになりました。すなわち、危険な主観主義です。ご存じのように、これは現代にもはっきりと見られる現象です。現代文化はしばしば倫理的相対主義の傾向の増大によって特徴づけられます。「自己」のみが、今このとき、わたしにとって何が善であるかを決めるのです。しかしながら、アベラルドゥスの偉大な功績も忘れてはなりません。アベラルドゥスは多くの弟子をもち、スコラ神学の発展に決定的な形で寄与しました。スコラ神学は次の13世紀に、より成熟した実り豊かなしかたで示されることになります。アベラルドゥスのいくつかの洞察も評価すべきです。たとえば彼は、非キリスト教的宗教伝統の中にも、神のことばであるキリストを受け入れる準備がすでにあると主張しました。
  ベルナルドゥスとアベラルドゥスの間に、もっと一般的にいえば、修道院神学とスコラ神学の間に、しばしば激しい形で存在した対立から、わたしたちは何を学ぶことができるでしょうか。まずわたしはこう思います。この対立は、教会内で健全な神学的議論が行われることが有益かつ必要であることを示します。特に、議論されている問題が教導職によって決定されていない場合に、このことがいえます。ただしその場合も、教導職は不可欠な基準であり続けます。聖ベルナルドゥスもアベラルドゥスも、常にためらうことなく教導職の権威を認めました。さらに、アベラルドゥスが断罪を受けたことはわたしたちに次のことを考えさせてくれます。神学の領域では、啓示によって与えられる、建築学的原理とでも呼ぶべきものと、哲学、すなわち理性によって示される解釈の原理との間に釣り合いがなければなりません。前者は常に第一に重要なものであり続けます。後者の役割は、重要ではありますが、道具としてのものにすぎません。建物と、解釈の道具の釣り合いがとれなくなるとき、神学的考察は誤謬によって汚染される危険があります。そのとき、教導職は、自らに固有の、必要とされる真理への奉仕のわざを行使しなければなりません。さらに、次のことを強調する必要があります。すなわち、反アベラルドゥスの「立場」をとり、教導職の介入を要請するようベルナルドゥスを促した理由の一つは、単純で素朴な信者を守ることでした。このような信者が、きわめて個人的な見解や、信者の信仰を危険にさらしかねない神をも恐れぬ神学的議論によって混乱させられ、惑わされる恐れがあるとき、彼らを守らなければならないのです。
  終わりに、次のことを思い起こしたいと思います。ベルナルドゥスとアベラルドゥスの対立は、二人の共通の友人であるクリュニー修道院長のペトルス・ウェネラビリスの仲裁のおかげで、両者の完全な和解のうちに終結しました。ペトルス・ウェネラビリスについては先の講話の中でお話ししました。アベラルドゥスは謙遜に自らの過ちを認め、ベルナルドゥスは深い寛大さを示しました。神学論争が生じたときに真に心にとめなければならないことが、二人を支配しました。すなわち、教会の信仰を守り、愛に根ざした真理が勝利を収めるようにするということです。現代においても、教会の中に対立があるとき、わたしたちがこのような態度をとって、常に真理の探求を目標とすることができますように。

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