教皇ベネディクト十六世の2009年11月29日の「お告げの祈り」のことば 希望の土台であるキリスト

教皇ベネディクト十六世は、待降節第1主日の11月29日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタ […]


教皇ベネディクト十六世は、待降節第1主日の11月29日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇は、12月1日の「世界エイズデー」を前にして、イタリア語で次のように述べました。
「今週の12月1日、『世界エイズデー』が行われます。わたしの思いと祈りは、この病気にかかったすべての人、特に子ども、最貧者、また人々から拒絶された人に向かいます。教会はエイズのための組織と人員を通してエイズと闘い続けます。すべての人に勧告します。祈りと具体的な関心をもって自分なりの貢献を行ってください。それは、エイズウイルスに感染した人が、主がともにいて慰めと希望を与えてくださることを感じることができるためです。最後に、いっそうの取り組みと協力によって、この病気を阻止し、克服することができるようになることを願います」。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  神の恵みにより、今日の主日から新しい典礼暦年が始まります。いうまでもなく、新しい典礼暦年は待降節をもって始まります。待降節は主の降誕を準備する季節です。第二バチカン公会議は『典礼憲章』の中でいいます。「教会は、一年を周期としてキリストの神秘全体を、受肉と降誕から、昇天へ、ついで聖霊降臨日へ、さらに、幸いなる希望と、主の来臨との待望へと展開しているのである」。こうして教会は「あがないの神秘を記念しつつ、おのが主の徳と功徳との富を信者に開放するのであって、それによって、この神秘があらゆる時に現存するものとなり、信者はこれに接して、救いの恵みに満たされるに至るのである」(『典礼憲章』102)。公会議は、典礼の中心がキリストであることを強調します。いわば太陽を巡る惑星のように、キリストの周りを、幸いなるおとめマリア――マリアはキリストのもっとも近くにおられます――と殉教者、そして他の聖人たちが回ります。彼らは「天において神に完全な賛美を歌い、われわれのために取り次ぐ」(同104)のです。
  これが、いわば「神の側から見た」典礼暦年の姿です。それでは、人間と歴史と社会の側から見るならばどうでしょうか。典礼暦年はどのような意味をもちうるでしょうか。その答えは、まさに今日から始まる待降節の歩みによって示されます。現代世界は何よりも希望を必要としています。発展途上国の人々だけでなく、経済的先進国の人々も希望を必要としています。わたしたちはますます、自分たちが一つの船に乗っており、皆がともに救われなければならないと自覚するようになりました。何よりもわたしたちは、偽りの安定が揺らぐのを見ることによって気づきます。わたしたちは信頼できる希望を必要としているということを。そして、このような希望をキリストのうちにのみ見いだすことができるのだということを。ヘブライ人への手紙がいうように、キリストは「きのうも今日も、また永遠に変わることのないかた」(ヘブライ13・8)だからです。主イエスはかつて来られ、今来ておられ、これから来られるかたです。イエスは時間のすべての次元を包含しておられます。なぜなら、イエスは死んで復活されたからです。イエスは「生きておられるかた」だからです。そして、わたしたち人間と不安定さを共有しながら、永遠にとどまり、神の揺るぎなさをわたしたちに与えてくださるからです。イエスはわたしたちのように「肉」でありながら、神のように「岩」なのです。自由と正義と平和を切望する人は皆、身を起こして頭を上げることができます。なぜなら、キリストのうちにあって、解放の時は近いからです(ルカ21・38参照)。今日の福音の中で朗読されたとおりです。それゆえわたしたちは断言できます。イエス・キリストはキリスト者だけ、信じる者だけに目を注ぐのではなく、すべての人に目を注がれます。なぜなら、イエス・キリストは、信仰の中心であるだけではなく、希望の土台だからです。彼こそが、すべての人が常に必要としている希望だからです。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。おとめマリアは、希望を生きる人間性を完全に体現したかたです。この希望は生ける神への信仰に基づきます。マリアは待降節のおとめです。マリアは、今、すなわち、救いの「今日」に固く根を下します。過去のすべての約束を心に納め、未来の実現へと手を差し伸べます。マリアの学びやに入ろうではありませんか。それは、真の意味でこの恵みの時に入り、神の到来を、喜びと責任をもって、個人また社会としての歴史に受け入れるためです。

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