教皇ベネディクト十六世の203回目の一般謁見演説 サン=ティエリのギヨーム

12月2日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の203回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の […]


12月2日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の203回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第22回として、「サン=ティエリのギヨーム」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は、教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『和解とゆるし』発布25周年となることを記念して次のようにイタリア語で述べました。
「最後に、若者と病者と新郎新婦の皆様にごあいさつ申し上げます。今日はちょうど使徒的勧告『和解とゆるし』発布から25周年となります。『和解とゆるし』は教会生活におけるゆるしの秘跡の重要性に注意を促しました。この意義深い記念日にあたり、幾人かの特別な『告白場の使徒』、うむことのない神の憐れみの分配者を思い起こしたいと思います。すなわち、聖ヨハネ・マリア・ビアンネ(Jean-Marie Vianney 1786-1859年)、聖ジュゼッペ・カファッソ(Giuseppe Cafasso 1811-1860年)、聖レオポルド・マンディク(Leopoldo Mandic 1866-1942年)、ピエトレルチーナの聖ピオ(Pio da Pietrelcina 1887-1968年)です。親愛なる若者の皆様。これらの聖人の信仰と愛のあかしに力づけられて、皆様が罪から逃れ、将来、神と隣人に寛大に奉仕することを計画してくださいますように。親愛なる病者の皆様。これらのあかしの助けによって、皆様が苦しみのうちに十字架につけられたキリストの憐れみを体験することができますように。そして、親愛なる新郎新婦の皆様。これらのあかしに促されて、皆様が家庭の中に常に信仰と相互理解の雰囲気を作り出してくださいますように。最後に、これらの熱心かつ忠実な神のゆるしの奉仕者となった聖人の模範が、特に『司祭年』にあたって、司祭とすべてのキリスト者にとって、いつも神のいつくしみに信頼し、信頼の心をもってゆるしの秘跡に近づき、あずかるための招きとなりますように」。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  以前の講話の中でクレルヴォーのベルナルドゥスをご紹介しました。「甘美なる博士」ベルナルドゥスは12世紀を代表する偉大な人物です。このベルナルドゥスの伝記作者――彼はまたベルナルドゥスの友人であり、彼を尊敬していました――が、サン=ティエリのギヨーム(Guillaume de Saint-Thierry; Willelmus Sancti Theodorici 1085頃-1148年)です。今日はこのサン=ティエリのギヨームについて考察します。
  ギヨームは1075年と1080年の間にリエージュで生まれました。貴族の家に生まれ、優れた知性と生来の勉学への愛に恵まれた彼は、当時の有名な学校で学びました。たとえば、フランスの、生地リエージュやランス(Reims)の学校です。彼はアベラルドゥスとも親交を結びました。アベラルドゥスは独自のしかたで哲学を神学のために用いて、混乱と反対を招いた教師です。ギヨームも自らがアベラルドゥスと距離を置くことを表明し、友人であるベルナルドゥスにアベラルドゥスに反対する立場をとるよう促しました。奉献生活への召命という、神からの不思議なあらがいがたい呼びかけにこたえて、ギヨームは1113年、ランスにあるベネディクト会のサン=ニケーズ修道院に入りました。そして数年後、ランス教区にあるサン=ティエリ修道院の院長になりました。当時は、修道生活を清め、刷新し、本来の福音的なものとしなければならないという要求が広まっていました。ギヨームもこのために自分の修道院の中で、また広くベネディクト会で活動しました。しかし、彼の改革の試みは少なからぬ抵抗に遭いました。そのため彼は友人ベルナルドゥスの反対の忠告を聞かず、1135年、ベネディクト修道院を離れ、黒い修道服を脱いで、白い修道服を身に着けました。シトー会のシニー(Signy)修道院に入るためです。このときから1148年に亡くなるまで、ギヨームは常に自らのもっとも深い望みの対象であった神の神秘について祈る観想と、霊的著作の執筆に努めました。ギヨームの霊的著作は修道院神学の歴史の中で重要です。
  ギヨームの初期の著作の一つは『愛の本性と尊厳について』(De natura et dignitate amoris)という標題の著作です。この著作の中では、わたしたちにとっても意味のある、ギヨームの根本的思想が示されます。ギヨームはいいます。人間の魂を動かす根源的な力は愛です。人間本性のもっとも深い本質は、愛することのうちにあります。要するに、すべての人にゆだねられた務めはただ一つです。すなわち、善を欲すること、心から、本来の意味で、無償で愛することを学ぶことです。しかし、人はこの務めを、神の学びやで学ぶことにより初めて実行できるようになります。そして、自らがそのために造られた目的に達することができます。実際、ギヨームは述べます。「技芸のなかの技芸、それは愛の技芸である。・・・・それを教え導く役割を保有するのは・・・・自然本性の造り主である神ご自身である。・・・・愛とは、ある本性的な重さによって魂を固有の場所ないし目的地に運んでいく魂の力である」(『愛の本性と尊厳について』:De natura et dignitate amoris 1, PL 184, 379〔高橋正行・矢内義顕訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成10 修道院神学』平凡社、1997年、301頁〕)。愛することを学ぶには、長く骨の折れる歩みが必要です。この歩みをギヨームは4つの段階に区分します。各段階は、幼年期、青年期、成年期、老年期という、人間の年齢の段階に対応します。この道のりの中で、人は力強い修徳と強力な自己制御を身に着けなければなりません。それは、無秩序な愛情、利己主義への屈服をすべて退け、自らの生活を神と結びつけるためです。神は愛の源泉であり、目的であり、力です。そこからついに人は霊的生活の頂点に達します。ギヨームはこの霊的生活の頂点を「知恵」と呼びます。この修徳の道を歩み通したとき、人は深い落ち着きと甘美さを味わいます。知性、意志、感情を含めた人間のあらゆる能力は神のうちに安らいます。神はキリストのうちに知られ、愛されるかたです。
  別の著作の中で、ギヨームは、神を愛することへのこの徹底的な召命について語ります。神を愛することこそが、人生の成功と幸福の秘訣です。ギヨームは、この神への愛は、神ご自身が人間の心に与えた、絶えず増大する望みだといいます。ある考察の中でギヨームはいいます。この愛の目的は、大文字で書かれた「愛」そのものであるかた、すなわち神です。「このかたは愛する人の心の中にご自身を注ぎ、その人をいっそうご自身を受け容れうる者になさいます。このかたは人を満たしますが、彼を満たしても、望みを減らすことがありません。このように愛によって突き進んでいくこと、それがすなわち人間が行き着くことなのです」(『神の観想について』:De contemplando Deo 6, passim, SC 61bis, pp. 79-83〔高橋正行・矢内義顕訳、上掲『中世思想原典集成10 修道院神学』358頁参照〕)。ギヨームが神への愛について語るとき、感情的な次元をきわめて重視することは印象的です。親愛なる友人の皆様。結局のところ、わたしたちの心は肉から造られました。ですから、愛そのものであられる神を愛するとき、主との関係の中で、優しさ、感じやすさ、繊細さといった、わたしたちのもっとも人間的な感情を表さずにいられるでしょうか。人となられた主ご自身が、肉の心をもってわたしたちを愛することを望まれたのです。
  さらにギヨームによれば、愛にはもう一つの重要な特徴があります。愛は知性を照らし、神をより深く知り、また、神のうちに、人間とさまざまな出来事をより深く知ることを可能にします。感覚と知性によって生じる認識は、主体と対象、わたしとあなたの距離を縮めますが、なくしはしません。しかし、愛は引き寄せ、交わりを作り出します。ついには、愛する主体と愛される対象の間で、変容と同一化が起こるに至ります。このような愛情と共感に基づく相互関係は、理性だけで行う認識よりもはるかに深い認識を可能にします。そこからギヨームの有名なことばの意味が分かります。「愛そのものが認識です(Amor ipse intellectus est)」。すなわち、すでに愛自身のうちに認識が始まっているのです。親愛なる友人の皆様。わたしたちは自らに問いかけます。これはわたしたちの生活にもいえることではないでしょうか。たしかにわたしたちは、自分が愛する人、愛するものだけを本当に知っているといえるのではないでしょうか。なんらかの共感がなければ、だれをも、また何をも知ることはできません。そしてこれはとりわけ、神とその神秘を知ることについていえます。神はわたしたちの知性が把握する力を超えているからです。神は愛されることによって知られるのです。
  サン=ティエリのギヨームの思想のまとめは、モン=ディユ(Mont-Dieu)のカルトゥジア会修道士たちにあてて書かれた長い手紙に収められています。ギヨームがこの修道院を訪問したところ、その修道士たちは励ましと慰めを求めたのです。ベネディクト会の学者ジャン・マビヨン(Jean Mabillon 1632-1707年)は1690年、この手紙に『黄金書簡』(Epistola aurea)という意味深い標題をつけました。実際、この手紙に含まれる霊的生活に関する教えは、神との交わりと聖性を深めることを望むすべての人にとって貴重なものです。この論考の中で、ギヨームは3段階の道のりを示します。ギヨームはいいます。人は「動物的」人間から「理性的」人間へと歩んだ後、「霊的」人間に達しなければなりません。ギヨームはこの3つのことばで何をいおうとしているのでしょうか。初めに人は、信仰に促された生活についての考え方を、従順と信頼をもって受け入れます。次いで人は、内面化の過程を通じて――そこでは理性と意志が重要な役割を果たします――、キリストへの信仰を深い確信をもって受け入れます。そして、信じ、希望することと、魂すなわちわたしたちの理性と愛情のひそかなあこがれとが、ぴったりと対応することを体験します。このようにして、信じることがらが内的喜びと、神との本当の喜ばしい交わりとの源泉となるとき、人は霊的生活の完成に達します。人は愛のうちに、愛のためにのみ生きるのです。ギヨームはこのような道のりを、古代ギリシア教父、特にオリゲネス(Origenes 185頃-254年頃)から霊感を受けた堅固な人間観の上に基礎づけました。オリゲネスは大胆なことば遣いをもってこう教えたからです。人間の召命は神のようになることです。神は人間をご自身の像と似姿に従って造られたからです。人間の中にある神の像は、人間が神の似姿となるように促します。つまり、自分の意志と神の意志がますます完全に一つとなるようにと促します。人はどれほど真実で寛大になったとしても、自分の力で、ギヨームが「霊の一致」と呼ぶこのような完徳に達することができません。自分以外のものが必要だからです。このような完徳に達することを可能にするのは、聖霊のわざです。聖霊は魂のうちに住み、人間のうちにある魂の動きと望みをことごとく愛のうちに清め、奪い、造り変えます。『黄金書簡』にはこう書かれています。「さらにもう一つの神の似姿があります。この似姿はもはや似姿ではなく、霊の一致と呼ばれます。なぜなら、人は神と一致して、一つの霊となるからです。それは、同じ一つのことを望むだけでなく、他のことを望むことができないからです。こうして人は神となるのではなく、神がそうであるところの者となることができます。神の恵みによって、人は神が本性上そうであるところの者となるのです」(『黄金書簡』:Epistola aurea 262-263, SC 223, pp. 353-355)。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちはサン=ティエリのギヨームを「愛と神の愛の歌手」と呼ぶことができます。ギヨームはわたしたちにこう教えます。あなたがたの人生の中で、他のすべての決断に意味と価値を与えるような、根本的な決断を行いなさい。神を愛しなさい。そして、神への愛のゆえに、隣人を愛しなさい。このようにして初めてあなたがたは、永遠の至福の先取りである、まことの喜びを味わうことができるでしょう。それゆえ、聖人たちの学びやで学ぼうではありませんか。それは、真実、完全なしかたで愛することができるようになり、わたしたちの人生の道を歩むためです。若くして教会博士となった聖人、幼いイエスのテレジア(1873-1897年)とともに、わたしたちも主にいおうではありませんか。わたしたちは愛で生きたいと望みます。聖テレジアの祈りをもって終わりたいと思います。

 「あなたはご存じです 神なるイエス
  わたしがあなたを愛していることを
  愛の霊は その火でわたしを燃やします
  あなたを愛することによって
  わたしは御父を引きよせます
  わたしの弱い心は 永久に御父を保っています
  おお 聖三位よ! あなたがたは囚(とりこ)でいらっしゃいます
    わたしの愛の!

  愛で生きる とは 限度なしに与えること 
  この世での報酬を要求せずに
  ああ! わたしは数えずに与えます
  愛するとき 人は計算しないと確信して!・・・・
  慈愛(いつくしみ)にあふれる神のみ心に
  わたしはすべてを与えました・・・・
  軽々とわたしは走ります
  わたしはもう何も持っていません
  わたしの唯一の富のほかには・・・・
  (それは)愛で生きる(こと)」
  (「詩17(1895年2月26日)」、『テレジアの詩』伊庭昭子訳、中央出版社、1989年、116-118 頁。ただし表記を一部改めた)。

略号
PL Patrologia Latina
SC Sources Chrétiennes

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