教皇ベネディクト十六世の204回目の一般謁見演説 ドイツのルペルトゥス

12月9日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の204回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第23回として、「ドイツのルペルトゥス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日わたしたちは12世紀のもう一人のベネディクト会修道士を知ることになります。彼の名はドイツのルペルトゥス(Rupertus Tuitiensis 1076頃-1129年)です。ドイツ(Deutz)はケルン近郊の町で、有名な修道院が置かれていました。ルペルトゥス自身が、『人の子の栄光と栄誉について』(De gloria et honore Filii hominis super Mattheum)という、もっとも重要な著作の中で自分の生涯について語っています。この著作はマタイによる福音書の部分的な注解です。ルペルトゥスは、まだ幼いときにリエージュにあるベネディクト会の聖ラウレンティウス修道院に「献身者」として預けられました。これは、子どもの一人を修道院にゆだねて教育を受けさせ、神へのささげものとするという、当時の習慣に従ったものでした。ルペルトゥスはいつも修道生活を愛しました。彼は聖書を学び、典礼にあずかるために、すぐにラテン語を習得しました。ルペルトゥスは、このうえない道徳的正しさと、聖ペトロの座への堅固な愛において際立っていました。
  ルペルトゥスの生きた時代の特徴は、いわゆる「叙任権闘争」による教皇権と帝権の対立です。以前の講話で触れたとおり、この「叙任権闘争」により、教皇は、司教任命と裁治権の行使が公権に依存することを阻止しようと望みました。公権を導くのは主として政治的・経済的動機であり、いうまでもなく司牧的動機ではなかったからです。リエージュの司教オトベルトゥス(Otbertus 在位1091-1119年)は教皇の命令に抵抗して、聖ラウレンティウス修道院の修道院長ベレンガリウス(Berengarius 1116年没、在任1077-没年)を追放しました。それはまさにベレンガリウスが教皇に忠実だったためでした。この修道院に住んでいたルペルトゥスは、追放された自分の修道院長にためらうことなく従いました。そして、司教オトベルトゥスが教皇との交わりを回復すると、リエージュに戻り、司祭叙階を受けました。実際、このときまでルペルトゥスは、教皇に従わない司教から叙階を受けようとしなかったのです。ルペルトゥスはわたしたちにこう教えます。教会の中に論争が起きたとき、健全な教理への忠実を保証し、内的な落ち着きと自由を与えてくれるのは、ペトロの奉仕職を基準とすることです。オトベルトゥスとの諍(いさか)いの後も、ルペルトゥスはさらに2回、修道院を離れなければなりませんでした。1116年、論敵たちが彼を訴えようとしました。訴えられたあらゆる罪を免れたものの、ルペルトゥスはしばらくの間ジークブルクに赴くことを選びました。しかし、リエージュの修道院に戻ってからも論争は終わらなかったため、彼は最終的にゲルマニアに住むことに決めました。1120年ドイツの修道院長に任命された彼は、1129年に亡くなるまでそこにとどまりました。ドイツを離れたのは1124年に行ったローマ巡礼の一度だけでした。
  多作の著作家であったルペルトゥスはきわめて多くの著作を残しました。これらの著作は現代においても興味深いものです。それはルペルトゥスが当時のさまざまな重要な神学論争にかかわったためでもあります。たとえば彼は、聖体論争に決定的な形で介入しました。この論争により、1077年、トゥールのベレンガリウス(Berengarius Turonensis 1005頃-1088年)が断罪されることになります。トゥールのベレンガリウスは聖体の秘跡におけるキリストの現存を否定的に解釈し、この現存は象徴的なものにすぎないと述べたのです。「実体変化」ということばはまだ教会の用語として使われていませんでしたが、ルペルトゥスはときに大胆な表現を用いながら、聖体の現実をはっきりと支持しました。そして、特に『聖務について』(Liber de divinis officiis)という著作の中で、キリストの受肉したみことばのからだと、パンとぶどう酒という聖体の二つの形態に現存するからだが一体であることをはっきりと主張しました。親愛なる兄弟姉妹の皆様。この点についてわたしたちは今の時代についても考えてみなければならないように思われます。現代においても、聖体の現実を見直す危険が存在します。すなわち、聖体を単なる交わりと社交のための儀式とみなし、復活したキリストが聖体のうちに、その復活したからだとともに、現実に現存することをいとも簡単に忘れるという危険です。キリストの復活したからだは、自らをわたしたちの手にゆだねて、わたしたちを「自分の外に出るようにと引き寄せます」。わたしたちをご自分の不死のからだに「組み入れます」。そして、わたしたちを新しいいのちへと「導きます」。主は完全に現実的なしかたで聖体の二つの形態のうちに現存されます。この偉大な神秘を常に新たに礼拝し、愛さなければなりません。ここでわたしは『カトリック教会のカテキズム』のことばを引用したいと思います。『カトリック教会のカテキズム』の中には、2000年にわたる信仰に基づく黙想と神学的考察の成果が収められています。「イエス・キリストは、唯一で比類のないしかたで聖体の中に現存しておられます。実際、イエス・キリストは、真に、現実に、実体的に、つまり、そのからだと血、霊魂と神性とともに現存しておられます。だから聖体の中に、神であり人である全キリストが、秘跡的に、つまりパンとぶどう酒の形態のもとに現存しておられます」(『カトリック教会のカテキズム』1374、『カトリック教会のカテキズム要約』282)。ルペルトゥスも、その考察をもって、このような正確な定式化に貢献しました。
  修道院長ルペルトゥスがかかわったもう一つの論争は、神のいつくしみと全能と、悪の存在がどうして両立するかという問題に関するものです。もし神が全能でいつくしみ深いかたなら、悪の現実をどのように説明すればよいのでしょうか。実際、ルペルトゥスはラン(Laon)の神学学派の教師がとった立場に反論しました。この人々は一連の哲学的推論によって、神の意志のうちに「承認すること」と「認めること」を区別しました。そして、神は悪を承認することなしに、したがって悪を意欲することなしに、これを認めるのだと結論づけました。これに対してルペルトゥスは哲学を使用することを放棄します。彼は哲学はこのような大問題を扱うのに適していないと考えたからです。そして、ただ聖書の記述に忠実にとどまります。ルペルトゥスは神のいつくしみから、すなわち、神はこのうえないいつくしみであり、善を意欲することしかできないという真理から出発します。こうしてルペルトゥスは、悪の起源を人間自身と、人間の自由の濫用のうちに見いだします。ルペルトゥスはこの議論を述べるとき、宗教的霊感に満ちたことばを語ります。それは、御父の限りないあわれみと、罪深い人間に対する神の忍耐と寛大さを賛美するためです。
  中世の他の神学者たちと同様、ルペルトゥスも自らにこう問いかけます。神のみことば、すなわち神の御子はなぜ人となられたのか。一部の、そして多くの人は、みことばの受肉は人間の罪を償うために必要だったと説明することによって、この問いにこたえました。これに対してルペルトゥスは、キリストを中心とする救いの歴史という観点によってものの見方を広げます。そして、『三位一体の栄光化と聖霊の発出について』(De glorificatione Trinitatis et processione Spiritus Sancti)という著作の中で、次の主張を行います。歴史全体の中心的な出来事である受肉は、世の初めから、つまり人間の罪とも無関係に予定されていました。それは、すべての被造物が父である神を賛美し、神の子キリストの周りに集められた一つの家族としてこの神を愛することができるようになるためです。そこでルペルトゥスは、黙示録の身ごもった女のうちに人類の歴史の全体を見いだします。人類の歴史の全体はキリストへと方向づけられています。それは受胎が出産へと方向づけられているのと同じです。このようなものの見方は、他の思想家によって発展され、同時代の神学によっても用いられました。そこでは、こういわれます。世界と人類の歴史全体は、キリストの出産へと方向づけられた受胎であると。ルペルトゥスが聖書の諸書の注解の中で行った釈義の常に中心にあったのもキリストです。ルペルトゥスは熱心に情熱をこめて聖書註解に取り組みました。こうして彼は、創造から世の終わりの完成に至るまでの救いの歴史の出来事全体のうちに驚くべき統一性を再発見しました。ルペルトゥスはいいます。「聖書全体は唯一の書物です。この書物は同じ目的(すなわち神のみことば)を目指します。それは唯一の神に由来し、唯一の霊によって書かれました」(『三位一体の栄光化と聖霊の発出について』:De glorificatione Trinitatis et processione Spiritus Sancti I, V, PL 169, 18)。
  ルペルトゥスは聖書解釈において、教父の教えを繰り返すだけにとどまらず、独創性も示しています。たとえば彼は、雅歌の花嫁は至聖なるマリアのことだと述べた最初の著作家です。そこから、聖書の雅歌という書についてのルペルトゥスの注解は、一種のマリア論「大全(summa)」となりました。この注解の中で、マリアの特典と卓越した美徳が示されます。注解の霊感に満ちた箇所の中で、ルペルトゥスは述べます。「ああ、愛すべき者の中でもっとも愛すべきかた、おとめの中のおとめであるかたよ。あなたの愛する御子は、何をあなたのうちで賛美しておられるのでしょうか。天使たちの合唱隊全体がこの御子をたたえるというのに。賛美されるものは、簡素さ、清さ、無垢、教え、慎み、謙遜、心と肉体の調和、すなわち、汚れのない処女性です」(『雅歌注解』:Commentaria in Canticum Canticorum 4, 1-6, CCCM 26, pp. 69-70)。ルペルトゥスの雅歌のマリア的解釈は、典礼と神学の幸いな調和の模範です。実際、聖書のこの雅歌という書のさまざまな箇所がすでにマリアの祝日の典礼の中で用いられていました。
  さらにルペルトゥスは、自らのマリア論を教会論に組み込もうと努めました。いいかえると、彼は至聖なるマリアのうちに教会全体のもっとも聖なる部分を見いだしました。なぜわたしの敬愛すべき先任者である教皇パウロ六世が、第二バチカン公会議第3会期終了時に、マリアを教会の母と荘厳に宣言した際、ルペルトゥスの著作に書かれたことばを引用したかが分かります。ルペルトゥスはマリアが教会の「もっとも偉大で、もっとも優れた部分(portio maxima, portio optima)」(『ヨハネ黙示録注解』:Commentaria in Apocalypsim Joannis apostoli I, 7, PL 169, 1043参照)だと述べたのです。
  親愛なる友人の皆様。この足早のスケッチからも、ルペルトゥスがまことの深みを備えた、熱心な神学者であったことを知ることができます。修道院神学のすべての代表者たちと同様、彼は信仰の神秘の合理的研究を祈りおよび観想と結びつけることができました。観想はあらゆる神認識の頂点だと考えたからです。彼自身、何度も自らの神秘体験について語っています。たとえば彼は、主の現存に気づいたときの言い表しがたい喜びをこう打ち明けます。ルペルトゥスはいいます。「この短い瞬間の中で、わたしは主ご自身がいわれたことがどれほど真実であるかを体験しました。『わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい』(マタイ11・29)」(『人の子の栄光と栄誉について』:De gloria et honore Filii hominis super Mattheum 12, PL 168, 1601)。わたしたちも、おのおの自分のやり方で、主イエスと出会うことができます。主イエスは絶えずわたしたちとともに道を歩んでくださり、わたしたちの救いのための聖体のパンとみことばのうちにご自身を現存させてくださるからです。

略号
CCCM Corpus Christianorum Continuatio Mediaevalis
PL    Patrologia Latina

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