教皇ベネディクト十六世の2009年12月13日の「お告げの祈り」のことば キリスト者の喜び

教皇ベネディクト十六世は、待降節第3主日の12月13日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタ […]


教皇ベネディクト十六世は、待降節第3主日の12月13日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇は、最近アフリカで4人の宣教者が殺害されたことについてイタリア語で次のように述べました。
「今週、アフリカのいくつかの国から、4名の宣教者の殺害に関する悲しい知らせが届きました。殺害された4名は、ダニエル・チジミャ神父、ルイ・ブロンデル神父、ジェリー・ロウシュ神父、ドニーズ・カハンブ修道女です。この福音の忠実な証人は、自分のいのちまでも危険にさらしながら、福音を勇気をもって告げ知らせることができました。わたしは、悲しみのうちにあるご遺族と共同体にお悔やみ申し上げるとともに、すべての人にわたしとともに祈ってくださるようお願いします。主がご自身の家にこの4人を迎え入れ、彼らの死を悲しむ人々に慰めを与え、ご自身の来られるとき、和解と平和をもたらしてくださいますように」。
ダニエル・チジミャ・ナカマガ(Daniel Cizimya Nakamaga)神父(享年51歳)は12月6日(日)、コンゴ民主共和国東部の都市ブカヴに近いカバレの自宅で銃殺されました。2日後の12月8日(火)、ドニーズ・カハンブ(Denise Kahambu)修道女はブカヴ北部のトラピスト修道院で殺害されました。ルイ・ブロンデル(Louis Blondel)神父(享年70歳)は、12月6日、南アフリカ共和国のディップスラウットにある司祭館で銃殺されました。ジェリー・ロウシュ(Jerry Roche)神父(享年68歳)は、12月11日(金)晩、ケニア共和国のケリチョの自宅で殺害されました。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  早くも待降節第3主日となりました。今日の典礼では使徒パウロの招きがこだまします。「主において常に喜びなさい。重ねていいます。喜びなさい。・・・・主はすぐ近くにおられます」(フィリピ4・4-5)。母なる教会は、降誕祭に向けてわたしたちとともに歩みながら、わたしたちがキリスト者の喜びの意味と味わいを再発見できるように助けてくださいます。この喜びは世の喜びとはたいへん異なります。今日の主日は、恒例に従って、ローマの子どもたちが、自分たちの馬小屋に飾る幼子イエスのご像を教皇に祝福してもらうために来られます。実際わたしは、ここサンピエトロ広場に、多くの子どもと青年の皆様がご両親や教師、カテキスタのかたがたとともに来ておられるのを目にしています。親愛なる皆様。深い感動をもって皆様にごあいさつ申し上げます。そして、おいでくださったことを感謝します。皆様が家庭の中で馬小屋を飾る習慣を続けておられるのを知って、うれしく思います。けれども、それがどれほど大切だとはいえ、伝統行事を繰り返すだけでは足りません。馬小屋が表していることを毎日生きるよう努めることが必要です。馬小屋が表していることとは、キリストの愛とへりくだりと貧しさです。聖フランシスコ(1181/1182-1226年)がグレッチオ(ローマ近郊の村)で行ったのはまさにそのことです。フランシスコがご降誕の光景を再現したのは、降誕を観想し、礼拝するため、そして何よりも、神の子の伝えたメッセージをますます実行に移せるようになるためでした。神の子は、わたしたちへの愛のゆえに、すべてを捨てて、小さな幼子となったからです。
  わたしたちがローマでいうところの「幼子」の祝福は、馬小屋が人生の学びやであることを思い起こさせてくれます。この馬小屋で、わたしたちはまことの喜びの秘訣を学ぶことができるからです。まことの喜びとは、多くのものを所有することではありません。むしろそれは、主が愛してくださっていることを感じ、他の人のために自分をささげ、愛し合うことのうちにあります。馬小屋に目を向けたいと思います。聖母と聖ヨセフはそれほど幸せな家族だったとは思われません。二人は最初の子をたいへんな困難のただ中で受けとめました。それでも二人は深い喜びに満たされました。なぜなら、二人は互いに愛し合い、助け合っていたからです。何よりも、自分たちの歴史の中で神が働いておられることを確信していたからです。神は小さなイエスのうちにご自身を示してくださったのです。羊飼いたちはどうでしょうか。羊飼いたちはなぜ喜ばなければならなかったのでしょうか。いうまでもなく、みどりごは彼らの貧しさや除(の)け者にされた境遇を変えてくれるわけではありません。けれども、彼らは信仰の助けによって、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」のうちに、「しるし」を見いだすことができました。すなわち、神は、「み心にかなう」すべての人のために、また羊飼いたちのためにも、ご自分の約束を実現してくださったという「しるし」です(ルカ2・12、14)。
  親愛なる友人の皆様。ここにまことの喜びがあります。まことの喜びとは、わたしたちの個人また共同体としての生活が大いなる神秘の訪れを受け、この神秘で満たされていると感じることです。大いなる神秘とは、神の愛の神秘です。わたしたちは喜ぶために、物だけではなく、愛と真理を必要とします。わたしたちは近くにおられる神を必要としています。わたしたちの心を温め、深い望みにこたえてくださる神を必要としています。この神が、おとめマリアから生まれたイエスのうちに示されました。だから、わたしたちが馬小屋や降誕の洞窟の中に飾る「幼子」は、万物また世界の中心なのです。祈りたいと思います。すべての人がおとめマリアと同じように、幼子となられた神を、自分の人生の中心に受け入れることができますように。幼子こそ、まことの喜びの泉です。

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