教皇ベネディクト十六世、降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2009.12.25)

12月25日(金)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は降誕祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ(ウルビ・エト・オルビ)」と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されます。 […]


12月25日(金)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は降誕祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ(ウルビ・エト・オルビ)」と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されます。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
メッセージの発表の後、65か国語による祝福が述べられました。教皇は53番目に日本語で次のように述べました。「クリスマスと新年おめでとうございます」。最後の祝福は、メッセージの中でも引用されていることばを用いて、ラテン語で行われました。「光は今日わたしたちの上に輝き、わたしたちのために救い主が生まれた(Lux fulgebit hodie super nos, quia natus est nobis Dominus)」。


  親愛なるローマと全世界の兄弟姉妹の皆様、
  そして、主に愛されたすべてのかたがたへ。

  「光は今日わたしたちの上に輝き、
  わたしたちのために救い主が生まれた
  (Lux fulgebit hodie super nos,
  quia natus est nobis Dominus)」(ローマ・ミサ典礼書、主の降誕の早朝のミサ、入祭唱)。

 早朝のミサはわたしたちにこう思い起こさせてくれます。夜は去り、朝が始まりました。ベツレヘムの洞窟から発する光がわたしたちの上に輝きます。
  しかし、聖書と典礼がわたしたちに語るのは、自然の光ではありません。むしろ、それとは別の、特別な光です。この光は、ある意味で「わたしたち」に向かい、注ぎます。この「わたしたち」のためにベツレヘムの幼子は「生まれた」のです。この「わたしたち」とは、教会です。教会とは、世界中でキリストを信じる者から成る偉大な家族です。信じる者は救い主の新たな誕生を希望をもって待ち望んできました。そして、今日、神秘のうちに、この出来事の変わることのない意味を祝います。
  初め、ベツレヘムの飼い葉桶の周りで、この「わたしたち」は人間の目にはほとんど見えないものでした。聖ルカによる福音書が語ってくれるとおり、この「わたしたち」には、マリアとヨセフ以外には、身分の卑しいわずかの羊飼いが含まれるだけでした。羊飼いたちは天使が告げた洞窟にやって来たのです。最初の降誕祭の光は、暗闇の中にともる火のようなものでした。周りにあるのは暗闇だけでした。しかし、洞窟の中にはまことの光が輝いていました。この光が「すべての人を照らす」(ヨハネ1・9)のです。とはいえ、これらの出来事はすべて、簡素な隠れた形で起きました。すなわち、神が救いの歴史全体の中でわざを行われたしかたに従って。神はわずかな光をともすことを好まれます。それは、その後、大きな空間を照らすためです。真理も、真理の内容である愛も、光を受け入れるところにともります。それから、同心円状に広がります。あたかも触れ合うことを通して。真理の輝きに進んで心を開き、自ら光の源となる人々の心と思いの中に。これが教会の歴史です。教会はベツレヘムの貧しい洞窟の中で歩み始めました。そして、世々を通して民となり、人類の光となっていきました。今日も、あの幼子と出会う人々を通じて、神は世の闇の中に火をともしてくださいます。それは、人々がイエスのうちに、神がともにいて救いをもたらし、解放してくださることの「しるし」を見いだし、キリストを信じる者から成る「わたしたち」を全人類にまで広げるよう招くためです。
  神の愛を受け入れる、この「わたしたち」がいるところに、キリストの光が輝きます。たとえどんなに困難な状況の中でも。教会は、おとめマリアと同じように、世に御子イエスを示します。マリア自身がたまものとして受け入れたイエスを。人類を罪の奴隷から解き放つために来られたイエスを。マリアと同じように、教会は恐れることがありません。この幼子が教会の力だからです。しかし教会は幼子を自分だけのためにとっておくことができません。教会は幼子を示します。誠実な心で幼子を探し求めるすべての人に。地上で身分の低い人、苦しむ人に。暴力の犠牲となった人に。平和という善を切望する人に。今日も教会は、深刻な経済危機によって深く苦しむ人類家族のために、それ以上に、道徳の危機と、戦争や紛争の痛ましい傷によって深く苦しむ彼らのために、人類との連帯と忠実をもって、牧者とともに繰り返していいます。「さあ、ベツレヘムへ行こう」(ルカ2・15)。ベツレヘムで、わたしたちの希望を見つけようと。
  教会という「わたしたち」は、イエスが生まれた地である聖地にも生きています。それは、聖地の人々が暴力と復讐に基づくあらゆる考え方を捨て、新たな力と寛大さをもって平和共存への道を歩むように招くためです。教会という「わたしたち」は他の中東諸国にもいます。イラクにおける苦悩に満ちた状況と、イラク地域に住むキリスト者の小さな群れのことを思わずにいられるでしょうか。彼らはときには暴力や不正に苦しんでいますが、衝突や隣人の排除に基づく考え方に逆らい、市民の共存を築くために自ら役立とうとつねに努めています。教会という「わたしたち」はスリランカ、朝鮮半島、フィリピンや、他のアジア諸国でも、和解と平和のパン種として働いています。アフリカ大陸でも、教会は、コンゴ民主共和国におけるあらゆる横暴の終結を願うために、神に声を上げ続けています。ギニアとナイジェリアの市民に、すべての人の権利の尊重と対話を求めます。マダガスカルの人々に、国内の分裂を乗り越えて、互いに受け入れ合うよう呼びかけます。教会はすべての人に、悲惨な状態と試練と困難に苦しんでいても、彼らが希望へと招かれていることを思い起こさせます。ヨーロッパとアメリカにおいて、教会という「わたしたち」は、利己的で技術中心的な考え方を乗り越え、共通善を推進し、胎児から始めて、もっとも弱い人を尊重するよう促します。ホンジュラスにおいて、教会は国家再建への歩みを助けます。ラテンアメリカ全土で、教会という「わたしたち」は彼らのあるべき姿を示し、真理と愛の充満となります。いかなるイデオロギーも真理と愛に取って代わることはできません。そして、すべての人の不可侵の権利の尊重と、すべての人の完全な発展に向けて呼びかけ、正義と兄弟愛を告げ知らせます。正義と兄弟愛こそが一致の源泉です。
  教会の創設者であるかたの命令に従い、教会は、自然災害や、貧困に苦しむ人と連帯します。この貧困は豊かな社会にも存在します。人々が故国を離れ、飢餓と不寛容、あるいは環境悪化から逃れて移住するのを前にして、教会は彼らの受け入れを呼びかけます。一言でいえば、教会はいたるところでキリストの福音をのべ伝えます。迫害や、差別や、攻撃、ときには敵対的な無関心に遭ってもです。むしろこれらのことは、教会が、師であり主であるかたの運命にあずかることを可能にするのです。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。すべての人に開かれた交わりにあずかるというこの恵みは、どれほど偉大なものでしょうか。それは至聖なる三位一体の交わりにほかなりません。この三位一体の中心から、「インマヌエル」、すなわち、わたしたちとともにおられる神であるイエスは世に降って来られたのです。ベツレヘムの羊飼いと同じように、驚きと感謝に満たされて、この愛と光の神秘を仰ぎ見ようではありませんか。皆様、クリスマスおめでとうございます。

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