教皇ベネディクト十六世の2010年1月10日の「お告げの祈り」のことば 洗礼の恵み

教皇ベネディクト十六世は、主の洗礼の祝日の1月10日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は、主の洗礼の祝日の1月10日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「この数日間、二つのことがとくにわたしの注意を引いています。一つは移住者の状況の問題です。移住者たちは、さまざまな理由で彼らを必要とする国々でよりよい生活を送ることを求めています。もう一つは世界のさまざまな地域における紛争の状況です。これらの地域ではキリスト者が、攻撃や、場合によって暴力の対象となっています。
  問題の中心から再出発しなければなりません。すなわち、人格の意味から再出発しなければなりません。移住者は人間です。出身地、文化、伝統を異にしてはいても、権利と義務を有する人格として、彼らを尊重すべきです。それはとくに搾取への誘惑が強い労働の場についていえますが、生活の具体的な状況についてもいえます。暴力を決して問題を解決するための手段としてはなりません。問題は何よりもまず人間に関することがらなのです。どうか他の人の顔を見つめ、人が魂と歴史といのちをもっていることを見いだしてください。人間は人格です。神は、わたしを愛してくださるのと同じように、その人をも愛しておられるのです。
  宗教を異にする人々についても同じような考察を行いたいと思います。一部の国におけるキリスト者への暴力が多くの人の怒りを招いています。とくにそれは、この暴力がキリスト教的伝統の中でもっとも聖なる日々に示されたためです。わたしはあらためてこのことを強調したいと思います。政府当局者も宗教当局者も、自らの責任をおろそかにすべきではありません。神の名において暴力を振るってはなりません。同胞の尊厳と自由を損なうことによって神をたたえられるなどと考えてはなりません」。
イタリア南部カラブリア州ロザルノでは、7日(木)以降、差別への抗議のためデモを行ったアフリカ系移民の農場労働者と地元民が衝突し、9日(土)までに67人が負傷しました。
エジプト南部ケナ州のナグ・ハマディでは、6日(水)夜、降誕祭の深夜ミサを終えて教会から出たコプト教会の信者に、車に乗った男3人が自動小銃を乱射し、信者ら7人が死亡、6人が重傷を負いました。8日(金)、エジプト治安当局は地元のイスラーム教徒の男3人を逮捕しました。
マレーシアでは昨年12月31日(木)、クアラルンプール高裁がカトリック系新聞に「アラー」の単語の使用を認める判決を下しましたが、政府は控訴しました。これをきっかけに、反発するイスラーム教徒が抗議デモを起こし、7日夜から首都クアラルンプールの複数の教会が焼き打ちに遭いました。10日未明にはマレー半島中部ペラ州にある2箇所の教会も被害に遭っています。 

この日、教皇は午前10時からシスティーナ礼拝堂でミサをささげ、ミサの中で14名の新生児に洗礼を授けました。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今朝、システィーナ礼拝堂でささげたミサの中で、わたしは幾人かの新生児に洗礼の秘跡を授けました。この慣習は今日の主の洗礼の祝日にちなんだものです。主の洗礼の祝日をもって降誕節は終わります。主の洗礼は降誕祭のもつ広い意味をよく示してくれます。降誕祭の中で中心的な位置を占める要素は、「神の子となる」というテーマです。独り子がわたしたちと同じ人間となったからです。独り子が人間となったのは、わたしたちが神の子となることができるためです。神が「生まれた」のは、わたしたちが「新たに生まれる」ことができるためなのです。この考えは降誕祭の朗読箇所に何度も現れて、わたしたちの考察と希望を力強く促してくれます。わたしたちは聖パウロがガラテヤの信徒にあてて書いたことに思いを致します。「神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者をあがない出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤ4・4-5)。また、聖ヨハネはその福音書の序文でこう書いています。「ことばは、自分を受け入れた人・・・・には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1・12)。わたしたちの「第二の誕生」――すなわち、人間が「上から」、つまり神から「新たに生まれる」(ヨハネ3・1-8参照)――という驚くべき神秘は、洗礼の秘跡のしるしによって実現し、要約されます。
  洗礼の秘跡により、人は本当に「子」、すなわち神の子になります。このときから、人の生涯の目的は、最初から人間が目指すべき目的に、自由かつ自覚的に到達することとなるのです。「本来の姿となる」――これが、恵みによってあがなわれた人間の人格を教育する上で基盤となる原則です。この原則は人間の成長と多くの点で類似しています。人間の成長過程では、親子の関係は、反発と危機を経て、子であることの自覚への全面的な依存から、いのちを与えられたことへの感謝、大人としての成熟、いのちをささげられる力へと移行します。洗礼によって新たないのちに生まれたキリスト信者も、信仰における成長の歩みを始めます。この歩みを通して、キリスト信者は、自覚的に神を「アッバ、父よ」と呼び、感謝をもって神に向かい、神の子である喜びを生きることができるようになるのです。
  社会の模範も洗礼に由来します。すなわち、「友愛」です。イデオロギーも、ましてや、ある種の権力者が定めた法令も、友愛を築くことはできません。わたしたちは、自らが唯一の天の父の子であることを謙遜に、深く自覚することによって、自分たちが兄弟であることを認めます。わたしたちキリスト者は、洗礼を通じて与えられた聖霊によって、神の子として、そして兄弟として生きる恵みと務めをもっています。それは、平和と希望によって一致し、豊かにされた新しい人類の「パン種」となるためです。そのために、天の父だけでなく、母なる教会をもっているという自覚が、わたしたちを助けてくれます。おとめマリアはこの教会の永遠の模範です。わたしは、新たに洗礼を受けた幼児たちとそのご家族をおとめマリアにゆだねるとともに、すべての人に日々「上から」、神の愛によって新たに生まれる喜びが与えられることを祈り求めます。神はわたしたちを神の子とし、また互いに兄弟としてくださるからです。

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