教皇ベネディクト十六世の209回目の一般謁見演説 キリスト教一致祈祷週間

1月20日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の209回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「キリスト教一致祈祷週間」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日は「キリスト教一致祈祷週間」の真ん中に当たります。このエキュメニカルな行事は、100年以上前から行われてきました。そしてそれは毎年一つのテーマに目を向けさせます。すなわち、キリスト者の目に見える一致です。このテーマは良心に呼びかけ、キリストを信じるすべての人の行動を促します。とくにこの行事は、イエスご自身に倣って祈るよう招きます。イエスは弟子たちのために御父にこう祈られたからです。「すべての人を一つにしてください。・・・・そうすれば、世は・・・・信じるようになります」(ヨハネ17・21)。主の弟子の完全な一致のために祈るようにという、絶え間ない呼びかけは、エキュメニズムの探求全体の真の深い方向性を示します。なぜなら、一致は何よりも神が与えてくださるたまものだからです。実際、第二バチカン公会議はいいます。「キリストの単一唯一の教会の一致の中にすべてのキリスト教徒を和解させるというこの聖なる目標は人間の力と才能を越えるものである」(『エキュメニズムに関する教令』24)。それゆえ、友好関係の発展や、教会・教会共同体の違いを解明・解決する対話の推進に向けた努力以上に必要とされるのは、信頼をもって、心を一つにして主に祈り求めることです。
  今年の「キリスト教一致祈祷週間」のテーマは聖ルカによる福音書にある、復活した主の弟子たちへの最後のことばからとられました。「あなたがたはこれらのことの証人となる」(ルカ24・48)。今年のテーマは、スコットランドのエキュメニカル・グループから、教皇庁キリスト教一致推進評議会と世界教会協議会信仰職制委員会に提案されたものです。100年前、「非キリスト教的世界に関する諸問題を検討するための世界宣教会議」が、1910年6月13日から24日まで、スコットランドのエディンバラで開催されました。当時議論された問題の一つは、キリスト者が互いに分裂しながら、非キリスト教的世界に信頼の置けるしかたで福音宣教を行うことが客観的に困難だという問題でした。もしキリスト者が一致しておらず、そればかりか対立さえしているなら、キリストを知らず、キリストから遠く離れ、福音に関心を示さない世界に対して、キリストを世の唯一の救い主・わたしたちの平和と告げ知らせても信用してもらえるでしょうか。それ以来、一致と宣教の関係は、エキュメニズム活動全体の本質的次元、また出発点となりました。この特別な貢献のゆえに、エディンバラ会議は現代エキュメニズムの基準点の一つであり続けています。カトリック教会は第二バチカン公会議でこの観点を取り上げて、力強く再確認しました。公会議はいいます。イエスの弟子の分裂は「明らかにキリストの意志に反するものであり、また世にとってはつまずきであり、すべての造られたものに福音をのべるというもっとも聖なる使命にとっては妨げとなっている」(『エキュメニズムに関する教令』1)。
  「キリストをともにあかしすることの必要性」という、今年の黙想と祈りのために提案されたテーマは、このような神学的・霊的状況の中に位置づけられます。「あなたがたはこれらのことの証人となる」という、テーマとして示された短いテキストを、ルカによる福音書の24章全体との関連で読まなければなりません。24章の内容を簡単に思い起こしてみたいと思います。まず、婦人たちが墓に行き、イエスが復活したしるしを見て、自分たちが見たことを使徒と他の弟子たちに知らせました(8節)。次に、復活した主ご自身が、エマオに行く途中の二人の弟子、シモン・ペトロ、続いて「十一人とその仲間」(33節)に現れました。主は弟子たちの心の目を開いて、聖書がご自分のあがないのための死と復活について書いていることを悟らせました。そして主はいわれました。「罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々にのべ伝えられる」(47節)。ともに「集まり」、イエスの宣教の証人となる弟子たちに、復活した主は聖霊のたまものを約束されます(49節参照)。それは、弟子たちがあらゆる国の人々に対してともにイエスをあかしするためです。あなたがたは「これらのことの」証人となります(ルカ24・48参照)。この、今年の「キリスト教一致祈祷週間」のテーマとされた命令から、二つの問いが生まれます。第一の問いはこれです。「これらのこと」とは何でしょうか。第二の問いはこれです。わたしたちはどのようにして「これらのこと」の証人となることができるでしょうか。
  24章の前後関係を見ると、「これらのこと」は何よりもまず、十字架と復活を意味しています。弟子たちは主の十字架を見、復活した主を見、そこから聖書全体を理解し始めました。聖書全体が、受難の神秘と復活の恵みについて語っているからです。それゆえ、「これらのこと」とはキリストの神秘です。人となった神の子の神秘です。このかたはわたしたちのために死んで復活し、今や永遠に生きておられます。だからこのかたはわたしたちの永遠のいのちの保証です。
  しかし(これが本質的な点ですが)、キリストを知ることによって、わたしたちは神のみ顔を知るようになります。キリストは何よりもまず神を啓示されました。いつの時代にも、人間は神が存在すること、それも唯一の神が存在することを感じてきました。しかし、神は遠く離れていて、ご自身を示されません。キリストのうちに神はご自身を示されました。遠く離れた神は近くに来られました。それゆえ、「これらのこと」とは、何よりもまず、キリストの神秘であるとともに、わたしたちの近くに来られた神です。これはもう一つのことも意味します。キリストは決してひとりきりではありません。キリストはわたしたちのただ中に来られて、ひとりきりで死にました。しかしキリストは復活し、すべての人をご自身に引き寄せられます。聖書が述べるとおり、キリストはご自身により一つのからだを造り、全人類を不滅のいのちへと集められます。こうしてわたしたちは、人類を一つに集められるキリストのうちに、人類の未来を知ります。すなわち、永遠のいのちです。それゆえ、結局のところ、これらすべてのことはきわめて単純です。キリストと、そのからだと、教会の神秘と、永遠のいのちの約束を知ることによって、わたしたちは神を知るのです。
  今や第二の問いに来ました。わたしたちはどのようにして「これらのこと」の証人となることができるでしょうか。キリストを知ることによって、そして、キリストを知ることから、神をも知ることによって、初めてわたしたちはこれらのことの証人となることができます。ところで、キリストを知ることはたしかに知的な面も含みます。わたしたちはキリストについて知ることを学びます。しかし、キリストを知ることは、つねに知的な行為に尽きません。それは実存的な行為です。それは自己を開くことです。キリストの現存と力によって自分が造り変えられることです。ですからそれは他のすべての人に心を開くことです。すべての人はキリストのからだにならなければならないからです。こうして次のことが明らかになります。知的な行為として、そしてとくに実存的な行為としてキリストを知ることが、わたしたちを証人とするのです。こういいかえることができます。他人を通じてだけでなく、自らキリストを知るとき――すなわち、自分の生活から、自分がキリストと個人的に出会うことからキリストを知ることによって――初めてわたしたちは証人となれます。自分の信仰生活の中で本当にキリストと出会うことによって、わたしたちは証人となり、新しい世のために、永遠のいのちのために役立つことができるのです。『カトリック教会のカテキズム』も「これらのこと」の内容について示唆を与えてくれます。教会は、主が啓示のうちに与えてくださったことの本質的な要素を「ニケア・コンスタンチノープル信条」の中にまとめ、要約しました。「その優れた権威は、それが最初の二つの公会議(325年、381年)の実りであることに由来します」(『カトリック教会のカテキズム』195)。『カテキズム』はさらに述べます。「この信条は、東方と西方のすべての主要な教会で、今日なお共通のものとなっています」(同)。それゆえ、「ニケア・コンスタンチノープル信条」には、キリスト者がともに告白し、あかしできる信仰の真理が見いだされます。それは、世が信じるようになるためです。こうしてキリスト者は、今も存在する違いを乗り越えようとする願いと努力のうちに、キリストのからだにおける一致という、完全な交わりに向けて歩もうとする望みを表します。
  「キリスト教一致祈祷週間」を行うことにより、わたしたちはエキュメニズムにとって重要な他の側面を考察するように導かれます。何よりもまず100年前のエディンバラ会議後、教会・教会共同体間の関係が大きな進歩を遂げたことです。現代のエキュメニズム運動はきわめて進展しました。その結果、過去100年間に、エキュメニズム運動は教会生活の重要な要素となりました。それはキリスト者の一致という問題を意識させるとともに、キリスト者の交わりの成長を支えてきました。このことは、愛のおきてに基づく教会・教会共同体間の友好関係を深めただけではなく、神学研究をも刺激しました。さらにエキュメニズムは、教会・教会共同体の具体的生活と、司牧や秘跡による生活に触れるテーマにもかかわります。たとえば、洗礼の相互承認、混宗結婚にまつわる問題、厳密に限定された特定の状況における「典礼への共同参加(communicatio in sacris)」の例外的な事例です。こうしたエキュメニズム精神の発展により、相互理解を深めるための関係はペンテコステ派、福音派、カリスマ派にまで広がりました。ただしこれらの教派には深刻な問題も存在します。
  カトリック教会は第二バチカン公会議以来、すべての東方教会および西方の教会共同体と友好関係をもつようになりました。そして、とくにこれらの教会の大多数との間で、二教派間神学対話を行っています。こうした神学対話により、さまざまな点での歩み寄りや、一致も見いだされ、交わりのきずなが深められました。昨年もさまざまな対話がよい方向へと歩みを進めました。東方正教会との間では、「神学対話のための国際混合委員会」が開始しました。2009年10月にキプロスのパフォスで開催された第11回総会では、カトリック-正教会間対話における中心的なテーマが研究されました。すなわち、「第1千年期の教会の交わりにおけるローマ司教の役割」です。第1千年期とは、東方と西方のキリスト者が完全な交わりのうちに生きていた時代です。この研究は続いて第2千年期にまで拡大される予定です。わたしはすでに何度も、エキュメニズム運動全体にとって微妙で本質的な意味をもつこの対話のために祈ってくださるよう、カトリック信者の皆様にお願いしてきました。古来の東方正教会(コプト教会、エチオピア教会、シリア教会、アルメニア教会)との同様な混合委員会も、昨年の1月26日から30日まで開催されました。これらの重要な行事は、ローマとの完全な交わりのうちにない、固有の特色をもつすべての東方教会との間で、希望にあふれる、深い対話が行われていることを示しています。
  昨年は、西方の教会共同体との間での過去40年間の諸対話が到達した成果が検討されました。とくに聖公会、ルーテル世界連盟、世界改革教会連盟、世界メソジスト協議会との対話の考察が行われました。この研究を行ったのは、教皇庁キリスト教一致推進評議会です(Cardinal Walter Kasper, Harvesting the Fruits. Aspects of Christian Faith in Ecumenical Dialogue, Continuum International Publishing Group, London/New York 2009参照)。それは、二教派間対話の中で到達した歩み寄りを明らかにするとともに、依然として未解決で、新たな段階の会議を開始すべき問題を示すためです。
  最近の出来事の中で挙げたいのは、まず『義認の教理に関する共同宣言』10周年の記念です。カトリック教会とルーテル教会は2009年10月31日にこの記念を共同で行いました。それは、対話の継続を刺激するためです。もう一つは、カンタベリー大主教のローワン・ウィリアムズ師のローマ訪問です。ウィリアムズ大主教は、世界聖公会が置かれている特別な状況に関する講演もなさいました。関係と対話を継続するための共同の努力はよいしるしです。このしるしは、どれほど一致と対立する問題があっても、一致への望みがきわめて深いことを示します。そこからエキュメニズムには二つの次元があることが分かります。第一の次元は、本当に一致に達するためにできる限りのことをしなければならないという、わたしたちの責任の次元です。もう一つは、神のわざの次元です。なぜなら、教会に一致をもたらすことができるのは、神だけだからです。「自家製」の一致は人間的な一致にすぎません。けれども、わたしたちが望むのは、神によって造られた、神の教会です。この神が、お望みのときに、そしてわたしたちの準備ができたときに、一致を造り出されるのです。わたしたちは、これまでの50年間の協力と友好関係によって実際に大きな進歩があったことも心にとめなければなりません。同時に、エキュメニカルな作業は直線的に進むものではないことも知らなければなりません。実際、異なる時代状況から生まれた古い問題が重要性を失った一方で、今日の状況の中で新たな問題と困難が生じています。それゆえわたしたちは、いつも清めを行うように心がけていなければなりません。主は清めを通じて、わたしたちが一致できるようにしてくださるからです。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。エキュメニズムの複雑な現実のゆえに、また対話の推進のために、そして現代のキリスト者が現代世界に対してキリストへの忠実をあらためて共同であかしできるために、皆様が祈ってくださるようお願いします。主がわたしたちとすべてのキリスト者の祈りを聞き入れてくださいますように。わたしたちはとくにこのキリスト教一致祈祷週間の間、熱心に主に祈りをささげるからです。 

PAGE TOP