第44回「世界広報の日(2010年5月9日)」教皇メッセージ

第44回「世界広報の日(2010年5月9日)」教皇メッセージ 「司祭とデジタル世界における司牧、みことばに仕える新しいメディア」 親愛なる兄弟姉妹の皆様  司祭年を祝うにあたり、今年の世界広報の日のテーマを、「司祭とデジ […]

第44回「世界広報の日(2010年5月9日)」教皇メッセージ
「司祭とデジタル世界における司牧、みことばに仕える新しいメディア」

親愛なる兄弟姉妹の皆様

 司祭年を祝うにあたり、今年の世界広報の日のテーマを、「司祭とデジタル世界における司牧、みことばに仕える新しいメディア」とし、デジタル・コミュニケーションの中の重要で繊細な司牧的領域に焦点を当てたいと思います。司祭はそこに、神のみことばに向けた、みことばのための奉仕を行う新たな可能性を見いだすことができます。教会共同体は、コミュニケーションを促し、社会とのかかわりを深めるために最新のメディアをつねに用いてきましたし、さらに広く対話を促進するために、ますます利用しようとしています。しかも、これらのメディアは最近、その爆発的な成長と社会的影響力の増大によって、司祭職を実り豊かなものとするために、その重要性がさらに増しているのです。
 すべての司祭の中心的な務めは、神のみことばの受肉であるイエス・キリストを告げ知らせ、秘跡においてキリストの救いの恵みを伝えることです。みことばに呼び集められた教会は、神がすべての人と交わるためのしるしであり道具です。そして、すべての司祭は、キリストのうちに、キリストとともにこの交わりを築くために召し出されています。このことのうちに、司祭の使命の崇高な尊厳と美しさがあります。司祭はその使命として、使徒パウロが提起した課題に特別な方法でこたえます。「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。……『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、のべ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうしてのべ伝えることができよう」(ローマ10・11、13-15)。
 若者がとくに敏感に受け止めている今日の文化的推移の中で、この課題に適切にこたえるには、最新のコミュニケーション技術を用いる必要があります。限りないほどの表現力を持つデジタル・コミュニケーションの世界において、「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)という使徒パウロの宣言には、いっそう深い意味があります。最新技術がさらに利用しやすくなったため、みことばを告げ知らせるために召し出された人々は、より多くの責任を要求されるだけでなく、その働きにおいて意欲と能率と説得性を高めるよう求められます。司祭は新しい時代の出発点に立っています。最新技術によってより遠くの人とより深い関係が築かれる中で、司祭はみことばへの奉仕にあたって、メディアをさらに効率的に用いて司牧的に対応するように求められているのです。
 マルチメディアを用いたコミュニケーションが普及し、「選択肢」が豊富になったために、わたしたちは単にウェブ上に何かを開設すればよいとか、ただ何かを書き込んでおけばよいなどと思いがちです。しかし、司祭はまさに福音の忠実なあかしびととしてデジタル・コミュニケーションの世界で働くよう期待されています。司祭は、デジタル市場が提供するさまざまな「声」を使って、ますます自らを表現する共同体のリーダーとしての役割を適切に果たすのです。したがって、最新の視聴覚素材(画像、ビデオ、アニメーション、ブログ、ウェブサイト)を駆使して福音を告げ知らせることが司祭に要求されます。伝統的手段に加えてこれらの方法を用いることにより、対話、福音化、カテケージスのための新たな幅広い展望を開くことができるのです。
 司祭は、新しいコミュニケーション技術を用いながら、教会生活に人々を導き入れ、現代人がキリストのみ顔を見いだすのを助けることができます。彼らが養成期間からこれらの技術を適切に駆使する方法を学んでいれば、その目標を最善な形で達成できるでしょう。その際には、正統な神学的洞察を取り入れ、主との絶え間ない対話に基づく強い司祭の霊性を思い起こす必要があります。しかし、デジタル・コミュニケーションの世界で働く司祭は、メディアに関する知識よりも、司祭の心、キリストとの親しさに目を向けるべきです。キリストとの親しさは、司牧活動を活性化させるだけでなく、「ウェブ」を構成するコミュニケーションの構造に「魂」を与えるのです。
 デジタル世界において、キリストにおけるすべての人に対する神の愛情あふれる思いやりは、単なる過去の人為的産物や学術的論理としてではなく、具体的、実際的で人を引き付けるものとして表現されなければなりません。したがって、そのような世界に司牧者として存在するわたしたちは、現代人、とくに不安と混乱を経験している多くの人に、「神はわたしたちの近くにいます。つまりキリストにおいてわたしたちは皆、互いに結ばれているのです」(教皇ベネディクト十六世、教皇庁へのあいさつ、2009年12月21日)ということを示すよう努めなければなりません。
 最新のデジタル技術を駆使しながら、現代社会に神を具現化する司牧活動を、神に仕える人である司祭よりもよりよく展開し、実行できる人がいるでしょうか。また、よりよい未来を築きながら尊厳をもって今を生きるための努力を促す宝として、過去の宗教的知恵を伝えるのに、司祭よりもふさわしい人がいるでしょうか。メディアの分野で働いている奉献生活者には、新しい出会いの形への扉を開くという特別な責任があります。それと同時に、彼らは人間の交流の質を保ち、個人とその真の霊的必要に配慮しなければなりません。ですから、彼らはこのデジタル時代の人々が主の存在に気づき、期待と希望のうちに成長する助けとなることができます。また、救いをもたらし全人的発展を促す神のみことばに人々が近づく助けにもなりえるのです。このように、みことばは「サイバースペース」を作り出すありとあらゆる「ハイウェイ」が交差する多くの十字路を行き交い、今もどんな時代にも神がおられる正当な場所があることを示すことができるのです。最新のコミュニケーション・メディアのおかげで、主はわたしたちの街の通りを歩き、わたしたちの家と心の戸口の前に立ち止まり、もう一度言います。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者とともに食事をし、彼もまた、わたしとともに食事をするであろう」(黙示録3・20)。
 昨年のメッセージの中で、わたしはコミュニケーション界の指導者が人間の尊厳と価値を尊重する文化を促進するように促しました。これは、教会が現代の「デジタル大陸」において実践しなければならない「文化への奉仕」の一環です。福音を手と心に携えつつ、わたしたちは神のみことばに導く道を整え続ける必要性を再確認しなければなりません。それと同時に、わたしたちは道を探し続ける人につねに心を向ける必要があります。実際、福音化の第一歩として、わたしたちは彼らの探し求める努力を励ますべきです。司牧者は、これらのメディアを通してほかの宗教の信奉者や宗教を信じない人、そしてさまざまな文化に属している人とかかわることができます。ですから、デジタル世界において司牧者は、宗教を信じない人、失望した人、そして永遠の真実と絶対者を心の奥底でおぼろげながらも求めている人に目を向ける必要があるのです。預言者イザヤがすべての民のための祈りの家(イザヤ56・7参照)を思い描いたように、まだ神を知らずにいる人に、エルサレム神殿の「異邦人の庭」のような場を提供するものとして、ウェブを思い描くことはできないでしょうか。
 発展する最新技術と拡大するデジタル世界は、人類全体、そして人間一人ひとりの貴重な資源です。それは、出会いと対話を促すものとしての役割を果たすことができます。また、こうした発展は信者にも同様に重要な機会を与えます。復活したキリストの名のもとに他者に近づこうとする人の前では、いかなる扉も閉めることはできませんし、また閉められるべきでもありません。新しいメディアはとりわけ司祭に対して、さらに新しく広範囲にわたる司牧の可能性を提供し、教会の使命の普遍性を具体化するように促します。それは、広大な真の交わりを築くためであり、また、わたしたちを救うために来られた永遠の御子であるイエスの福音に耳を傾けることから生まれる新しいいのちを現代社会であかしするためです。それと同時に、司祭はその奉仕職の究極の実りはキリストご自身によってもたらされることを心にとどめなければなりません。司祭は、祈りのうちにキリストに出会い、耳を傾けます。そして、宣教のうちにキリストを告げ知らせ、あかしを生き、秘跡、とりわけ聖体の秘跡とゆるしの秘跡のうちにキリストを知り、愛し、祝うのです。
 親愛なる兄弟である司祭の皆様。最新の通信手段がもたらす独自の可能性を活用するよう、ここでもう一度お願いします。主が皆様すべてを、現代メディアが開放しつつある新しい「アゴラ(広場)」で熱意をもって福音を告げ知らせる者としてくださいますように。
 こうした思いとともに、わたしは皆様の上に聖母と「アルスの聖なる司祭」のご保護が与えられることを願い、皆様一人ひとりに心から使徒的祝福を送ります。

バチカンにて
2010年1月24日
聖フランシスコ・サレジオの祝日
教皇ベネディクト十六世

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