教皇ベネディクト十六世の2010年2月7日の「お告げの祈り」のことば 神の招き

教皇ベネディクト十六世は、年間第5主日の2月7日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語 […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第5主日の2月7日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「今日イタリアでは『いのちを守るための日』を行います。わたしはイタリア司教団とそのメッセージに進んで心を合わせます。メッセージのテーマは『いのちの力、貧困への挑戦』です。現在の経済危機の中で、貧困を作り出し、社会の大きな格差を生み出しながら、いのちを傷つけ、損ない、とくにもっとも無力で無防備な人々を襲う機構(メカニズム)は悲惨の度合いを深めています。それゆえ、このような状況は、貧困と困窮を克服するための完全な人間的発展を推進することを求めるとともに、次のことを思い起こさせます。人間の目指すべき目的は、繁栄ではなく、神ご自身です。そして、人間の存在をそのあらゆる段階において守り、助けなければなりません。実際、だれも自らのいのちの主人ではありません。むしろ、すべての人は、受精から自然死に至るまでのいのちを守り、尊重するよう招かれています。
  子ども、病者、高齢者への奉仕のために直接働いておられるかたがたに感謝申し上げます。そして、ローマ教区の総代理の(アゴスティーノ・ヴァッリーニ)枢機卿と他の補佐司教に率いられてここにお集まりくださったローマの信者の皆様に心からごあいさつ申し上げます。ローマ教区は『いのちを守るための日』に特別な注意を払い、これを『いのちと家庭週間』にまで延長します。この行事の成功を祈るとともに、いのちと家庭を支えるために努める専門家、諸団体、運動団体、大学教授の皆様の活動を励まします。
  このことに関連して、ルルドの聖母の記念日、また『世界病者の日』である、今週の2月11日の午前に、サンピエトロ大聖堂でわたしがミサをささげることを思い起こします」。
教皇は「世界病者の日」のミサを2月11日(木)午前10時30分からサンピエトロ大聖堂でささげる予定です。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日の年間第5主日の典礼は、神の招きというテーマをわたしたちに示します。荘厳な幻の中で、イザヤは三重に聖なるかたである主の面前に立ち、大きな恐れと、自分がふさわしくないという深い感覚に襲われます。しかし、セラフィムが炭火で彼の唇を清め、その罪を取り去ります。こうしてイザヤは自分が呼びかけにこたえる準備ができたと感じて、叫んでいいます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・1-2、3-8参照)。これと同じ連続した感覚が、今日の福音の箇所が述べる、不思議な漁(すなど)りの物語にも見られます。夜、魚がとれなかったにもかかわらず、網を降ろすようイエスに求められた、シモン・ペトロと他の弟子たちは、イエスのことばを信じて、おびただしい量の魚をとりました。この奇跡を見たシモン・ペトロは、予期せぬ漁についての喜びを表すためにイエスに抱きつくのではなく、福音書記者ルカが語るとおり、イエスの足もとにひれ伏していいます。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。するとイエスはこういってシモンを元気づけます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5・10参照)。そこでシモン・ペトロは、すべてを捨てて、イエスに従います。
  パウロも、かつて教会を迫害していたことを思い起こして、自分は使徒と呼ばれる値打ちのない者であると告白します。しかし彼は、神の恵みが自分の中で働き、自分の限界にもかかわらず、福音をのべ伝えるという名誉ある務めをゆだねられたことを認めます(一コリント15・8-10参照)。わたしたちはこの3つの体験のうちに次のことを見いだします。すなわち、神との真の出会いは、自分の貧しさと至らなさ、自らの限界と罪を人間に認めさせます。しかし、人間がこのように弱い者であるにもかかわらず、あわれみとゆるしに満ちておられる主は、人間の人生を造り変え、自分に従うように招きます。イザヤとペトロとパウロが示したへりくだりは、神から招かれる恵みを与えられた人にこう求めます。自分の限界にばかり目を向けるのではなく、主とその驚くべきあわれみに目を注ぎなさい。それは、回心して、主のために喜んで「すべてを捨て」続けるためです。実際、主は人間にとって重要なことに目を止めません。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16・7)。そして主は、貧しく無力であっても、主を信じる人々を、恐れを知らない使徒、救いの告知者とするのです。
  「司祭年」にあたり、収穫の主に祈りたいと思います。収穫のために働き手を送ってください。必要な識別の後に、主が自分に従うよう招いておられると感じた人々が、惜しみない心で主にこたえられるようにしてください。彼らが自分の力に頼るのではなく、主の恵みの働きに心を開くことができますように。とくにわたしはすべての司祭にお願いします。イザヤとペトロとパウロと同じへりくだりと信仰をもって、主の招きに日々こたえる惜しみない自由な心を新たにしてください。
  すべての召命、とくに修道生活と司祭職への召命を聖なるおとめにゆだねます。マリアがすべての人のうちに、喜びとまったき献身をもって主に「はい」とこたえる望みを呼び覚ましてくださいますように。

PAGE TOP