教皇ベネディクト十六世の2010年2月14日の「お告げの祈り」のことば 「幸い」の告知

教皇ベネディクト十六世は、年間第6主日の2月14日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第6主日の2月14日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇は春節(旧正月)を祝うアジア諸国にイタリア語で次のように述べました。
「今日、アジア諸国と(わたしはたとえば中国とベトナムに思いを致します)、世界中に散らばる多くの共同体で旧正月が祝われます。旧正月は、これらの人々が家族や世代間のきずなを強めるための特別な機会です。すべての人がこれらの民の文化に深く根ざした霊的・道徳的価値観の豊かな遺産を守り、広げることができることを祈ります」。
この日、教皇は、午前10時にローマ・テルミニ駅の「カリタス」が運営する路上生活者のための臨時宿泊所「ドン・ルイジ・ディ・リエグロ」を訪問し、講話を行いました。
今年の「四旬節メッセージ」は2月4日に発表されました。テーマは「『神の義はキリストを信じることにより示される』(ローマ3・21-22参照)」です。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  典礼暦年は偉大な信仰の旅路です。教会は、いつも母なるおとめマリアに先導されながら、この旅路を歩みます。今年の年間の主日でこの旅路にアクセントを与えてくれるのは、ルカによる福音書の朗読です。今日、ルカによる福音書は「平らな所」(ルカ6・17)へとわたしたちを導きます。この「平らな所」に、イエスは十二人とともにお立ちになります。そして、他の大勢の弟子とおびただしい民衆が、イエスの話を聞くためにそこに集まります。このような状況の中で、「幸い」の告知が行われます(ルカ6・20-26。マタイ5・1-12参照)。イエスは弟子たちに目を向けながらいわれます。「貧しい人々は、幸いである。・・・・今飢えている人々は、幸いである。・・・・今泣いている人々は、幸いである。・・・・」。わたしのために「人々に憎まれるとき、・・・・汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」。なぜイエスは彼らが幸いだというのでしょうか。なぜ神の義は、彼らを満たし、喜ばせ、偽りの告発がなされるたびに償いを与えてくださるのでしょうか。一言でいえば、なぜ神の義は彼らを神の国に受け入れるのでしょうか。幸いは、神の義が存在することに基づいています。神の義は、不当に卑しめられた者を高め、高められた者を低くします(ルカ14・11参照)。実際、福音書記者ルカは、4つの「幸いである」の後に4つの勧告を付け加えます。「富んでいるあなたがたは、不幸である。・・・・今満腹している人々、あなたがたは、不幸である。・・・・今笑っている人々は、不幸である」。そして「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」。なぜなら、イエスがいわれるとおり、ものごとは逆転して、後の人は先になり、先の人は後になるからです(ルカ13・30参照)。
  この義と幸いは「天の国」あるいは「神の国」において実現されます。「神の国」は終わりの時に完成しますが、すでに歴史の中に存在します。貧しい人々が慰められ、いのちの祝宴に受け入れられるところに、神の義は現されます。主の弟子たちは、この課題を現実社会においても果たすよう招かれています。わたしは、今朝訪問した、テルミニ駅にあるローマの「カリタス」の臨時宿泊所のことを思います。わたしはこの称賛すべき施設で働く人々と、同じような正義と愛に基づくわざを進んで果たす世界中の人々を心から励まします。
  今年の「四旬節メッセージ」のテーマも正義です。四旬節は今週の水曜日の、いわゆる「灰の水曜日」に始まります。それゆえ、今日わたしは精神的な意味でこのメッセージをすべての人に示して、それを読み、かつ黙想してくださるようにお願いします。キリストの福音は人間の正義への渇きにはっきりとこたえます。しかし、そのこたえは、予期せぬ、驚くべきしかたによって行われます。イエスは社会的・政治的意味での革命を呼びかけたのではありません。イエスが呼びかけたのは愛の革命です。この愛の革命は、イエスの十字架と復活によってすでに実現しています。「幸い」の基盤は、このイエスの十字架と復活にあります。「幸い」は義の新しい展望を示します。この義は主の過越から始まります。わたしたちは主の過越のおかげで、義とされ、よりよい世界を築くことができるからです。
  親愛なる友人の皆様。今、おとめマリアに向かおうではありませんか。いつの世の人もこのかたを「幸いな者」と呼びます。なぜなら、マリアは主が告げたよい知らせを信じたからです(ルカ1・45、48参照)。四旬節の旅路をマリアに導いていただこうではありませんか。わたしたちが自己満足の幻想から解放され、神とそのあわれみを必要としていることを認めることができますように。そこから、義と愛と平和の国である、神の国に入ることができますように。 

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