教皇ベネディクト十六世の213回目の一般謁見演説 四旬節、とくに灰の水曜日の意味

2月17日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の213回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「四旬節、とくに灰の水曜日の意味」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
この日、教皇は、午後4時半からアヴェンティーノ丘のサンタンセルモ教会で祈りの集いを行った後、サンタ・サビナ聖堂まで悔い改めの行列を行い、同聖堂で灰の式を含むミサを司式しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日の「灰の水曜日」から四旬節の旅路が始まります。この旅路は40日間に及び、主の復活の喜びへとわたしたちを導きます。わたしたちはこの霊的巡礼の中で独りきりではありません。なぜなら、教会が、神のことばと秘跡の恵みをもって、初めからわたしたちとともに歩み、支えてくれるからです。神のことばは霊的な道と悔い改めのわざの計画を包みます。
  使徒パウロのことばはわたしたちに明確な教えを示します。「わたしたちはまた・・・・あなたがたに勧めます。神からいただいた恵みをむだにしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神はいっておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(二コリント6・1-2)。実際、キリスト教的人生観にとって、すべての時は恵みの時、毎日が救いの日といわなければなりません。しかし、教会の典礼はこのことばを特別な意味で四旬節に当てはめます。そしてわたしたちは、復活祭を準備する40日間が恵みの時であることを、まさしく、おごそかな灰の式の呼びかけによって悟ります。わたしたちに向けられたこの呼びかけは、典礼の中で二つの形で述べられます。「回心して福音を信じなさい」。「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」。
  第一のことばは回心への呼びかけです。わたしたちはこのことばをきわめて真剣に受けとめなければなりません。そして、このことばが発する驚くべき新しさを理解しなければなりません。実際、回心への呼びかけは、わたしたちの生き方をしばしば特徴づける浅薄な傾向を裸にし、明るみに出します。回心するとは、人生の道が向かう方向を変えることです。ただしそれは小さな修正ではなく、真に固有の意味での進路の転換です。回心するとは、流行に逆らって歩むことです。それは、「流行」が、一貫性のない偽りの浅薄な生き方である場合です。こうした生き方は、しばしばわたしたちを捕らえ、支配し、悪の奴隷あるいはつまらない習慣の虜(とりこ)にします。これに対して、人は回心することによって、キリスト教的生活の高い基準を目指します。わたしたちは生きた人格となった福音であるキリスト・イエスへと身をゆだねます。イエスの人格こそが、回心の最終目標であり、その深い意味です。イエスこそが、すべての人が人生の中でその上を歩むよう招かれた道です。それは、イエスの光に照らされ、その力に支えられて、歩みを進めるためです。こうして回心はその輝かしく魅力的な姿を現します。回心とは、生活態度を正すための単なる道徳的決心ではありません。むしろそれは信仰に基づく決断です。この信仰に基づく決断はわたしたちの全体を、イエスの生きた具体的な人格との深い交わりへと導きます。回心することと、福音を信じることは、二つの別なこと、あるいは何らかの意味で単にくっつけられただけのものではありません。むしろこの二つは同じことを表します。回心とは、福音に自分の存在をささげた者が全身全霊で「はい」ということです。進んでキリストにこたえることです。キリストは、道であり、真理であり、いのちであるかたとして、まず人間のためにご自身をささげたからです。このかただけが人間を自由にし、救うからです。これこそが、マルコ福音書記者によれば、イエスが「神の福音」をのべ伝えるために最初に述べたことばの意味です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)。
  「回心して福音を信じる」ことは、キリスト教的生活の初めにいえるだけでなく、その歩み全体に伴います。それは自らを新たにしつつ継続し、さまざまな表現をとりながら広がります。毎日が恵みの時です。なぜなら、わたしたちは日々こう促されるからです。自分をイエスにささげなさい。イエスにより頼みなさい。イエスのうちにとどまりなさい。イエスと同じ生き方をしなさい。イエスからまことの愛を学びなさい。日々、イエスに従って、御父のみ心を果たしなさい。御父こそが唯一偉大ないのちの律法だからです。もちろん、日々、困難と苦労、疲労と転倒は尽きません。わたしたちはキリストに従う道を捨て、自分自身のうちに、自分の利己心のうちに閉じこもる誘惑に駆られます。わたしたちは、正義と愛に基づく考え方を実践するには、キリストのうちに示された神の愛に心を開かなければならないことを忘れるのです。最近発表した「四旬節メッセージ」の中で、わたしは次のことを思い起こしていただきたいと望みました。「つまり、『自分のもの』から自らを解放し、『神のもの』を無償でいただくために神を必要とすることを受け入れることが、謙虚さには求められているのです。このことは、ゆるしの秘跡と聖体の秘跡において顕著です。キリストの行為のおかげで、わたしたちは『もっとも偉大な』正義に分け入ることができます。それは愛の正義(ローマ13・8-10参照)であり、どんな場合においても、貸し手側というよりは借り手側として認識される正義です。なぜなら、予想もしなかったほど多くのものを受けたからです」(L’Osservatore Romano 5 febbraio 2010, p. 8)。
  「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」。四旬節という恵みの時は、この古来の定式を通してもその霊的な意味を示してくれます。司祭はこのことばを唱えながらわたしたちの頭に灰をかけます。そこからわたしたちは人類の歴史の初めを思い起こします。そのとき主はアダムが原罪を犯した後、いわれました。「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。ちりにすぎないお前はちりに返る」(創世記3・19)。ここで神のことばは、わたしたちの壊れやすさを思い起こさせてくれます。この壊れやすさはわたしたちの死も含みます。死は壊れやすさの究極の形だからです。わたしたちは心のうちに終末を恐れています。多くの意味で人間の死の現実と経験を隠蔽する文化状況にあって、わたしたちはなおさら終末を恐れます。そのとき四旬節の典礼はまず死を思い起こさせてくれます。知恵をもって現実をありのままに認めるよう招きます。しかしまた、四旬節の典礼は、何よりも、わたしたちが予期せぬ新しさを受け入れ、それを生きるようにと促します。キリスト教信仰は、死という現実そのものの中で、この新しさを解き放つからです。
  人はちりであり、ちりに帰って行きます。しかし、人は神の目から見ると、貴いちりです。なぜなら、神は不死へと向かう者として人を創造したからです。だから、「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」という典礼の定式は、新しいアダムであるキリストに当てはめられるとき、その完全な意味を見いだします。主イエスも、とくに十字架上の死を通じて、壊れやすい定めをすべての人と共有することを進んで望みました。けれども、御父と人類への愛に満ちたこの死こそが、栄光ある復活への道となりました。この復活を通して、キリストは、キリストを信じて神のいのちにあずかる者とされた人々に与えられる恵みの泉となったのです。この終わりのない神のいのちは、地上の人生の段階においてもすでに実現しています。しかしそれは、「からだの復活」の後、完全なものとなります。灰をかけるというわずかな行為は、その特別に豊かな意味を表します。灰の式は、キリストの過越の神秘に、すなわちキリストの死と復活に、いっそう深く自覚的に浸されるために四旬節を過ごすようにという招きです。そのために、聖体にあずかり、愛のわざを実践しなければなりません。愛のわざは聖体から生まれ、聖体のうちに完成されます。灰をかけられるとき、わたしたちは、イエスに従い、イエスの過越の神秘によって造り変えていただきたいという思いを新たにします。それは、悪に打ち勝ち、善を行うためです。罪に結ばれた「古い人」に死んで、神の恵みによって造り変えられた「新しい人」として生まれるためです。
  親愛なる友人の皆様。おごそかな四旬節の旅路を歩み始める準備をしているこのときにあたり、特別な信頼をこめておとめマリアのご保護と助けを祈り求めたいと思います。最初にキリストを信じたかたであるマリアが、深い祈りと心からの悔い改めをもって過ごすこの40日間、わたしたちとともに歩んでくださいますように。そして、心も思いも清められ、完全に新たにされて、偉大な御子の過越の神秘を祝うことができますように。
  皆様、どうかよい四旬節をお過ごしください。

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