教皇ベネディクト十六世の2010年2月21日の「お告げの祈り」のことば イエスの誘惑

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第1主日の2月21日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は、四旬節第1主日の2月21日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

教皇が終わりに述べたように、この四旬節第1主日の2月21日から、教皇と教皇庁の四旬節の黙想会が行われます。今年の黙想会のテーマは「司祭召命に関する神と教会の『教訓』」です。黙想会を指導するのはサレジオ修道会司祭のエンリコ・ダル・コヴォロ師(59歳)です。黙想会は午後6時から、聖体顕示と晩の祈りと最初の黙想と聖体礼拝と聖体賛美式をもって開始されます。黙想会のスケジュールは以下の通りです。午前9時から朝の祈りと黙想。午前10時15分から三時課と黙想。午後5時から黙想。午後5時45分から晩の祈りと聖体礼拝と聖体賛美式。黙想会は2月27日(土)午前9時の朝の祈りと結びの黙想をもって終了します。黙想会中、2月24日(水)の一般謁見を含めてすべての謁見は行われません。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  先週の水曜日の「灰の式」をもって四旬節が始まりました。四旬節は、一年に一度の復活祭を準備する、霊的刷新のための季節です。ところで、四旬節の旅を始めるとはどういうことでしょうか。今日の四旬節第一主日の福音が、イエスの荒れ野での誘惑の物語をもってそれを明らかにしてくれます。福音書記者ルカは語ります。イエスはヨハネから洗礼を受けた後、「聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を〝霊〟によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(ルカ4・1-2)。ルカは明らかにこう主張しています。誘惑は偶然に行われたのではありません。むしろそれは、御父からゆだねられた使命を果たし、自分が御父の愛する子であるということを最後まで生きようとするイエスの決断がもたらしたものです。愛する子は、御父に完全に信頼するからです。キリストは、わたしたちを罪から、また、神を無視して生きる企ての危険な魅力から解放するために世に来られました。キリストはこのわざを声高な宣言をもってなさいませんでした。むしろ彼はそのために、十字架に至るまで、自ら誘惑と戦われたのです。世界をよくするには、自分自身から始めなければなりません。神の恵みによって、自らの正しくない生き方を変えなければなりません。これこそがすべての人に役立つ模範です。
  サタンがイエスに与えた3つの誘惑の中で、第一のものは、飢餓、すなわち物質的な窮乏に基づいています。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。しかしイエスは聖書をもってこたえられます。「人はパンだけで生きるものではない」(ルカ4・3-4。申命記8・3参照)。次に悪魔はイエスに地上のすべての国々を見せていいます。「もしひざまずいてわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」。これは権力についての策略です。しかしイエスはこの誘惑の正体をあばいて拒絶します。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(ルカ4・5-8、申命記6・13参照)。拝むべきなのは、権力ではなく、ただ神のみ、すなわち、真理と愛であられるかたのみです。最後に誘惑者はイエスに人目を引く奇跡を行うよう提案します。「神殿の高い壁から飛び降りてみなさい。天使があなたを救ってくれるだろう。そうすれば、すべての人があなたを信じるようになる」。しかしイエスはこたえます。「神を試してはならない」(申命記6・16参照)。わたしたちは、神がこたえて、ご自分が神であることを示してくださるかどうかを「実験」してはなりません。わたしたちは神を信じなければならないのです。わたしたちは神を「自分の実験」のための「材料」にしてはなりません。イエスは繰り返し聖書を引用しながら、真実の基準を人間的な基準よりも優先します。真実の基準とは、従順です。神のみ心との一致です。神のみ心こそがわたしたちの人生の基盤です。次のこともわたしたちにとって根本的な教えです。神のことばを心と思いの中で保ち、それを生活の中で実践し、神に信頼するなら、誘惑者によるあらゆる策略を拒絶できます。さらに、この物語の全体から、新しいアダムであるキリストの姿がはっきりと示されます。へりくだって御父に従順に従う神の子は、アダムとエバと異なります。アダムとエバはエデンの園で、神なしに不死の者となるという悪い霊のそそのかしに負けたからです。
  四旬節は長い「黙想」のようなものです。この「黙想」の間、わたしたちは自分自身に立ち戻って、神のことばに耳を傾けます。それは、悪い者の誘惑に打ち勝ち、人生の真理を見いだすためです。四旬節はイエスとともに生きるための「闘い」の季節だということもできます。そのためにわたしたちは、高慢やうぬぼれを捨て、祈り、神のことばを聞き、悔い改めるという、信仰の武具を用います。そうすれば、真の意味で復活祭を祝い、洗礼の約束を進んで更新することができます。おとめマリアの助けによって、わたしたちが聖霊に導かれながら、この恵みの時を喜びと豊かな実りをもって生きることができますように。どうかおとめマリアが、とくに今晩から黙想を始めるわたしとローマ教皇庁におけるわたしの協力者のために執り成してくださいますように。

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