教皇ベネディクト十六世の2010年2月28日の「お告げの祈り」のことば 主の変容

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第2主日の2月28日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は、四旬節第2主日の2月28日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「モスル市で最近起きた幾人かのキリスト教徒の殺害に関する悲惨な知らせを深い悲しみをもって聞きました。そして、殉教の地イラクで行われている他の暴力行為を強い懸念をもって見守っています。これらの暴力行為はさまざまな宗教に属する無防備の人々に被害を与えています。深い内省のうちに過ごしたこの数日間、わたしはこうした攻撃のすべての犠牲者のために何度も祈りました。そして今日、ニーナワー(ニネヴェ)の司教協議会が行う、平和と治安回復のための祈りにわたしも精神的な意味で加わります。わたしはイラク全土のキリスト教共同体に心から寄り添います。どうかうむことなく、祖国イラクに善をもたらすパン種となってください。皆様は何世紀にもわたり完全な資格でイラクに属しておられるからです。
  イラクが微妙な政治状況に置かれている今、政府当局に呼びかけます。イラク国民、とくにもっとも傷つきやすい宗教的少数者に対する治安を回復するためにあらゆる努力を行ってください。政府当局が、全国民の安全と基本的権利よりも一時的利害を優先する誘惑に屈服しないことを願います。最後に、この広場におられるイラクのかたがたにごあいさつ申し上げるとともに、国際社会に勧告します。イラク国民に和解と正義に基づく未来を与えるために努力を惜しまないでください。わたしは全能の神に信頼を込めて平和という貴いたまものを祈り求めます。
  さらに、わたしの思いは、地震に見舞われたチリとチリ国民に向かいます。この地震は多くの人命の喪失と莫大な被害をもたらしました。わたしは犠牲者のために祈るとともに、今回の大きな災害に遭われたかたがたに霊的に寄り添います。このかたがたの苦しみが和らげられ、このような不幸の中で勇気が与えられることを神に祈り願います。被災者のかたがたが、多くの人、とくに教会機関の支援を欠くことがないことを確信しています」。
イラクでは2月26日までの10日間に8名のキリスト教徒が殺害されています。とくに2月23日にはイラク北部のモスルで、アッシリア・キリスト教会に属する家族の自宅が武装集団に襲撃され、母親と娘の目の前で父親と2人の息子が殺害されました。
南米チリで現地時間2月27日午前3時34分(日本時間同日午後3時34分)に起きたマグニチュード8.8の巨大地震では、3月1日までに723人の死者が確認されています。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  昨日、バチカン宮殿で、バチカンで四旬節の初めに行われる恒例の黙想会が終わりました。ローマ教皇庁におけるわたしの協力者とともに、わたしは内省と深い祈りの日々を過ごしました。そして、教会が「司祭年」を行うのに合わせて、司祭召命について考察しました。わたしたちに霊的に寄り添ってくださったかたがたに感謝申し上げます。
  今日の四旬節第2主日の典礼の中心を占めるのは、主の変容の出来事です。聖ルカによる福音書では、主の変容の出来事は、師であるかたの招きの直後に起こります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9・23)。この主の変容という特別な出来事は、イエスに従うための励ましなのです。
  ルカは変容とはいわずに、2つの要素を通じて何が起きたかを記します。すなわち、イエスの顔の様子が変わったこと、そして、モーセとエリヤの前でイエスの服が真っ白になって輝いたことです。モーセとエリヤは律法と預言者の象徴です。変容の場に立ち会った3人の弟子は睡魔に襲われました。睡魔は、神の驚くべきわざを目にしながら、それを理解できない人の態度です。ペトロとヤコブとヨハネは、彼らを悩ますこの眠気と戦うことによって初めて、イエスの栄光を「見る」ことができます。事態はあわただしく進みます。モーセとエリヤがイエスから離れようとしたとき、ペトロはことばを発します。そしてペトロが語っていると、雲が彼を覆い、他の弟子たちは暗闇に覆われました。この雲は神の栄光を覆うとともに現します。荒れ野を旅する民が経験したとおりです。目はもはや見ることができませんでしたが、耳は雲の中から発する声を聞くことができました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9・35)。
  弟子たちの前には、もはや変容した顔も、白くなった服も、神の現存を現す雲もありませんでした。彼らの目の前にいたのは「イエスだけ」(ルカ9・36)でした。イエスは祈るとき、一人きりで御父の前におられます。しかし同時に、「イエスだけ」が、すべての時代の弟子と教会に与えられるすべてです。わたしたちは旅路の中で、イエスだけで満足しなければなりません。イエスは耳を傾けるべき唯一の声であり、従うべき唯一のかたです。エルサレムへと上るこのかたが、いのちを与え、いつの日か「わたしたちの卑しいからだを、ご自分の栄光あるからだと同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3・21)。
  「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」(ルカ9・33)。これはペトロがわれを忘れて述べたことばです。それは主の慰めを前にしたわたしたちの望みにしばしば似ています。しかし、主の変容は次のことをわたしたちに思い起こさせてくれます。人生の中で神がまいた喜びは到達点ではなく、神が地上の旅路を歩むわたしたちに与えてくださった光です。それは、「イエスだけ」がわたしたちの律法となり、イエスのことばがわたしたちの人生を導く基準となるためです。
  四旬節にあたり、皆様が福音を熱心に黙想してくださるようお願いします。さらにわたしは願います。「司祭年」にあたり、司牧者が「真の意味で神のことばによって満たされ、本当に神のことばを知り、神のことばが実際に彼らの生活に刻印を押し、彼らの思いを形づくるほどに、神のことばを愛する」(教皇ベネディクト十六世「聖香油のミサ説教(2009年4月9日)」)ことができますように。おとめマリアの助けによって、わたしたちがいつも深く主と出会い、日々、喜びをもって主に従うことができますように。おとめマリアに目を注ぎ、「お告げの祈り」をもって祈り願おうではありませんか。

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