教皇ベネディクト十六世の214回目の一般謁見演説 バニョレージョの聖ボナヴェントゥラ

3月3日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の214回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2009年2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連 […]


3月3日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の214回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2009年2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第30回として、「バニョレージョの聖ボナヴェントゥラ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

講話の後、教皇は、英語によるあいさつの中で、2013年に創立100周年を迎える上智大学関係者に次のように述べました。
「今日の謁見に来られた英語を話す巡礼者の皆様を歓迎します。その中にはナイジェリア、日本、アメリカ合衆国の巡礼者の皆様が含まれます。東京・上智大学の巡礼者の皆様に向けて、祈りを込めてごあいさつ申し上げます。これから迎える大学創立100周年が、皆様が行う真理の探求への奉仕と、信仰と理性の調和のあかしを強めてくれますように。皆様とご家族の上に神の豊かな祝福を祈ります」。
また、ポーランド語を話す巡礼者に向けたポーランド語によるあいさつの中で、3月1日のショパン(1810-1849年)生誕200周年にあたって、次のように述べました。
「この謁見に来られたポーランドの皆様に心からごあいさつ申し上げます。わたしは謁見の中でキリスト教的ヨーロッパを形成した人々の姿をご紹介しています。今日はとくにフレデリック・ショパンを思い起こしたいと思います。ショパンはそれほど昔の時代に生きた人ではありません。数日前、ショパン生誕200周年が祝われました。そして今年は『ショパン年』が開催中です。ヨーロッパ文化と世界の文化に多大な貢献を行ったこの有名なポーランドの作曲家の音楽が、その曲に耳を傾ける人を神に近づけ、人間の深い精神を見いだす助けとなってくれますように。皆様に心から祝福を送ります」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日はバニョレージョの聖ボナヴェントゥラ(Bonaventura 1217/1221-1274年)についてお話ししたいと思います。正直に申し上げると、このテーマをお話しするにあたって、わたしはある種の懐かしさを覚えます。なぜなら、わたしが若い研究者だった頃、この特別に尊敬する著作家について研究したことを思い起こすからです。ボナヴェントゥラに関する知識はわたしの形成に少なからぬ影響を与えました。数か月前、ボナヴェントゥラの生地バニョレージョに巡礼できたことをうれしく思います。バニョレージョはイタリアのラツィオ州の小さな町です。この町はボナヴェントゥラの思い出を崇敬の念とともに守り続けています。
 おそらく1217年に生まれ、1274年に死んだボナヴェントゥラは、13世紀に生きた人です。13世紀という時代、ヨーロッパ文化と社会に深く浸透したキリスト教信仰は、文学、視覚芸術、哲学、神学の分野で不滅の作品に霊感を与えました。このような信仰と文化の調和の形成に貢献した偉大なキリスト教的人物の中で、ボナヴェントゥラは際立っています。ボナヴェントゥラは、活動と観想の人であり、深く敬虔でありながら賢明な統治を行う人だったからです。
 ボナヴェントゥラの本名はジョヴァンニ・ダ・フィダンツァ(Giovanni da Fidanza)です。まだ子どもだったときに起こったある出来事が彼の生涯に深い影響を与えました。彼が自ら語るとおりです。彼は重い病気にかかり、医師だった父親にも彼を死から救える望みはありませんでした。そのとき彼の母親は、少し前に列聖されたばかりのアッシジの聖フランチェスコの執り成しを願いました。するとジョヴァンニの病気は治りました。「アッシジの貧者」の姿は数年後にいっそう身近なものとなりました。彼は勉学を行うためにパリに行ったからです。彼は学芸学部の教授資格を取得しました。この資格は現代の有名な高等学校の教授資格に相当します。このとき、昔と今の多くの若者と同じように、ジョヴァンニは決定的な問いかけを自らに行いました。「わたしは自分の人生で何をなすべきだろうか」。「小さき兄弟会」は1219年にパリにやって来ました。この「小さき兄弟会」の熱心なあかしと徹底した福音的生活に引きつけられて、ジョヴァンニはパリのフランシスコ会修道院の戸をたたき、聖フランチェスコの弟子の偉大な家族に受け入れられることを願いました。後年、彼は自分の決断の理由をこう説明しています。自分は聖フランチェスコと彼が始めた運動のうちにキリストの働きを見いだした。そこで彼は他の修道士にあてた手紙の中で述べます。「わたしは神の前で、このことがわたしに聖フランチェスコの生活をことに愛するように仕向けたということを、告白する。なぜなら、教会の始まりと完成はこれに似たものだからであって、教会は初め単純な漁師たちから始まり、そして後にもっとも明敏で学識ある博士たちへと向上したのである。あなたは聖フランチェスコの修道会のうちに同じことを見るであろう。それが人間たちの思慮によってではなく、キリストによって生じたのだということを」(『無名の教師に宛てた三つの問題についての書簡』:Epistola de tribus quaestionibus ad magistrum innominatum, in Opere di San Bonaventura. Introduzione generale, Roma 1990, p. 29〔三上茂訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成12 フランシスコ会学派』平凡社、2001年、446頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。
 それゆえ、1243年頃、ジョヴァンニはフランシスコ会の修道服を身にまとい、ボナヴェントゥラと名乗りました。彼はただちに勉学へと派遣され、パリ大学神学部で学び、難しい課程を履修しました。そして、「聖書学講師」、「命題集講師」といった、教授職に必要なさまざまな資格を得ました。こうしてボナヴェントゥラは、聖書と、当時の神学の教科書であるペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』と、神学におけるもっとも重要な著作家たちを深く学びました。ヨーロッパ中からパリにやって来た教師と学生にも触れました。そして、大きな価値のある、自らの個人的考察と霊的感覚を深めました。この個人的考察と霊的感覚が、その後の歳月の中で著作と説教の中に注ぎ込まれることにより、彼は教会史の中でもっとも重要な神学者となったのです。当時「あらゆるところで教える認可(licentia ubique docendi)」と呼ばれた、神学教授資格を得るために彼が提出した論文の標題を思い起こすのは意味深いことです。彼の教授資格論文の標題は『討論問題集――キリストの知について』(Quaestiones disputatae de scientia Christi)でした。この論考は、ボナヴェントゥラの生涯と教えの中で常にキリストが中心的な役割を占めたことを示します。わたしたちは疑いなく、ボナヴェントゥラの思想全体は深い意味でキリスト中心的だったということができます。
 ボナヴェントゥラがパリにいた時代、聖フランチェスコの「小さき兄弟会」とグスマンの聖ドミニクスの「説教者兄弟会」に対して激しい論争が起こっていました。この2つの修道会が大学で教える権利が議論となるとともに、彼らの奉献生活の真正性までもが疑いをかけられました。たしかに、先の講話でお話ししたとおり、托鉢修道会が修道生活にもたらした変化はきわめて革新的なものだったので、すべての人がそれを理解できたわけではありませんでした。さらに、時として真の宗教者の間にも見られる、人間的な弱さによる要因も付け加えることができます。たとえば嫉妬と羨望です。ボナヴェントゥラは、他の大学教師に反対されながらも、フランシスコ会の神学講座で教え始めました。そして、托鉢修道会を批判する人々にこたえるために、『討論問題集――福音的完徳について』(Quaestiones disputatae de perfectione evangelica)という著作を著しました。この著作の中でボナヴェントゥラは、托鉢修道会、とくに「小さき兄弟会」が、清貧、貞潔、従順の誓願を実践しながら、福音の勧告そのものに従っていることを示しました。こうした歴史的状況を超えて、ボナヴェントゥラが著作と生涯の中で示す教えは永遠に現代的な意味をもち続けます。すなわち、教会は、自らの兄弟姉妹の召命に忠実であることによって、いっそう輝きを放ち、美しくなります。これらの兄弟姉妹は、ただ福音のいましめを実践するだけでなく、神の恵みによって福音の勧告を守り、清貧、貞潔、従順に基づく生活様式を送ることにより、福音が喜びと完徳の源泉であることをあかしするよう招かれているからです。
 少なくとも一定の期間、対立は静まり、教皇アレクサンデル4世(Alexander IV 在位1254-1261年)自らが介入することによって、1257年にボナヴェントゥラは正式にパリ大学正教授として認められました。しかし、彼はこの重要な職務を離れなければなりませんでした。同じ年、彼はフランシスコ会総会で総長に選出されたからです。
 ボナヴェントゥラは知恵をもって献身的に、総長職を17年間務めました。その間、諸管区を訪問し、兄弟たちに書簡を送り、時には悪行を退けるためにある種の厳しい措置をとりました。ボナヴェントゥラが総長職を開始したとき、「小さき兄弟会」は驚くべき発展を遂げていました。西方世界全体に3万人以上の会員がおり、北アフリカ、中東、さらには北京にまで宣教者が赴いていました。このような拡大を強化するとともに、何よりもフランチェスコのカリスマ(たまもの)に完全に忠実に従いながら、この拡大に活動と精神の統一性を与えることが必要でした。実際、アッシジの聖者の弟子の中には、メッセージの多様な解釈が見られました。そして実際に内部分裂の危機が存在しました。このような危険を避けるために、1260年のナルボンヌでのフランシスコ会総会はボナヴェントゥラが提案した文書を受容し、承認しました。この文書によって、「小さき兄弟会」の日常生活について規定する規則が一つにまとめられました。しかしボナヴェントゥラは、たとえ知恵と中庸から霊感を受けて書かれていても、法的規定だけでは霊と心の一致を保障するには不十分なことを見抜いていました。同じ理想、同じ動機づけを共有することが必要でした。そのためボナヴェントゥラは、フランチェスコの真のカリスマと生涯と教えを示そうと望みました。そこで彼は「アッシジの貧者」に関する文書を熱心に集め、フランチェスコを直接知っている人々の思い出に注意深く耳を傾けました。そこから、『聖フランチェスコ大伝記』(Legenda maior sancti Francisci)という、歴史的にしっかり裏づけられたアッシジの聖者の伝記が生まれました。この著作はまた簡潔な形で書かれていますが、それゆえにこそ『大伝記』と呼ばれたのです。「伝記(legenda)」は、イタリア語と異なり、ラテン語では想像の産物を表すのではなく、むしろその反対に、権威のある、正式に「読むべき」文書を意味します。実際、1263年にピサで開かれた「小さき兄弟会」総会は、聖ボナヴェントゥラの書いた伝記を創立者のもっとも忠実な肖像と認め、そこからこの伝記は聖フランチェスコの公式な伝記となったのです。
 献身的な弟子であり後継者である聖ボナヴェントゥラの心とペンから生まれた聖フランチェスコの姿はどのようなものでしょうか。本質的な点はこれです。フランチェスコは「もう一人のキリスト(alter Christus)」です。キリストを情熱的に追い求めた人間です。愛のうちにキリストに倣うよう駆り立てられながら、フランチェスコは完全にキリストに似た者に造り変えられました。ボナヴェントゥラはフランチェスコのすべての弟子にこの生き生きとした理想をはっきり示します。きのうも今日も永遠にすべてのキリスト者に当てはまるこの理想は、わたしの前任者である尊者ヨハネ・パウロ二世によって、第3千年期の教会も目指すべき計画として示されました。ヨハネ・パウロ二世は書簡『新千年期の初めに』でいいます。この計画は「キリストに集約されるものです。キリストにおいて三位一体を生きるため、また、キリストとともに天のエルサレムで完成を見るまで歴史を変容させるために、彼は、わたしたちが知り、愛し、倣わなければならない模範です」(同29)。
 1273年、聖ボナヴェントゥラの生涯は新たな変化を経験します。教皇グレゴリウス10世(Gregorius X 在位1271-1276年)は彼を司教に叙階し、枢機卿に任命することを望みました。教皇はまた、リヨン公会議というきわめて重要な教会行事を準備することを彼に求めました。リヨン公会議の目的は、ラテン教会とギリシア教会の交わりを回復することでした。ボナヴェントゥラはこの職務を果たすために精励しましたが、公会議の終了を見ることはできませんでした。彼は会議の会期中に没したからです。ある無名の教皇書記官が聖ボナヴェントゥラをたたえることばを書き残しています。このことばは、この偉大な聖人にして卓越した神学者の決定的な肖像を示します。「いつくしみ深く、優しく、信心深く、あわれみ深い人。諸徳に満ち、神と人とに愛された人。・・・・実際、神は多くの恵みを彼に与えたので、彼を見る人は皆、心が隠すことのできない愛で満たされた」(J. G. Bougerol, Bonaventura, in A. Vauchez [ed.], Storia dei santi e della santità cristiana, Vol. VI. L’epoca del rinnovamento evangelico, Milano 1991, p. 91参照)。
 この聖なる教会博士の遺産を受け継ごうではありませんか。彼は次のことばでわたしたちの人生の意味を思い起こさせてくれます。「地上において・・・・わたしたちは推論し賛美することを通じて神の偉大さを観想することができる。これに対して、天上の祖国においては、神と似た者とされたわたしたちは、見ることによって、またわれを忘れることを通じて・・・・神の喜びに入るのである」(『討論問題集――キリストの知について』:Quaestiones disputatae de scientia Christi q. 6, conclusio, in Opere di San Bonaventura. Opuscoli Teologici/1, Roma 1993, p. 187)。

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