教皇ベネディクト十六世の2010年3月7日の「お告げの祈り」のことば 回心への招き

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第3主日の3月7日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。
この日午前、教皇は、ローマ教区北部コッレ・サラリオのサン・ジョヴァンニ・デッラ・クローチェ小教区を訪問し、午前9時30分からミサをささげました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の四旬節第3主日の典礼は回心というテーマをわたしたちに示します。出エジプト記からとられた第一朗読の中で、モーセは、羊の群れを飼っていたとき、燃えているのに燃え尽きない柴を目にしました。この不思議な光景を見届けようと近づくと、声がモーセの名を呼び、自分がふさわしくない者であることを自覚するように求めます。声はモーセが履物を脱ぐよう命じます。この場所は聖なる土地だからです。声はいいます。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。そして声は続けていいます。「わたしはあるという者だ」(出エジプト記3・6a、14)。神はさまざまなしかたで、場合によってわたしたち一人ひとりの生活の中でも、ご自身を現されます。しかし、神の現存を認めることができるようになるためには、自分の惨めさを自覚し、深い尊敬の念をもって神に近づかなければなりません。そうしなければ、神と出会い、神との交わりに入ることができなくなります。使徒パウロが述べるとおり、この出来事はわたしたちへのいましめのためにも語られています。それは、神が飲食と遊興に明け暮れる人にでなく、神の前で貧しくへりくだる人にご自身を現されることを思い起こさせてくれるのです(一コリント10・6-7参照)。
 今日の福音の箇所で、イエスはいくつかの悲しい事件について質問されます。すなわち、ポンティオ・ピラトの命令により神殿の境内で数人のガリラヤ人が殺されたこと、そして、塔が幾人かの通行人の上に倒れかかったことです(ルカ13・1-5参照)。災難は神の罰を表すものだと安易に結論づける考え方に対して、イエスは神の真の姿をあらためて示します。神はいつくしみ深く、悪を望むことができません。そこでイエスは、不幸な目に遭ったのは、その人が罪を犯したことの直接の結果だと考えないよう警告して、こういわれます。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。いっておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13・2-3)。イエスは、わたしたちがこれらの出来事を回心と結びつけて、別なしかたで解釈するよう招きます。不幸や悲しい出来事によって、好奇心をかき立てられたり、それを罪のせいにしようとしたりすべきではありません。むしろそれらの出来事を、内省し、神なしで生きることができるかのように考える幻想に打ち勝ち、主の助けによって生活を改める努力を強めるための機会としなければなりません。神は罪に対して豊かなあわれみをもってご自身を現されます。そして、罪人に呼びかけられます。悪を避けなさい。より多く愛しなさい。困っている隣人を具体的に助けなさい。それは、恵みの喜びを生き、永遠の死に向かわないためです。しかし、回心を可能にするには、神に対する聖なる畏れに促されながら、人生のさまざまな出来事を信仰の目で解釈しなければなりません。苦しみと悲しみに直面したとき、まことの知恵とは、人生の不確実さによって自らに問いかけ、人間の歴史を神の目で解釈することです。つねに自分の子たちの善のみを望んでおられる神は、ご自分の愛に基づくはかりしれないご計画により、より大きな善へと導くために、子たちを苦しみの試練に遭わせることが時としてあるからです。
 親愛なる友人の皆様。四旬節の旅路をわたしたちとともに歩んでくださる至聖なるマリアに祈ろうではありませんか。すべてのキリスト者が真心から主に立ち帰ることができるよう助けてください。どうか、悪を捨て、信仰をもって自分の生活の中に神のみ心を受け入れようとするわたしたちの決心を支えてください。

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