教皇ベネディクト十六世の216回目の一般謁見演説 バニョレージョの聖ボナヴェントゥラ(三)

3月17日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の216回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2009年2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第32回として、前週に続いて「バニョレージョの聖ボナヴェントゥラ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日わたしは、先週水曜日の考察の続きとして、皆様とともにバニョレージョの聖ボナヴェントゥラの教えの他の側面を深く考えてみたいと思います。聖ボナヴェントゥラは、同時代のもう一人の偉大な思想家、聖トマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1224/1225-1274年)と並べることができる、傑出した神学者です。二人はともに、人間理性という手段を用い、キリスト教的中世の特徴である信仰と理性との実り豊かな対話を行いながら、啓示されたもろもろの神秘を探究しました。そして、キリスト教中世を、きわめて知的活力にあふれるとともに、信仰と教会の刷新の時代としました。後者の点は多くの場合、十分注目されません。もう一つの類似が二人を結びつけます。フランシスコ会士の聖ボナヴェントゥラと、ドミニコ会士の聖トマスは、托鉢修道会に属しました。先の講話でお話ししたように、托鉢修道会はその霊的な新鮮さによって13世紀において教会全体を刷新し、多くの入会者を引き寄せました。二人はともに、情熱と愛をもって勤勉に教会に奉仕したので、1274年のリヨン公会議に参加するよう要請されました。同じ1274年に二人は亡くなります。トマスが死んだのはリヨンに赴く途上であり、ボナヴェントゥラが死んだのは同公会議の会期中です。サンピエトロ広場でも、二人の聖人の彫像は、サンピエトロ大聖堂正面から始まる列柱のまさに最初のところに、対をなして置かれています。すなわち、一人は右手に、もう一人は左手にあります。これらのさまざまな側面にもかかわらず、この偉大な二人の聖人の中には、哲学的・神学的探究を行う上での二つの異なる方法が見いだされます。これらの異なる方法は、それぞれの独創性と深い思想を示しています。この違いのいくつかに触れてみたいと思います。
 第一の違いは、神学の概念にかかわります。二人の神学博士はともに、神学は実践的学か、理論的あるいは思弁的学かと問いました。聖トマスは対照的な二つの答えの可能性を考察しました。第一の答えはいいます。神学は信仰に関する考察であり、信仰の目的は人間がよい者となり、神のみ心に従って生きることです。それゆえ、神学の目的は人間を正しくよい道に導くことでなければなりません。したがって神学は基本的に実践的学です。第二の立場はいいます。神学は神を知ることを求めます。わたしたちは神のみわざであり、神はわたしたちの働きを超えています。神はわたしたちのうちで正しい行為を行われます。それゆえ神学は本質的にわたしたちの行為にではなく、神を知ることにかかわります。それはわたしたちの働きにかかわるものではありません。聖トマスの結論はこれです。神学は両方の側面を含みます。神学は、ますます深く神を知ることを求める理論的学であると同時に、わたしたちの生活を善へと方向づけることを追求する実践的学でもあります。しかし、そこには認識の優位が見いだされます。わたしたちは何よりもまず神を知らなければなりません。その後に、神に従って行動することが続きます(『神学大全』:Summa theologiae I, q. 1, a. 4)。このように実践よりも認識を優先することが、聖トマスの基本的方向づけにとって重要です。
 聖ボナヴェントゥラの答えもこれときわめて似ていますが、重点の置き方が異なります。聖ボナヴェントゥラは聖トマスと同じく、二つの方向に向かう同じ議論を認めます。しかし、神学は実践的学か理論的学かという問いに答えるために、聖ボナヴェントゥラは三つの区別を行います。そこから彼は、理論的か(認識の優位)実践的か(実践の優位)という二者択一を拡大して、第三の態度を付け加えます。この態度を彼は「知恵」と呼びます。そして彼は、知恵は二つの側面の両方を包括するといいます。彼は続けていいます。知恵は観想(認識の最高の形)を求めます。そして知恵の目的は何よりも「わたしたちがよい者となること(ut boni fiamus)」です(『神学提要』:Breviloquium, prologus, 5参照)。さらに彼は付け加えていいます。「信仰はそのようにして知性のうちにあり、したがってそれ自身の性格からして情意を動かす性質のものなのである。また、このことも明らかであろう。つまり、キリストがわれわれのために死んだという認識は認識にとどまらず、必ず情意、すなわち愛となるのである」(『命題集注解』:Commentaria in quatuor libros Sententiarum, proemium, q. 3〔須藤和夫訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成12 フランシスコ会学派』平凡社、2001年、550頁参照〕)。
 ボナヴェントゥラの神学(すなわち信仰に関する理性的かつ方法的考察)の擁護も同じ方向で行われます。聖ボナヴェントゥラは神学を行うことに反対するいくつかの議論を列挙しています。おそらくこれらはフランシスコ会士の一部にも広まっていたものと思われます。またそれはわたしたちの時代にも見られるものです。すなわち、「理性は信仰を奪い去り、神のことばを犯す振る舞いとなるであろう。われわれは神のことばを聞くべきであって、これを分析すべきではない」(アッシジの聖フランチェスコ『パドヴァの聖アントニウス宛書簡』:Epistola ad sanctum Antonium参照)。神学そのもののうちに存在する危険を示す、この神学に反対する議論に対して、聖ボナヴェントゥラは答えます。確かに神学を行う尊大な方法があります。すなわち、自らを神のことばの優位に置くような、理性の思い上がりです。しかし、真の神学、すなわち、まことのよい神学における理性的考察は、別のところから生まれるもので、理性の思い上がりではありません。愛する者は、愛するかたをますます深くよく知りたいと望みます。真の神学は、高慢に基づいてではなく、「むしろ自らが同意する者への愛のゆえに(sed propter amorem eius cui assentit)」(『命題集注解』:Commentaria in quatuor libros Sententiarum, proemium, q. 2〔前掲須藤和夫訳、547頁参照〕)、理性を用いた探求を行います。そして、愛するかたをいっそうよく知りたいと望みます。これこそが神学の根本的な目的です。それゆえ、聖ボナヴェントゥラにとって最終的に決定的なのは愛の優位です。
 したがって、聖トマスと聖ボナヴェントゥラは、人間の究極目的である完全な幸福を別の形で定義づけます。聖トマスにとって、わたしたちの望みが向かう最高の目的は、神を見ることです。この神を見るという単純な行為によって、すべての問題は解決を見いだします。そのときわたしたちは幸福となり、他の何ものも必要としません。
 これに対して、聖ボナヴェントゥラにとって、人間の究極目的は、神を愛することです。神の愛とわたしたちの愛が出会い、一致することです。これが聖ボナヴェントゥラにとってわたしたちの幸福のもっとも適切な定義です。
 そこからわたしたちはこういうこともできます。聖トマスにとっての最高概念が真であるのに対して、聖ボナヴェントゥラにとってのそれは善です。この二つの答えのうちに矛盾を見いだすなら、それは誤りです。両者にとって、真は同時に善であり、善は同時に真です。神を見ることは神を愛することであり、神を愛することは神を見ることです。それゆえ、ここで示されるのは、根本的に共通なものの見方における重点の置き方の違いです。両者の重点の置き方は、異なる伝統と異なる霊性によって形成されました。それは、異なる形で表現された、信仰の豊かさを示しています。
 聖ボナヴェントゥラに戻りたいと思います。彼の神学の特別な重点(わたしはそのほんの一例を示したにすぎませんが)が、フランチェスコのカリスマから説明できることは明らかです。「アッシジの貧者」は、当時のさまざまな知的議論を超えて、その全生涯をもって愛の優位を示しました。彼はキリストを愛する者の生きた模範であり、そこから、彼の時代において、主の姿を現存させました。彼はことばによってではなく、その生涯によって同時代の人々を説得しました。聖ボナヴェントゥラの著作全体の中に、それも学問的、スコラ学的著作の中に、このフランチェスコからの霊感が見いだされます。すなわち、わたしたちはボナヴェントゥラの思想が「アッシジの貧者」との出会いから出発していることに気づきます。けれども、この「愛の優位」というテーマの具体的な展開を理解するために、わたしたちはもう一つの源泉をも考慮に入れなければなりません。すなわち、6世紀のシリアの神学者、いわゆる偽ディオニュシオス(Dionysios Areopagites 500年頃)の諸著作です。偽ディオニュシオスは、使徒言行録(同17・34参照)に出てくる同名の人物を暗示するディオニュシオス・アレオパギテスの偽名のもとに自らを隠しています。この神学者は典礼神学と神秘神学を作り出すとともに、天使のさまざまな位階について詳しく述べました。偽ディオニュシオスの著作は9世紀にラテン語に翻訳されました。聖ボナヴェントゥラの時代(すなわち13世紀)には新しい翻訳が現れました。この翻訳は聖ボナヴェントゥラをはじめ他の13世紀の神学者の関心をかき立てました。二つのことが特に聖ボナヴェントゥラの注意を引きました。
 (一)偽ディオニュシオスは天使の9つの位階について語ります。聖書にその名が見いだされる天使を、彼は単純な天使からセラフィムに至るまで、自らの方法で体系化しました。聖ボナヴェントゥラはこの天使の位階を、被造物が神に近づく段階として解釈します。こうしてこれらの段階は、人間の歩み、すなわち神との一致に向かう上昇を表します。聖ボナヴェントゥラにとって、アッシジの聖フランチェスコが最高の位階であるセラフィムの位階、すなわちセラフィムの群れに属することは疑いの余地のないことでした。聖フランチェスコは純粋な愛の炎だったからです。だから、フランシスコ会士もそれと同じでなければなりません。しかし聖ボナヴェントゥラは、この神への接近の最高段階は、神からの特別なたまものであって、それを法的制度に組み入れることは不可能であることをよく知っていました。そのためにフランシスコ会の組織はきわめて中庸で、現実的です。しかし、この組織は、会員が純粋な愛というセラフィムのあり方にますます近づける助けとならなければなりません。先週の水曜日に、わたしは、聖ボナヴェントゥラの思想と行動における冷静な現実的態度と福音を徹底的に生きようとする態度の総合についてお話ししました。
 (二)しかし、聖ボナヴェントゥラは偽ディオニュシオスの著作のうちに、自らにとってさらに重要な意味をもつ、もう一つの要素を見いだしました。聖アウグスティヌスにとって、「知解(intellectus)」、すなわち、理性と心で見ることは認識の最高概念です。これに対して偽ディオニュシオスはさらに一歩進みます。神への上昇において、人はもはや理性が見ることのできない地点に到達します。けれども、知解の夜の中で、愛はなおも見ることができます。愛は、理性が近づくことのできないものを見るのです。愛は理性を超えて、それ以上に見、神の神秘へとさらに深く歩み入ります。聖ボナヴェントゥラは、この考え方に魅力を感じました。それはフランチェスコの霊性と一致したからです。まさに十字架の暗夜の中で、神の愛の偉大さがあますところなく現れます。そこでは理性は見ることができませんが、愛は見ることができます。『魂の神への道程』の結びのことばは、表面的なしかたで読むなら、内容を欠いた信心のおおげさな表現に思われるかもしれません。しかし、聖ボナヴェントゥラの十字架の神学に照らしてそれを読むなら、それはフランチェスコの霊性をはっきりとありのままに表現するのです。「ところで、もしあなたが、どうしてこれらのこと(すなわち神への上昇)が起こるのだろうと尋ねるのなら、知識ではなく恩寵を求めなさい。理解ではなく願望を、読書に励むことではなく祈り嘆くことを、・・・・光ではなく・・・・身も心もすべて燃え立たせ・・・・神のうちへと運び行く火を求めなさい」(『魂の神への道程』:Itinerarium mentis in Deum VII, 6〔長倉久子訳、『魂の神への道程 註解』創文社、1993年、84頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。これらのことはすべて、反知性的でも、反理性的でもありません。それは理性の歩みを前提しますが、十字架につけられたキリストへの愛のうちに理性を超えるのです。聖ボナヴェントゥラは、このように偽ディオニュシオスの神秘主義を変容させることによって、偉大な神秘主義の思潮を創始しました。この神秘主義は、人間精神を大いに高め、清めます。聖ボナヴェントゥラは人間の精神史の頂点です。
 この十字架の神学は、偽ディオニュシオスの神学とフランチェスコの霊性の出会いから生まれました。だからといって、聖ボナヴェントゥラが、被造物への愛、すなわち神の創造のみわざのすばらしさを喜ぶ心を、アッシジの聖フランチェスコと共有していることを忘れてはなりません。この点に関して、わたしは『魂の神への道程』の第1章の一節を引用します。「被造の事物のこれほどの光輝によって照らされない者は盲人である。これほどの叫びによって目覚めない者は聾者である。これらすべての産み出されたるものよりして神を賛美しない者は唖者である。これほどの徴(しるし)から第一の原理に気づかぬ者は愚者である」(同:ibid. I, 15〔前掲長倉久子訳、19頁〕)。全被造物は、神を、善と美なる神を、神の愛を、大声で語ります。
 それゆえ、聖ボナヴェントゥラにとって、わたしたちの全生涯は「道程」であり、巡礼であり、神への上昇です。しかし、わたしたちは自分の力だけでは神の高みにまで昇ることができません。神がわたしたちを助けてくださらなければなりません。わたしたちを高みへと「引き寄せて」くださらなければなりません。だから祈りが必要とされるのです。聖ボナヴェントゥラはいいます。祈りは上昇(聖ボナヴェントゥラはそれを、わたしたちを高みへと導く「上昇(sursum actio)」といいます)の母であり源です。聖ボナヴェントゥラが『魂の神への道程』の始めに述べる祈りをもって、終わります。「それゆえわれわれは、われらの主なる神に向かっていおう。『主よ、あなたの道をわたしに教えてください。そうすれば、わたしはあなたの真理(まこと)に従って歩みます。わたしの心があなたのみ名を畏れるように』(同:ibid. I, 1〔前掲長倉久子訳、11頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。

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