教皇ベネディクト十六世の217回目の一般謁見演説 聖アルベルトゥス・マグヌス

3月24日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の217回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2009年2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第33回として、「聖アルベルトゥス・マグヌス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 中世神学のもっとも偉大な教師の一人は、聖アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus 1193/1200-1280年)です。歴史を通じてつけられてきた「大(magnus)」という称号は、彼の教えの広さと深さを示します。そしてアルベルトゥスは、自分の教えを生活の聖性と結びつけました。しかし、すでに彼の同時代人はアルベルトゥスに特別な称号をつけるのをためらいませんでした。弟子のシュトラスブルクのウルリヒ(Ulrich von Straßburg; Ulricus de Argentina 1220頃-1277年)は彼を「われらの時代の驚異かつ奇跡」と呼んだのです。
 13世紀初頭ドイツに生まれたアルベルトゥスは、若くしてイタリアのパドヴァに赴きました。パドヴァは中世のもっとも有名な大学の一つのあった場所です。彼はいわゆる「自由学芸」の勉学に励みました。自由学芸とは、文法学、修辞学、弁証論、算術、幾何学、天文学、音楽という一般教養です。このことは彼の自然科学への特別な関心を示します。自然科学は間もなく彼が好んで専門とする分野となりました。パドヴァにいる間、ドミニコ会の教会に通った彼は、やがて修道誓願を立ててこの会に入りました。伝記資料から、アルベルトゥスがこの決断をゆっくりと深めていったことが分かります。神との深い関係、ドミニコ会修道士の聖性の模範、聖ドミニクスの後継者として「説教者兄弟会」を指導したザクセンの福者ヨルダヌス(Jordanus de Saxonia; Jordan von Sachsen 12世紀末-1237年)の説教を聞いたこと――これらが、家族の抵抗に打ち勝つことを含め、あらゆる疑いを乗り越えるために助けとなった決定的な要素です。青年期に、神はしばしばわたしたちに語りかけ、わたしたちの人生の計画を示してくださいます。アルベルトゥスと同じく、わたしたち皆にとっても、主のことばに養われた個人的な祈り、しばしば秘跡にあずかること、優れた指導者から霊的指導を受けることは、神の声を見いだし、これに従うための助けとなります。アルベルトゥスはザクセンの福者ヨルダヌスから修道衣を受けました。
 司祭叙階の後、長上はアルベルトゥスをドミニコ会司祭の修道院に付設された神学院での教育のために派遣しました。アルベルトゥスは優れた知的能力により、当時のもっとも有名な大学であるパリ大学で神学研究を完成することができました。それ以降、聖アルベルトゥスは著作家としての特別な活動を開始し、全生涯、この活動を続けました。
 アルベルトゥスは重大な任務を与えられることになります。1248年、彼はケルンの神学研究機関の開設をゆだねられます。ケルンはドイツでもっとも重要な行政庁所在都市の一つです。アルベルトゥスはその後このケルンに住み、それを自分の町としました。アルベルトゥスはパリから特別な弟子であるトマス・アクィナスを連れて来ました。聖トマスの教師であったということだけで、聖アルベルトゥスへの感嘆の念を深めるには十分です。この二人の偉大な神学者は互いに尊敬と友愛の関係を築きました。この人間的態度は学問の発展を大いに助けました。1254年、アルベルトゥスはドミニコ会司祭のテウトニア管区(Provincia Teutoniae)管区長に選ばれました。テウトニア管区は中央・北ヨーロッパの広大な領域に広がるドミニコ会共同体を包括していました。アルベルトゥスはこの任務を熱意をもって果たすことにおいて際立ちました。彼は諸共同体を訪問し、聖ドミニクスの教えと模範に忠実に従うよう兄弟たちに常に求めました。
 アルベルトゥスの才能は当時の教皇アレクサンデル4世(Alexander IV 在位1254-1261年)にも知られるところとなりました。教皇はアルベルトゥスがある期間アナーニ(教皇は同地を頻繁に訪れていました)、ローマ、そしてヴィテルボで自分に同行することを望みました。それは彼から神学的助言を受けるためです。同じ教皇はアルベルトゥスをレーゲンスブルク司教に任命しました。レーゲンスブルクは大きく有名な教区でしたが、当時難しい状態にありました。アルベルトゥスは1260年から1262年までたゆまぬ献身をもってこの任務を果たしました。そして、レーゲンスブルクの町に平和と一致をもたらすことに成功し、小教区と修道院を再組織し、愛のわざに新たな刺激を与えました。
 1263-1264年、アルベルトゥスは教皇ウルバヌス4世(Urbanus IV 在位1261-1264年)の命でドイツとボヘミアで説教し、やがてケルンに戻り、教育、研究、著述の仕事を再開しました。祈りと学問と愛の人であったアルベルトゥスは、当時の教会と社会のさまざまな問題に対して大きな権威をもって発言しました。彼は何よりもケルンにおいて和解と平和の人となりました。ケルンにおいては大司教が町の行政機関と激しく対立していたからです。アルベルトゥスは1274年の第2リヨン公会議の進展のため尽力しました。第2リヨン公会議は、1054年の東西教会の大分裂の後、ラテン教会とギリシア教会の一致の推進のために教皇グレゴリウス10世(Gregorius X 在位1271-1276年)によって招集されたものです。アルベルトゥスはトマス・アクィナスの思想も明示しました。トマス・アクィナスは、反対と、さらには不当な断罪の対象になったからです。
 アルベルトゥスは1280年、ケルンの聖十字架修道院の修室で亡くなりました。そしてただちにドミニコ会員から崇敬されるようになりました。教会は1622年の列福、そして1931年の列聖をもってアルベルトゥスを信者の崇敬の対象として示しました。列聖の際、教皇ピウス11世(Pius XI 在位1922-1939年)は彼を教会博士と宣言しました。この偉大な神の人、また優れた学者を再認識することが適切であるのは間違いありません。彼の学問は信仰の真理だけでなく、他の多くの知的分野にも及ぶものでした。実際、アルベルトゥスの数多くの著作の標題を一瞥するなら、彼の教養が並はずれたものであり、その百科全書的関心によって、彼が同時代人と同じく哲学と神学だけでなく、当時知られていた他の学科にも携わるよう導かれたことを理解できます。それは、物理学から化学、天文学から鉱物学、植物学から動物学にまで及びました。そのため教皇ピウス12世(Pius XII 在位1939-1958年)はアルベルトゥスを自然科学研究者の保護者とし、その関心と知識の広大さのゆえに、彼を「全科博士(Doctor universalis)」とも呼んだのです。
 たしかに、聖アルベルトゥス・マグヌスが用いた科学的方法は、後の時代に認められた方法とは異なります。彼の方法は単純に、観察と、記述と、研究した現象の分類から成るものでした。しかし、そこから彼は将来の研究に扉を開いたのです。
 アルベルトゥスは今なおわたしたちに多くのことを教えてくれます。何よりもまず、聖アルベルトゥスは、信仰と科学は対立しないことを示します。たとえ歴史の中でいくつかの誤解に基づく出来事があったとしてもです。聖アルベルトゥス・マグヌスと同じように、信仰と祈りの人は落ち着いた心で自然科学の研究を行い、物質に固有の法則を発見することによって、小宇宙と大宇宙に関する認識を広げることができます。なぜなら、これらのことは皆、神への渇きと愛を満たすのに役立つからです。聖書は最初のことばである創造のわざについてわたしたちに語ります。この創造のわざを通して、最高の知性(ロゴス)である神はわたしたちにご自身について何ごとかを現します。たとえば知恵の書はいいます。偉大さと美しさを帯びた自然現象は、芸術家の作品のようです。自然現象を通して、わたしたちは類比により、被造物を造られたかたを知ります(知恵13・5参照)。中世とルネサンスの古典的な比喩によって、わたしたちは自然世界を神が書いた書物になぞらえることができます。わたしたちはこの書物を科学のさまざまな方法に基づいて読むのです(教皇ベネディクト十六世「教皇庁自然科学アカデミー総会参加者への演説(2008年10月31日)」参照)。実際、聖アルベルトゥス・マグヌスの後に続いて、どれほど多くの科学者が、世界への驚異と感謝に促されながら研究を進めたことでしょうか。研究者と信仰者の目で見るなら、世界は知恵と愛に満ちた創造者が造った優れた作品に見えましたし、今もそう見えるのです。そこから、科学的研究は賛美の歌へと変わります。列福手続きが行われている現代の偉大な宇宙物理学者、エンリコ・メディ(Enrico Medi 1911-1974年)はこのことをよく理解していました。彼はこう述べます。「ああ神秘に満ちた銀河よ。・・・・わたしは汝を見、計測し、理解し、研究し、発見し、洞察し、受け入れる。わたしは汝から光をとらえて、科学的研究を行い、運動をとらえて学問を行い、色彩のきらめきをとらえて詩を作る。わたしは汝、星を手につかみ、わが存在を一つにしてうち震えながら汝を汝を超えたところに上げる。そして、祈りをもって汝を創造主へと導く。このかたのみを、汝、星はわたしを通してあがめることができるからだ」(『著作――被造物への賛歌』:Le opere. Inno alla creazione)。
 聖アルベルトゥス・マグヌスは、科学と信仰は友好関係にあることを思い起こさせてくれます。科学者は、自然研究への召命を通じて、魅力的な本物の聖性への道を歩むことができるのです。
 アルベルトゥスの開かれた精神は、彼が取り組んで成功した文化的活動にも示されます。すなわち、アリストテレスの思想の受容と評価です。実際、聖アルベルトゥスの時代、このキリスト紀元前4世紀に生きた偉大なギリシア哲学者の多くの著作が広く知られるようになりました。それはとくに倫理学と形而上学の分野においてです。アリストテレスの著作は、理性の力を示し、現実の意味と構造、現実の理解可能性、人間の行為の価値と目的を、明晰判明に説明しました。聖アルベルトゥス・マグヌスは中世の哲学と神学におけるアリストテレス哲学の完全な受容への扉を開きました。この受容は後に聖トマスによって決定的な形で遂行されることになります。この、いわばキリスト教以前の異教的哲学の受容は、当時にあって真の意味での文化的革命でした。とはいえ、多くのキリスト教思想家は、非キリスト教的哲学であるアリストテレス哲学を恐れました。何よりも、アリストテレス哲学は、アラブの注解者が提示した形では、少なくともいくつかの点において、キリスト教信仰とまったく相容れないと思われるしかたで解釈されたからです。そこで、信仰と理性は互いに対立するのか、しないのかという難問が生じました。
 聖アルベルトゥスの偉大な功績の一つはこれです。彼は学問的厳密さをもってアリストテレスの著作を研究し、真に理性的なことがらはすべて、聖書に啓示された信仰と両立することを確信しました。いいかえれば、聖アルベルトゥス・マグヌスはこのようにして自律した哲学の形成に寄与しました。この哲学は、神学と区別され、真理における一致のみによって神学と結びつけられます。こうして13世紀に哲学と神学という二つの学の明確な区別が生まれました。哲学と神学は、互いの対話を通して、人間の真の召命の発見のために一致・協力します。人間の真の召命とは、真理と至福への渇望です。聖アルベルトゥスは神学を「情意的学」と呼びました。何よりもこの神学が、人間に永遠の喜びへの招きを示します。永遠の喜びは真理との完全な一致からほとばしり出るからです。
 聖アルベルトゥス・マグヌスはこうした考えを単純に分かりやすく伝えることができました。聖ドミニクスのまことの子であった彼は、神の民に進んで説教を行いました。神の民は彼のことばと生活の模範にいつも心を引き寄せられたのでした。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。主に祈りたいと思います。聖なる教会に、聖アルベルトゥス・マグヌスのような学識と敬虔と知恵に満ちた神学者が欠けることなく与えられますように。聖アルベルトゥス・マグヌスの助けによって、わたしたちが、彼が生涯従った「聖性の定式」を自分のものとすることができますように。彼の「聖性の定式」とはこれです。「神がお望みになるすべてのことをご自身の栄光のために望まれるように、自分が神の栄光のために望むすべてのことを望むこと」。すなわち、いつも神の栄光のためにのみ万事を望み、かつ行えるように、いつも神のみ心と一致することができますように。

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