教皇ベネディクト十六世の218回目の一般謁見演説 四旬節の歩みの頂点である、聖なる過越の三日間の意味

3月31日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の218回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「四旬節の歩みの頂点である、聖なる過越の三日間の意味」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 わたしたちは聖なる日々を過ごしています。この聖なる日々は、わたしたちのあがないのための中心的な出来事を黙想するよう招きます。あがないはわたしたちの信仰の本質的核心だからです。明日から、聖なる過越の三日間が始まります。聖なる過越の三日間は典礼暦年全体の要です。この三日間、わたしたちは沈黙と祈りへと招かれます。それは主の受難と死と復活の神秘を観想するためです。
 教父たちは説教の中でこの聖なる過越の三日間にしばしば言及しました。たとえば聖アタナシオス(Athanasios 295頃-373年)は『復活祭書簡』の一つの中で、わたしたちを「新しい始まり、すなわち、主がご自身をささげた聖なる過越の日をわたしたちに知らせる時期」(『復活祭書簡』:Epistulae paschales 5, 1-2, PG 26, 1379)へと導き入れます。
 それゆえわたしは、この日々を集中した心で過ごしてくださるよう勧めます。それは、自分の生活を、わたしたちのために死んで復活されたキリストに、惜しみない心で確信をもって一致するよう方向づけるためです。
 聖なる過越の三日間の前奏となる、明日の聖木曜日の午前に行われる聖香油のミサでは、司祭たちがそれぞれの司教とともに集まります。通常、教区の司教座聖堂で行われる意義深い感謝の祭儀の中で、病者の油、洗礼志願者のための油、そして聖香油が祝福されます。さらに司教と司祭は、司祭叙階の日に行った司祭の約束を更新します。この行為は今年、特別に重要な意味をもちます。なぜなら、それはアルスの聖なる主任司祭の没後150周年を記念するためにわたしが宣言した「司祭年」の中で行われるからです。『「司祭年」開催を告示する手紙』の終わりに述べた勧めを、すべての司祭の皆様に繰り返して申し上げたいと思います。「アルスの聖なる主任司祭の模範に従いながら、キリストに捕らえられようではありませんか。そうすれば、皆様は現代世界にあって希望と和解と平和の使者となれるのです」。
 明日の午後、わたしたちは聖体が制定された時を記念します。使徒パウロはコリントの信徒にあてた手紙の中で、初期のキリスト信者に聖体の神秘の真理を確言します。パウロは自分が受けたことを彼らに伝えます。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしのからだである。わたしの記念としてこのように行いなさい』といわれました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』といわれました」(一コリント11・23-25)。このことばははっきりとキリストの意図していたことを示します。キリストは、パンとぶどう酒の形態のもとに、新しい契約のいけにえとしてささげられたからだと、流された血とともに、現実に現存します。同時にキリストは使徒とその後継者をこの聖体の秘跡の奉仕者として立てます。キリストは聖体の秘跡をご自分の愛の最高のあかしとして教会にお与えになるからです。
 さらにわたしたちは、意味深い典礼によって、イエスが使徒たちの足を洗われたというわざを思い起こします(ヨハネ13・1-25参照)。福音書記者にとって、このわざはイエスの全生涯を代弁するものとなります。それはイエスのこの上ない愛を示します。この限りない愛は、人間が神との交わりに入ることを可能にし、そこから人間を自由にします。聖木曜日の典礼の終わりに、教会は至聖なる聖体を、特別に準備した場所に安置します。この場所は、イエスのゲツセマネでの孤独と死の苦しみを表します。信者は聖体の前で、孤独の時を過ごされたイエスを仰ぎ見ながら、世のあらゆる孤独がなくなりますようにと祈ります。しかし、この典礼の道は次の招きでもあります。祈りのうちに主と親しく出会いなさい。孤独な人々のうちにイエスを見いだしなさい。イエスとともに目覚めて祈りなさい。そして、自分のいのちの光をイエスに宣言できるようになりなさい。
 わたしたちは聖金曜日に、主の受難と死を記念します。イエスは人類の罪のゆるしのためにご自分のいのちをささげることを望まれました。そして、そのために、十字架につけられるという、もっとも残酷でみじめな死を選ばれました。最後の晩餐とイエスの死の間には切り離しがたいつながりがあります。まず、イエスはご自分のからだと血、すなわちご自分の地上の生涯を、自分自身をささげます。こうしてイエスはご自分の死を先取りし、この死を愛のわざに造り変えます。そこからイエスは、本来は終わりであり、あらゆる関係の破壊である死を、ご自身を伝えるわざに変えました。死は救いの道具となり、愛の勝利を告げるものとなったのです。この意味で、イエスは最後の晩餐の意味を理解するための鍵となりました。最後の晩餐は、進んでいけにえをささげることによって、すなわち、世をあがない、救う愛のわざによって、残酷な死を変容させることの先取りなのです。
 聖土曜日は深い沈黙によって特徴づけられます。教会には何の飾りもなく、特別な典礼も行われません。この期待と希望の時の中で、信者は祈りと内省と回心へと招かれます。またそのためにゆるしの秘跡にあずかります。それは、内的に新たにされた状態で復活の祭儀にあずかれるためです。
 聖土曜日の夜、「すべての徹夜祭の母」である荘厳な復活徹夜祭の中で、この沈黙がアレルヤの歌声によって破られます。この歌声はキリストの復活を告げ、光が闇に、いのちが死に打ち勝ったことを宣言します。教会は喜びのうちに主と出会い、主が死から復活して創始された復活節に入ります。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。間近に迫った聖なる過越の三日間を集中して過ごせるように自らを整えようではありませんか。それは、わたしたちのために死んで復活されたキリストの神秘により深くあずかれるようになるためです。至聖なるおとめがこの霊的な旅路をわたしたちとともに歩んでくださいますように。受難のイエスに従い、十字架のもとにおられたこのおとめが、わたしたちを復活の神秘へと導いてくださいますように。そしてわたしたちが、復活した主の喜びと平安を味わうことができますように。
 このような思いをもって、わたしは今から聖なる復活祭のごあいさつを、皆様と、皆様の共同体、そして愛するかたがたに申し上げます。

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