教皇ベネディクト十六世の219回目の一般謁見演説 キリストの復活の意味

4月7日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の219回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「キリストの復活の意味」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。謁見には21,000人の信者が参加しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 いつもの水曜一般謁見は、今日、復活祭の明るい喜びに満たされています。実際、この数日間、教会は復活の神秘を記念しながら、大きな喜びを味わっています。この喜びは、キリストが悪と死に打ち勝ったというよい知らせから生まれます。この喜びは、復活の八日間の間だけでなく、聖霊降臨の祭日までの50日間続きます。聖金曜日の悲しみと失望の後、また、聖土曜日の期待に満ちた沈黙の後、今やすばらしい知らせが告げ知らされます。「本当に主は復活して、シモンに現れた」(ルカ24・34)。世界史全体の中で、これは優れた意味での「よい知らせ」です。この「福音」は、世々を通じて、世代から世代へと告げられました。
 キリストの過越は、神の力が行われた最高のこの上ないわざです。それはまったく特別な出来事です。それは「神の神秘」が生んだ、もっともすばらしく完全な実だからです。それはあまりに特別な出来事なので、ことばで言い表すことができません。その大きさは、わたしたち人間が認識し、探究できる力を超えるからです。にもかかわらず、それは証言され、書き記された、現実の「歴史的」事実です。それはわたしたちの信仰の基盤となる出来事です。それはわたしたちの信仰の中心的な内容であり、根本的な理由です。
 新約はキリストの復活が実際に行われた姿を記さずに、復活後のイエスご自身と出会った人々の証言を伝えるだけです。3つの共観福音書は語ります。この知らせ(「あのかたは復活された」)は、まず幾人かの天使によって告げられました。それゆえ、この知らせは神からもたらされたのです。しかし、神はこの知らせをすぐにご自分の「使者」にゆだねます。それは、この知らせをすべての人に伝えるためです。こうして天使も、明け方に墓に来た婦人たちに、急いで行って弟子たちに告げるように命じました。「あのかたは死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(マタイ28・7)。このようにして、福音の婦人たちを通じて、神の命令はすべての人、また一人ひとりの人に届きます。それは、この人々も忠実に、勇気をもって、このすばらしく、喜ばしく、喜びをもたらす知らせを他の人に伝えるためです。
 親愛なる友人の皆様。そうです。わたしたちの信仰全体は、この「よい知らせ」を絶えず忠実に伝えることに基づいています。現代のわたしたちも、世々を通じてわたしたちに先立つ大勢の信者のゆえに、神に深く感謝したいと思います。それは彼らが、自分たちの受けた福音を告げ知らせるようにという根本的な命令に忠実に従ったからです。それゆえ、復活のよい知らせは、熱心に勇気をもってあかしを行うことを求めます。わたしたち一人ひとりも含めて、すべてのキリストの弟子は証人となるよう招かれています。これはまさに復活した主ご自身が命じた、果たすべき、刺激的な務めです。キリストに結ばれた新しいいのちについての「知らせ」を、キリスト信者の生活の中で輝かさなければなりません。この「知らせ」をもたらす人のうちで生き生きとした形で実現しなければなりません。この「知らせ」は、心と人生全体を造り変えることができるからです。この「知らせ」は何よりもまず生きています。なぜなら、キリストご自身が、この「知らせ」の生きた魂として、それを生かしてくださるからです。聖マルコは福音書の終わりでこのことをわたしたちに思い起こさせてくれます。聖マルコはいいます。使徒たちは「出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らとともに働き、彼らの語ることばが真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(マルコ16・20)。
 使徒たちの経験は、わたしたちとすべての信者、すなわち福音を「告げ知らせる者」となるすべての弟子の経験でもあります。実際わたしたちも、主が、きのうも今日も、ご自身の証人とともに働いてくださることを確信しています。このことをわたしたちはいつでも認めることができます。すなわち、わたしたちが真の永続的な平和の種が芽生えるのを見いだすときに。また、キリスト信者と善意の人々が、正義の尊重、忍耐強い対話、他の人々への確信に満ちた尊敬の念、無私の心、個人と共同体の犠牲に基づいて行動する模範を示しているところで。残念ながら、世界の中には多くの苦しみと暴力と誤解も見られます。わたしたちは過越の神秘を祝っています。すなわち、神の愛の力によって罪と死に打ち勝ったキリストの復活を喜びをもって観想しています。このことは、ますます深い確信をもって、わたしたちが復活した主に信頼していることを再発見し、宣言するためのよい機会でもあります。主はみことばをあかしする人々とともに歩み、彼らとともに不思議なわざを行ってくださるからです。本当に完全な意味で、復活したイエスの証人となるために、わたしたちはイエスの愛の不思議なわざを自分自身を通して目に見えるものとしなければなりません。ことばにおいて、さらに行いにおいて福音に完全に従うことを通じて、人々がイエスご自身の声と手を見いだせるようにしなければなりません。
 それゆえ、主はわたしたちをご自分の証人として至るところに遣わされます。しかしわたしたちは、絶えず過越の経験という基準から出発することによって、初めて主の証人となれるのです。この過越の経験を、マグダラのマリアは、他の弟子たちに告げたことばの中で、こう言い表します。「わたしは主を見ました」(ヨハネ20・18)。復活した主とのこの個人的な出会いこそが、わたしたちの信仰のゆるぎない基盤、中心的な内容です。これこそがわたしたちの希望の新鮮で尽きることのない源泉です。これこそがわたしたちの愛を燃え上がらせる力です。そこから、わたしたちのキリスト教的生活も、わたしたちが告げ知らせることと完全に一致します。わたしたちが告げ知らせることとは、これです。「主キリストはまことに復活された」。ですから、キリストの復活のすばらしさに捕らえられようではありませんか。おとめマリアがそのご保護によってわたしたちを支え、わたしたちが復活の喜びを完全に味わえるよう助けてくださいますように。それは、わたしたちもすべての兄弟に復活の喜びをもたらすことができるためです。
 あらためて皆様に申し上げます。ご復活祭おめでとうございます。

PAGE TOP